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01 プロローグ

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 懐かしい夢を見た。見覚えのある美しい女性。端正な顔に朗らかな笑みを浮かべる男性。石壁を背に、彼らに目を向けられる自分は。
「……あ」
 ぱちりと夢から覚めた途端に、何を見ていたのか忘れてしまう。何かとても大切なことだったような。
「……」
 レースのカーテンが月明かりに照らされている。窓の外は闇に染まり、満ち始めた楕円の月と目が合い、ゼノは再び眠りについた。


 豊かな緑と穏やかな海に囲まれ、霊峰の麓に建国された聖プレガーレ王国。背に聳える山間の大聖堂を信仰の標とし、敬虔な信徒達の住まう国。
 プレガーレに生まれたゼノも幼い頃から神の存在を教え込まれてきた。物心つく前から寝物語に聞かされたものが神話だった。
 子供向けに童話へ手直しされたそれは、神の創りしこの世界へいつからか現れた魔性の王。世界を破滅へ導く邪悪を封じる為に天から遣わされし聖なる乙女と、彼女の祝福を受け剣となり盾となった騎士達。彼らの活躍により悪はその身を十三に分け砕かれ、世界各地に封じられた。
 童話はこれでお終いだが、神話には続きがある。聖女は天へ戻ったが、魔王の封印を守り力を強める聖なる祈りを捧げる旅――巡礼をする為に、彼女の魂は現世に生まれ帰ってくる。
 毎年行われる、救世主たる聖女と彼女を遣わした神への感謝を伝え祝う祝祭である『聖女降臨の儀』に、巡礼が必要な時は兆しが見えるという。
 聖女降臨の儀が一週間後に迫ると、貴族も聖職者も平民も。位に関係なく忙しい。騎士であるゼノも都の警備をする目を、いつもより光らせる必要がある。
「降臨の儀、もうすぐね。ねぇ、ちょっとくらい一緒に街を回る時間、あるわよね」
 祭の日は街中に屋台が並ぶ。食べ物は勿論、聖女神話にちなんだ土産物も多く、他所から訪れる観光客は勿論、街の住人も楽しみにしている。食卓を囲み、毎朝同じことを聞いてくる双子の妹のベルナデッタに苦笑しながら頷く。
「休憩時間はあるから。ちょっとだけなら付き合えるよ」
「ふふ。楽しみ!」
「……別に俺と回らなくても、ベルと二人で祭に行きたい奴は大勢いるだろ」
「私はゼノがいいの」
 無邪気に笑う妹は、明るい笑顔のよく似合う、蜂蜜のような金髪と空色の瞳の美しい女性だ。兄の贔屓目がなくとも街中の男は彼女に夢中で、ベルの働くパン屋は客が絶えないらしい。
 外見の色彩は同じでも、双子だというのに顔立ちは似ていない。ベルは端正な顔立ちをしていた父に似たが、ゼノは目立つもののない母に似て地味な顔をしている。二人が兄妹だと知らない人間が見れば、血縁者だとわからないだろう。
「もう行くよ。今日のパンも美味しかった。アマンダさんにお礼を言っておいて」
「うんっ! 行ってらっしゃい、ゼノ」
 朝食を済ませたゼノはベルへ声を掛けて席を立つと、身支度を済ませる。アマンダはベルの働くパン屋の女将で、二人が十歳の頃に両親を揃って事故で亡くして以来、何かと気に掛けて面倒を見てくれた。その恩を返そうとアマンダの店で働き始めたベルに、給金は勿論だがパンも分けてくれる。世話になりっぱなしだった。
 家を出ると、街の治安を守る騎士の詰所の建てられた中央区へ歩き始める。朝早くから支度を始めている店がいくつかあるが、どこも楽しそうに動き回っている。
 聖女降臨の儀が近付くと信徒達の心は浮き足立つ。祭の出し物を待ちわびるのは子供達だけの特権ではなかった。
「ゼノ。おはよう」
