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EP.1 ハニー・カフェ・コン・レーチェ
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珈琲派か紅茶派か。そう訊かれたら、別にどちら派でもない、というのが結実の答えだ。
珈琲も紅茶も、飲めるのであればどちらだってかまわない。無糖……、で飲めるほどまだ舌は大人になっていないので、砂糖やミルクは必須だが、逆をいえばそれらが入っているのならどっちだって飲める。
それでもしいて言うなら、珈琲派といったところか。社会人になってから、仕事の供に飲む事が増えた気がする。特に遅番や夜番の日は。ビジネスホテルのフロントマンとして働く結実にとって、深夜の時間帯にシフトが入るのは特に珍しい事ではない。眠気を吹き飛ばしてくれる珈琲は、結実には実にいい相棒だ。
とはいえ眠気が覚めればいいので、味はどうでもいい。この時ばかりは、苦手なブラックだって胃に収められる。真の珈琲派に聞かれたら、きっとうしろから刺される事間違いなしの飲み方だ。
そんな雑な珈琲派の結実でも、この時ばかりはさすがに『珈琲』の2文字に足を止める事となった。
理由は、目の前に突如として現れた看板、そこに書かれていた一文にある。
――『年神印の年の瀬珈琲、やってます』
「年神印……の、年の瀬珈琲?」
「なにそれ」と小さな疑問が結実の口からこぼれ落ちた。答える者がいない問いが、白い息となって冷たい冬の夜の空気に溶けていく。
謎の売り文句が書かれた看板を結実が見つけたのは、職場からの帰り道での事だった。
縦長の看板。ブラックボードに木製の枠と足を取り付けて作られたそれは、看板にしては控えめなほどに小柄で、オレンジ色に光る電球が取り付けられている以外は飾りっけらしい飾りっけもなかった。結実自身、下を見て歩いていなければ、気づかずに素通りしていたかもしれない。
いや、それ以前に、
(こんなところに、こんな看板なんてあったっけ)
朝も通った住宅街。社会人になってから、何年も歩き続けている道だ。二車線の道路を挟む形で歩道が敷かれており、住宅街にしては道幅が広い方といえる。そのせいか、陽がある内は抜け道として使われる事も多く、車や人通りが多い。駅からそこまで離れていない事も、理由の一つだろう。
通りの利便性を配慮してか街灯も多く、こんな夜更けの時間であっても周囲は明るい。
まだ起きている人々もいるのか、点々と窓から電気の光が漏れている家もあり、周囲は人の気配で満ちている。夜の闇特有の怖さはあまり感じられない。
まぁ、年末だもんね。起きてる人は初日の出まで起きてるか。ごーん、ごーん、と遠くの方で聞こえている除夜の鐘の音をBGMに、各家の窓から漏れる灯りを見て結実は得心する。学生だった頃は自分もそっち側だったなぁ、と数年前の記憶が思い出され、懐かしさで胸中をくすぐられた。
(てか年神って、あの年神様? お正月になったら、山からおりてくるっていう)
顔をあげ、看板が立てかけられているキッチングカーに結実は目を向けた。
歩道に寄り添うようにして停められた白色のキッチングカー。角が丸い長方形のフォルムの車で、後部が店になっているらしい。開け放たれたスライド式のドアの手前には、木製のカウンターが取り付けられており、その奥がキッチンスペースになっているのが結実の目につく。
カウンター上には、レジに加え、砂糖やミルク、使い捨てのマドラーやおしぼりに紙ミルク、といった珈琲ショップにありがちなアイテム達が入った緑の筒が置かれている。
店員は留守にしているのか、誰もいない車内に灯されたオレンジ色のルームランプが、カウンター上のアイテム達を静かに照らし出していた。
(移動型の珈琲店ってところかな)
それなら朝にはいなかったのも頷ける。日中にでもやってきて開店したのだろう。
だとしても、こんな夜中まで店を開いているというのは、少し珍しい気もするけど……――、そんな事を考えながら、結実がしげしげとキッチングカーを眺めていると、
