近藤勇

えんがわわさび

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近藤勇

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 鬼副長、という言葉を最初に耳にしたとき、勇は、その言葉が誰のことを指しているのか、にわかには理解することができなかった。

 「土方さんのことに決まっているじゃないですか」

 あっけらかんと言い放つ沖田の言葉に、勇は愕然となった。

 「そりゃあれだけ隊士の非違に対して目を光らせていれば、鬼と呼びたくもなるでしょう」

 いったい何がおかしいのか、この青年はけらけらと笑いながらそう言った。こういった発言が批判めいて聞こえないのは、この青年の持つ天性の明るさによるものであろう。

 (トシが鬼? あの男が?)

 確かに二度目の隊士募集後、二百人を越すほどに膨れ上がった隊を律するため、局中法度により厳しくはなった。常に隊士らに目を光らせていることも知っている。だがその厳しさは、古参新参に関係なく、しかも平隊士であろうと幹部であろうと、みな平等に厳しく見られているのだ。何より当の土方自身が、誰より厳しく己を律し、局中法度に対し忠実であろうとしているではないか。

 「土方先生には情がない、という者もいますよ」

 沖田の言葉に怒気が弾けた。

 「ふざけるな!」

 障子紙を破かんばかりの怒声にも、沖田は涼しい顔をしている。

 「俺は奴ほど情に厚い男を知らん!」

 「なにしろ豊玉宗匠ですからねえ」

 そう言うと、耐えきれないとでもいうかのように、沖田は声をあげて笑った。
 
 豊玉宗匠。
 
 試衛館時代からいる古参の隊士であれば、誰もが知っている土方の俳号である。お世辞にも上手いとはいえないが、その句には、土方のもつあふれんばかりの人間臭さが滲み出ていた。沖田もそんな土方の人間臭い部分を好いている。

 「サンナンの死に最も心を痛めているのもあいつだ」

 サンナンとは、先日隊を脱走して捕まり、『局ヲ脱スルヲ許サズ』という隊規に反したとして切腹した元総長、山南敬助のことである。新撰組を結成する前から試衛館で共に過ごしてきた仲間の一人でもある。
 
 天然理心流を素地に、そのほか雑多な剣術を混ぜた喧嘩剣法の土方に対し、正統派で知られる北辰一刀流の、しかも江戸三大道場の筆頭に数えられる玄武館で免許皆伝の腕を持つ山南、寡黙で滅多に笑わず、他人と馴れ合うことをしない土方と、温和で人当たりがよく、女、子供からも慕われる山南。剣も性格も真反対のためぶつかることは少なくなかったが、そんな山南の剣や性格を、土方が密かに快く思っていたことを、勇は知っている。
 
 山南が脱走したことを知ったとき、土方は沖田を追っ手に出した。試衛館時代から弟のように可愛がられた沖田であれば、山南を見逃すだろうと期待したからだ。ところが土方の予想に反し、山南は沖田に伴われ戻ってきた。

 「馬鹿野郎! なぜ戻ってきた!」

 試衛館時代であればそう怒鳴って殴りつけていたに違いない。

 「しようがないじゃないですか。山南さんの方から私に声をかけてきたんだもの」

 土方の表情の変化――といってもそれがわかるのは沖田くらいのものだ――に沖田はばつが悪そうに頭をかいてそういった。

 「わかっている、お前に責はない」

 そう言うかのように、勇は沖田に目をやり頷いた。
 
 山南が沖田にともなわれ屯所に戻ってきたとき、助命を乞う隊士が大勢いた。むしろほとんど全ての隊士が山南の助命を乞うていたかもしれない。永倉や原田、藤堂らも土方の居室を訪れていた。だが、隊規に背いたものに例外はない。例え幹部といえど局中法度に背いた責は負わねばならない。
 
 結局土方は山南に切腹を命じ、沖田にその介錯を命じた。
 
 のちに聞いた沖田の話によれば、山南は、大津にある茶屋の前を通り過ぎようとする沖田に対し、自ら手を挙げ声をかけたそうだ。山南なりのけじめがあったのだろう。
 
 山南が切腹するときも眉ひとつ動かさない土方の様子を見ていた勇は、土方の心の痛みが手に取るように分かった。
 
 土方はその日、終日自室にこもり、誰も部屋に入れなかった。あれすらも、隊士たちには酷薄な鬼の姿にうつっていたというのだろうか。

 「俺はなんという馬鹿だ!」

 土方が嫌われ役を買って出ていることは気付いていたが、隊士たちから鬼と呼ばれるほどに疎まれているとは夢にも思っていなかった。いったいあの男は、自分のためにどれほどの泥をかぶっているというのか。