 背後から声が掛かり、振り返ると長く伸ばされた黒髪から緑の目が覗く、端正な顔立ちの青年が微笑み、手を振っていた。ゼノの同僚であり、同じ年に生まれ育った幼馴染みであるユーグだ。
「おはよう。今日は早いね」
「やっと夜勤が終わったからな。ゼノは明後日からだっけ?」
「うん。明日休みで、それから祭までは夜勤だよ」
 自然と並んで歩き始めれば、他愛のない世間話が始まる。最近の話題といえば一つしかない。
「祭、どうするんだ?」
「……えっと、休憩時間はベルと回るよ」
「妹のお守りか。もう十六なんだし、いつまでもベタベタしてなくていいんじゃないのか」
 プレガーレの成人年齢は十八だが、親を亡くしたゼノとベルは早い自立を求められた。幼いベルが家事を覚えている間、ゼノは子供でも雇ってくれる仕事を探して朝から晩まで働いて回っていたが、そんなもので暮らしていける筈がない。両親と交流のあった隣人の好意に支えられ、無事に生きてこられたのだ。
 周囲の大人がどれだけ優しく親身になってくれても、ゼノの家族はベルだけだった。ベルも同じだ――と言いたいが、ベルには彼女を何よりも大切にしようと寄り添ってくれる存在が多く現れた。
 ゼノの隣を歩く男もそうだ。昔からベルにちょっかい掛けてばかりで、ベルのことしか見ていない。パン屋のアマンダも、夕食のお裾分けをしてくれる隣の家のご婦人も。可愛いベルが困っているから助けてやりたくて、ゼノはついででしかない。
 暗い思考に沈み、言葉のなくなったゼノにユーグは別の話題を振ってくれた。最近街中で怪しい人影を見たという通報が多いらしい。
「祭の前後は皆油断してるからな。盗人が動きやすくなる。盗み以外にも気が大きくなって不埒なことをする馬鹿も多い時期だし、ゼノも気を付けろよ」
「うん」
 話しているうちに詰所に着き、二人は中へ入っていく。所属が違うので途中で別れ、ゼノは魔術師の待機室へ向かった。
 ユーグは剣や槍を武器に肉弾戦を主とする、人々のイメージ通りの騎士だが、ゼノは剣を手にするものの魔術で敵を攻撃したり、仲間の補助を役目とする。十三の時に騎士見習いになったゼノも、初めはユーグのような騎士となるつもりだった。しばらく訓練をしていると、魔術に対する適正があると教えられ、特に拘りがあった訳ではないので魔術師団の一員となった。
 魔術だけが使えればいいということはなく、魔術師も咄嗟の対処が出来るよう剣術を叩き込まれる。基礎的な訓練は騎士と変わらず、魔術訓練も行われた。魔術も使える騎士、といった所か。
 同じ騎士団に所属しており、魔術師達も一纏めに騎士と呼ばれる。制服の右腕についた腕章の色で役割を示しているが、どちらが優れているという優劣を付けられるものではない。
 ユーグは整った美貌と恵まれた体躯、そして武術の才能を持ち、ゼノと同年代の中では一番目を掛けられている。将来は騎士団を背負い立つ人物になるだろうと噂される幼馴染みと違い、ゼノには特出した才能がない。魔術の素養も一般人よりは適正があるだけで、同僚達と比べれば平凡だ。
 可愛い妹や優秀な幼馴染みと違い、誇れる何かを持たないゼノは、誰にも必要とされない。ただ人生を消費して、ひっそりと生きて死ぬ。それだけだった。


 夜間巡回は基本的に騎士と魔術師で二人一組になり、街を見て回る。休み明けから夜勤当番になったゼノは騎士と共に夜の街を歩く。他にも数組の騎士が街を見回り、何かあれば詰所へ連絡が行き必要があれば他の騎士に応援要請が掛かる。
「祭前だってのにわりと静かだな。一暴れ、いや三暴れくらい出来るかと思ったぞ」
 今日の相棒は筋肉量の凄さが一目でわかる、大柄な騎士だった。つまらなそうに唇を尖らせる彼を「何もないのが一番ですよ」と窘める。
