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ひとりきりの朝食を取ったあと、エルヴィンはいつもどおりに治癒室の手伝いをする。
田舎の小国とは違い、ここには最先端の治療のための書物や知識がある。エルヴィンはここで学ばせてもらう代わりに、シーツの交換や薬草の調合などの仕事をしているのだ。
エルヴィンは、井戸から冷たい水をすくい、時々水を足しながら洗い場で何枚ものシーツを洗っている。
これがなかなか時間のかかる作業で、エルヴィンは作業をしながら目の前に木製のイーゼルを立て、そこに専門書を置いてチラチラ視線をやりつつやっている。
見た目はどうであれ、勉強しながら雑用もこなせるという、素晴らしい技だと自分では思っている。
「あっ!」
風に煽られて本とイーゼルが倒れてしまった。エルヴィンが慌てて服で濡れた手を拭いて、イーゼルを立て直そうとしたときに、スッと目の前に手が差し伸べられた。
きめ細かな肌から爪の先まで整っている綺麗な手だった。荒れたところや傷ひとつない、美しい手だと思った。
その手が本を拾い、倒れたイーゼルを元の場所に立ててくれた。
「本を読みながら、仕事してるんですか? 面白いなぁ」
誰だろうと、エルヴィンがパッと顔を上げるとそこには美形の黒狼獣人が立っていた。
大きくて綺麗な弧を描く形のいい目。澄んだ青色の瞳に、汚れひとつない肌。艶やかな毛並みの黒い尻尾とよく動く愛嬌のある獣耳が可愛らしい。純真な白色の正装がよく似合い、どこか品がある雰囲気を漂わせていた。
間違えようがない。ルークの婚約者で公爵令息のアイルだった。
「手伝います。手、冷たいでしょ?」
アイルは無邪気に笑って、エルヴィンの洗っていたシーツに手を伸ばしてくる。
あの綺麗な手が、こんな冷たい水に触れたら荒れてしまうと咄嗟に思った。
「いっ、いえ、だっ、大丈夫ですっ、これは僕の仕事ですから……」
急いで断ると、その慌てた様子が滑稽だったのかアイルが笑う。
「だってあなたは王族ですよね? それなのにどうしてこんな下働きしてるんですか?」
「そっ、それは、僕が望んだことで……」
エルヴィンは王族だが、今まで王族扱いはされてこなかった。治癒師たちもエルヴィンを特別扱いなどしない。
エルヴィンに身の回りの世話をしてくれる従者はいない。ここの城の治癒師たちに学ばせてほしいと頼み込んだのもエルヴィンからで、その代わりとして仕事を引き受けているのだ。
「薬の調合か……勉強熱心なんですね」
アイルはエルヴィンが読んでいた本の表紙を見てから、本を手渡してきた。
そういえば、周囲にはアイルの従者もいない。アイルは従者を連れて歩かないのだろうか。
エルヴィンはアイルを遠くから見かけたことはあるが、こんなふうに話すのは初めてだった。
「本当に面白いな。他の妃候補の王族は威張って権利を主張してばかりなのに」
アイルはエルヴィンの隣にしゃがみ、「擦り合わせて汚れを落としているんですか?」と濡れたシーツに手を伸ばしてきた。
アイルに近づかれたときに、ふわっといい香りがエルヴィンの鼻をかすめる。優しくて甘い、とてもいい匂いだった。
「いっ、いいんですっ、うちは田舎の小さな国だから……」
エルヴィンは自分の国にいたときから、身の回りのことは自分でやってきた。王族といえども贅沢はできない立場だった。そんな事情は大国の公爵令息であるアイルには到底理解のできないことなのだろう。
「その慌てた顔。すごく可愛いです」
「えっ?」
アイルがさらに近づいてきて、鼻と鼻が触れた。
すぐ目の前にアイルの綺麗な顔があって、直視できなくて、エルヴィンは身を引き後ろに尻もちをついた。
「エルヴィンさま。そんなに驚かなくても。鼻と鼻を合わせるのはそんなに珍しいことではありませんよね?」
「へっ? そっ、そうですかっ?」
猫獣人にとって、挨拶で鼻と鼻を合わせることは親愛の証とされる。基本的には好きな相手にしかしないので、アイルに好意を持たれているのかと過剰に反応してしまった。
「これ、私が洗いますね」
アイルは躊躇なく桶の水の中に手を入れて、エルヴィンの仕事を代わってくれた。
「あ、ありがとうございます……」
「いいえ」
エルヴィンが礼を言うと、屈託のない笑顔が返ってきた。
アイルはなんて心優しいのだろう。見た目が美しいだけじゃなく、性格までいいとは非の打ち所がない。
この御方こそ王弟殿下の妃に相応しいなと思った。どこからどう見てもアイルはルークにお似合いだ。
「どう? 綺麗になったかな?」
アイルは洗ったシーツの汚れを確認しながら楽しそうだ。
「はい。綺麗になっています。あとは絞ってそこに干しています」
アイルとふたり、シーツを洗って干していく。いつもひとりでこなしている作業が、誰かが手伝ってくれるとこんなに早く、しかも話をしながら楽しく終わるものだと知った。
「あの、手伝ってくださりありがとうございます。なんにもお礼はできませんが……」
最後にもう一度、改まってアイルに礼を言うと、優しい手でぽんと頭に触れられた。さっきまでの水仕事のせいか、ひんやりとしたアイルの指がエルヴィンの額をかすめる。ほてった顔に、心地よい冷たさだった。
「じゃあ、お礼に抱きしめさせてもらってもいいですか?」