 「土方さんは近藤先生に心底惚れていますからねえ。もちろん私もですけど、あの人は先生のためならどんな泥だって被りますよ」
 
 こういう言葉を照れもせず、さらりと口にできるのは沖田くらいのものだろう。
 
 勇は立ち上がるとひとつ深いため息を吐いた。
  
 「……身体を労われよ、総司」
  
 沖田の部屋を後にした近藤はその足で道場へと向かった。朝稽古も終わり、当番の隊士は市中の巡回へ、非番の隊士は思いおもいに過ごしていて、道場のなかは誰もいない。勇はこうして、ときおり誰もいない道場に赴き剣を振るう。そうしなければ、剣客であるはずの自分を見失いそうになるのだ。
 
 壁に掛けられた木刀を手にとり、もろ肌脱ぎになる。
 
 不自然なほどに太い木刀は天然理心流に独特のもので、その重量も、真剣よりやや重い。近頃では竹刀による撃剣稽古が主流で、木刀を用いた型稽古はどの道場でもほとんど行われていなかったが、竹刀剣術に慣れてしまうと、いざ真剣を手に取ったとき、その重さに自らが振り回されてしまう。天然理心流は実戦を見据えた流派である。真剣よりも重い木刀を自在に扱えてこそ、真剣を己の手足のように扱えるようになるのだ。猛者の集まる新撰組でさえ、皆はじめのうちはその重さに振り回される。
 
 勇は正眼に構えると目を閉じ、深く息を吸いんだあと、ゆっくりと吐き出した。
 
 目を見開き木刀を振る。
 
 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 
 一振り一振りが、空気を裂くような鋭さである。が、気が充実していない。
 
 局内における剣の腕の席次は、沖田、永倉、斎藤の三人が筆頭である、というのが隊士たちの共通認識だった。事実、彼らは強い。が、古参の隊士たちであればみな、口を揃えて勇が最強だという。
  
 「真剣で立ち会えば、近藤さんに敵うやつあいねえ」
  
 というのが、剣の腕の話になったときの永倉の口癖だった。勇の強さの秘訣はなによりその気の充実にある。
 
 一心不乱に振るう。
  
 「心が乱れてるな、近藤さん」
  
 そう背後から声をかけたのは、土方だった。
  
 「トシ、いつからいた」
  
 「四半刻ほど前」
  
 息を弾ませ驚く勇に、悪びれることもなくこたえる。
  
 「総司のところに行ったらあんたが来てたっていうから、大方ここだろうと思ってな」
  
 土方は壁に掛けられた竹刀を二本とると、一本を勇に投げた。
  
 「久しぶりにどうだい、近藤さん」
  
 そういって土方は正眼に構えた。
  
 「俺に竹刀で立ち会えというのか」
  
 「ああ、竹刀なら負けやしないからな」
  
 勇は竹刀での立ち合いにめっぽう弱い。悪戯っぽく笑う土方に、勇も笑って応える。
  
 「ふん、いいだろう。久しぶりに稽古をつけてやる」
  
 果たして床に片膝を立てて座り込んでいるのは、土方だった。
  
 「稽古が足らんぞ、トシ」
  
 「ちっ、近頃忙しかったからな」
  
 面を取りながら言いわけする土方に、勇はふっと笑い、隣に腰をおろした。
 
 二人だけの道場に沈黙が流れる。
 
 勇は己が能弁な男ではないことを知っている。土方に対する感謝や慚愧の念が腹のなかで渦巻いているのだが、それが言葉になって喉から滑り出てくることがない。先日、参謀として迎え入れた伊藤甲子太郎であれば、この思いを余すことなく歌にするのだろう。だが、もし勇が仮にそういう男であれば、土方は勇に対し、これほどの思いを抱かなかったに違いない。
  
 「トシ、すまん」
  
 ようやく絞り出したのが、その一言であった。
  
 「よしてくれ、勝っちゃん」
  
 そういうと、土方は立ち上がり、さっさと道場を後にした。
  
 「ずいぶんと懐かしい呼び方をするじゃねえか」
  
 勇と土方には、二人の間にしか通じない言葉がある。
 
 ――気にするな、あんたはあんたの為すべきことを為せ。土方はそう言っているのだ。
  
 (ならば俺も、お前に恥じることのない俺であろう)
  
 勇は再び剣を構えると、上段からひとつ、打ち下ろした。
 
 先ほどまでとは違う、充実した一太刀であった。
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