「あら、お客さん?」
突如としてカウンターに、ひょこっと長い耳が生えた。
珈琲も紅茶も、飲めるのであればどちらだってかまわない。無糖……、で飲めるほどまだ舌は大人になっていないので、砂糖やミルクは必須だが、逆をいえばそれらが入っているのならどっちだって飲める。
それでもしいて言うなら、珈琲派といったところか。社会人になってから、仕事の供に飲む事が増えた気がする。特に遅番や夜番の日は。ビジネスホテルのフロントマンとして働く結実にとって、深夜の時間帯にシフトが入るのは特に珍しい事ではない。眠気を吹き飛ばしてくれる珈琲は、結実には実にいい相棒だ。
とはいえ眠気が覚めればいいので、味はどうでもいい。この時ばかりは、苦手なブラックだって胃に収められる。真の珈琲派に聞かれたら、きっとうしろから刺される事間違いなしの飲み方だ。
そんな雑な珈琲派の結実でも、この時ばかりはさすがに『珈琲』の2文字に足を止める事となった。
理由は、目の前に突如として現れた看板、そこに書かれていた一文にある。
――『年神印の年の瀬珈琲、やってます』
「年神印……の、年の瀬珈琲?」
「なにそれ」と小さな疑問が結実の口からこぼれ落ちた。答える者がいない問いが、白い息となって冷たい冬の夜の空気に溶けていく。
謎の売り文句が書かれた看板を結実が見つけたのは、職場からの帰り道での事だった。
縦長の看板。ブラックボードに木製の枠と足を取り付けて作られたそれは、看板にしては控えめなほどに小柄で、オレンジ色に光る電球が取り付けられている以外は飾りっけらしい飾りっけもなかった。結実自身、下を見て歩いていなければ、気づかずに素通りしていたかもしれない。
いや、それ以前に、
(こんなところに、こんな看板なんてあったっけ)
朝も通った住宅街。社会人になってから、何年も歩き続けている道だ。二車線の道路を挟む形で歩道が敷かれており、住宅街にしては道幅が広い方といえる。そのせいか、陽がある内は抜け道として使われる事も多く、車や人通りが多い。駅からそこまで離れていない事も、理由の一つだろう。
通りの利便性を配慮してか街灯も多く、こんな夜更けの時間であっても周囲は明るい。
まだ起きている人々もいるのか、点々と窓から電気の光が漏れている家もあり、周囲は人の気配で満ちている。夜の闇特有の怖さはあまり感じられない。
まぁ、年末だもんね。起きてる人は初日の出まで起きてるか。ごーん、ごーん、と遠くの方で聞こえている除夜の鐘の音をBGMに、各家の窓から漏れる灯りを見て結実は得心する。学生だった頃は自分もそっち側だったなぁ、と数年前の記憶が思い出され、懐かしさで胸中をくすぐられた。
(てか年神って、あの年神様? お正月になったら、山からおりてくるっていう)
顔をあげ、看板が立てかけられているキッチングカーに結実は目を向けた。
歩道に寄り添うようにして停められた白色のキッチングカー。角が丸い長方形のフォルムの車で、後部が店になっているらしい。開け放たれたスライド式のドアの手前には、木製のカウンターが取り付けられており、その奥がキッチンスペースになっているのが結実の目につく。
カウンター上には、レジに加え、砂糖やミルク、使い捨てのマドラーやおしぼりに紙ミルク、といった珈琲ショップにありがちなアイテム達が入った緑の筒が置かれている。
店員は留守にしているのか、誰もいない車内に灯されたオレンジ色のルームランプが、カウンター上のアイテム達を静かに照らし出していた。
(移動型の珈琲店ってところかな)
それなら朝にはいなかったのも頷ける。日中にでもやってきて開店したのだろう。
だとしても、こんな夜中まで店を開いているというのは、少し珍しい気もするけど……――、そんな事を考えながら、結実がしげしげとキッチングカーを眺めていると、
「あら、お客さん?」
突如としてカウンターに、ひょこっと長い耳が生えた。
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