「えっ?」
驚いて目を丸くするエルヴィンに、アイルが手を伸ばしてきたときだった。
田舎の小国とは違い、ここには最先端の治療のための書物や知識がある。エルヴィンはここで学ばせてもらう代わりに、シーツの交換や薬草の調合などの仕事をしているのだ。
エルヴィンは、井戸から冷たい水をすくい、時々水を足しながら洗い場で何枚ものシーツを洗っている。
これがなかなか時間のかかる作業で、エルヴィンは作業をしながら目の前に木製のイーゼルを立て、そこに専門書を置いてチラチラ視線をやりつつやっている。
見た目はどうであれ、勉強しながら雑用もこなせるという、素晴らしい技だと自分では思っている。
「あっ!」
風に煽られて本とイーゼルが倒れてしまった。エルヴィンが慌てて服で濡れた手を拭いて、イーゼルを立て直そうとしたときに、スッと目の前に手が差し伸べられた。
きめ細かな肌から爪の先まで整っている綺麗な手だった。荒れたところや傷ひとつない、美しい手だと思った。
その手が本を拾い、倒れたイーゼルを元の場所に立ててくれた。
「本を読みながら、仕事してるんですか? 面白いなぁ」
誰だろうと、エルヴィンがパッと顔を上げるとそこには美形の黒狼獣人が立っていた。
大きくて綺麗な弧を描く形のいい目。澄んだ青色の瞳に、汚れひとつない肌。艶やかな毛並みの黒い尻尾とよく動く愛嬌のある獣耳が可愛らしい。純真な白色の正装がよく似合い、どこか品がある雰囲気を漂わせていた。
間違えようがない。ルークの婚約者で公爵令息のアイルだった。
「手伝います。手、冷たいでしょ?」
アイルは無邪気に笑って、エルヴィンの洗っていたシーツに手を伸ばしてくる。
あの綺麗な手が、こんな冷たい水に触れたら荒れてしまうと咄嗟に思った。
「いっ、いえ、だっ、大丈夫ですっ、これは僕の仕事ですから……」
急いで断ると、その慌てた様子が滑稽だったのかアイルが笑う。
「だってあなたは王族ですよね? それなのにどうしてこんな下働きしてるんですか?」
「そっ、それは、僕が望んだことで……」
エルヴィンは王族だが、今まで王族扱いはされてこなかった。治癒師たちもエルヴィンを特別扱いなどしない。
エルヴィンに身の回りの世話をしてくれる従者はいない。ここの城の治癒師たちに学ばせてほしいと頼み込んだのもエルヴィンからで、その代わりとして仕事を引き受けているのだ。
「薬の調合か……勉強熱心なんですね」
アイルはエルヴィンが読んでいた本の表紙を見てから、本を手渡してきた。
そういえば、周囲にはアイルの従者もいない。アイルは従者を連れて歩かないのだろうか。
エルヴィンはアイルを遠くから見かけたことはあるが、こんなふうに話すのは初めてだった。
「本当に面白いな。他の妃候補の王族は威張って権利を主張してばかりなのに」
アイルはエルヴィンの隣にしゃがみ、「擦り合わせて汚れを落としているんですか?」と濡れたシーツに手を伸ばしてきた。
アイルに近づかれたときに、ふわっといい香りがエルヴィンの鼻をかすめる。優しくて甘い、とてもいい匂いだった。
「いっ、いいんですっ、うちは田舎の小さな国だから……」
エルヴィンは自分の国にいたときから、身の回りのことは自分でやってきた。王族といえども贅沢はできない立場だった。そんな事情は大国の公爵令息であるアイルには到底理解のできないことなのだろう。
「その慌てた顔。すごく可愛いです」
「えっ?」
アイルがさらに近づいてきて、鼻と鼻が触れた。
すぐ目の前にアイルの綺麗な顔があって、直視できなくて、エルヴィンは身を引き後ろに尻もちをついた。
「エルヴィンさま。そんなに驚かなくても。鼻と鼻を合わせるのはそんなに珍しいことではありませんよね?」
「へっ? そっ、そうですかっ?」
猫獣人にとって、挨拶で鼻と鼻を合わせることは親愛の証とされる。基本的には好きな相手にしかしないので、アイルに好意を持たれているのかと過剰に反応してしまった。
「これ、私が洗いますね」
アイルは躊躇なく桶の水の中に手を入れて、エルヴィンの仕事を代わってくれた。
「あ、ありがとうございます……」
「いいえ」
エルヴィンが礼を言うと、屈託のない笑顔が返ってきた。
アイルはなんて心優しいのだろう。見た目が美しいだけじゃなく、性格までいいとは非の打ち所がない。
この御方こそ王弟殿下の妃に相応しいなと思った。どこからどう見てもアイルはルークにお似合いだ。
「どう? 綺麗になったかな?」
アイルは洗ったシーツの汚れを確認しながら楽しそうだ。
「はい。綺麗になっています。あとは絞ってそこに干しています」
アイルとふたり、シーツを洗って干していく。いつもひとりでこなしている作業が、誰かが手伝ってくれるとこんなに早く、しかも話をしながら楽しく終わるものだと知った。
「あの、手伝ってくださりありがとうございます。なんにもお礼はできませんが……」
最後にもう一度、改まってアイルに礼を言うと、優しい手でぽんと頭に触れられた。さっきまでの水仕事のせいか、ひんやりとしたアイルの指がエルヴィンの額をかすめる。ほてった顔に、心地よい冷たさだった。
「じゃあ、お礼に抱きしめさせてもらってもいいですか?」
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