「……あ、でも、最近怪しい人影をよく見るって噂がありますよ」
「んだと! 何処だ?」
「いや、噂で……あっ、待って!」
 頭の中も筋肉で出来ているのか、人の話を最後まで聞いていないのか。何処かへ駆け出した相棒を追い、ゼノも駆ける。
 訓練時間の全てを武術訓練に回している騎士は体力があり、相棒を見失ったゼノは路地裏に入り込み、乱れた息を整えていた。
「……はっ、……は、はぁっ……もう、何なんだよ……」
 何か事件があった訳でもないのにすっかり疲れてしまったゼノは、落ち着きを取り戻すと相棒の騎士を探すべく路地へ出る。辺りに目をさまよわせ、耳を澄ませた。うるさい男なのですぐに見つかるだろう。
「……ん?」
 ゼノの立つ路地は川を挟んだ反対側にも同じような造りの路地、その後ろに家屋が建ち並ぶ。向こう岸に一人、誰かが立っていた。
 暗くてはっきりと見えないが、相棒の騎士にしては線が細い。じっと見つめていると相手もゼノに気が付いたらしく、路地の端、川縁まで歩を進める。
 何故かゼノの足も動いて、川を挟み二人は互いを見つめ合った。
 綺麗な女だった。可愛いというよりは美しい、切れ長の瞳は血のように赤く、白銀のような髪は月光に照らされ輝いている。
 人形のように凛と整った顔は、ゼノを見ると小さく微笑んだ。澄ましていた顔に表情が乗ると、愛らしさが生まれる。
 その顔をゼノは知っている気がした。
「……きみ、こんな時間にどうしたんだ。夜中に女の子が一人で歩くものじゃないよ」
 現在時刻は子供は勿論、大人も眠りについている頃だ。外をぶらつくのは酒に酔った男や娼婦くらいで、一瞬彼女もそうかと思ったが娼婦にしては服装がしっかりしている。男を誘いやすくする為に裸に近い格好をする彼女達と違い、目の前の女性はしっかり隙なく服を着込んでいる。旅装に見えた。
「探しものをしていたのよ」
 りんと、鈴の鳴るような声がした。彼女のものだとわかると、存外可愛い声なのだと思った。
「もう見つかったから。帰るわ。ありがとう」
 彼女はそう言って、長い髪を翻し路地裏へ去っていく。一人の女性を放っておく訳にはいかないと橋へ向かって駆け出し、彼女の消えた路地裏へ入っていったゼノは角を曲がり。
「うおっ!」
「うわっ」
 人とぶつかった。ゼノを置いて何処かへ走り去っていた相棒の騎士だった。分厚い胸板に顔をぶつけ倒れ、尻餅をつくゼノと違い相手はびくともしない。
「いてて……あれ、女の人見なかった?」
「あ? 見てねぇよ。何もいなくてお前探してたら、お前がぶつかって来やがっただけだ」
「ごめ……いや、勝手に走り出す貴方が悪いんでしょう」
「おう。悪い悪い。街ん中一回りしたけどよ、何もないぜ今日は。帰ろうぜ」
 言われたゼノは頷き、詰所へ向けて歩き出した。騎士もそれに並び、見回りの様子を教えてくれる。
 酔っ払いの喧嘩も客にごねられる娼婦もおらず、本当に平和で静かだったらしい。怪しい人影もなく、つまんねぇとぼやいている。
「お前は女を見たんだったか。何かしてたのか?」
「探し物をしてたけど見つかったって。こんな時間だから送っていこうと思ったんだけど、いつの間にか何処かへ行ってしまって」
「何かあればキャーって騒ぐだろ。それも問題なしってことにして……はぁ、本当に今日は暇だな」
 裏声を出して悲鳴を真似する様子に笑うと、ゼノの頭が小突かれる。けらけらと笑い話を続けながら帰っていく二人の背中を、路地裏から見送る目があった。
「……」
 血のように赤い視線は、ゼノにだけ注がれていた。
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