7 / 11
Ⅱ. 学芸員、戸惑う
Ⅱ-Ⅱ
しおりを挟む
「練習です。学生時代の先輩の私物でして。修復するのを前提にお借りして、練習台にさせてもらっているんです」
「え⁉ 紙の本を持ってる知り合いがいるの⁉」
板部が驚きで大声をあげた。僕も思わず目を丸くし、二ノ前さんを見る。
紙の本がなくなって100年。未だ紙の本を愛する者はそれなりにいれど、実際に持っている者は多くない。かつては高くても数千円あれば買えたとされる紙の本も、今の時代においては破格の値がつく文化財なのだ。
一部の愛好家や収集家がいるにはいると聞くが、その数だってそう多くはないはずだ。
紙の本専門の学芸員と、人口はどっこいどっこいといったところだろう。
「亡くなったおじいさまの物なんだそうです」僕らの反応に苦笑まじりの声で二ノ前さんが言った。
「普段は蔵に仕舞ってあるのだそうですが、定期的に展示会への貸し出しなんかもしていて、出し入れが多い関係からか破損してしまうこともままあるんだそうです。その中でもあまり損傷が激しくないものをお借りして、僕の方で修復させてもらってるんです。今はちょうど、表紙の糊付けをさせてもらっていたところでした」
だから、あんなに本と糊のことを気にしていたのか、と先刻の二ノ前さんを思い出して納得する。
確かに糊を塗っている最中にあんなことが起きれば、慌てるのも致し方ないか。
掃除している間に、せっかく塗った糊が乾いてしまうかもしれないもんな。
「でも結局その糊付けも上手くいかないし、それどころかせっかくカミ代さんに用意してもらった糊すら台無しにする始末ですし……あぁ、どうして僕ってこうなんだろう。こうやってすぐに全てを台無しにする。いろんな人が僕のためにってやってくれたことを全部ダメにしてしまう」
「に、二ノ前さん?」
「本当、どの面下げて生きてるんだろう。どうせ糊塗れになるなら、そのまま床に顔を接着させとけばよかったのに。そうだ。どうしてそうしなかったんだろう。下げられる面なんてないんだから、一生床に頭をこすりつけて生きてるぐらいが僕にはちょうどいいんだ」
混乱する僕を置いて、ブツブツと早口で続けていく二ノ前さん。そのさまは、先刻の僕らに気づかずに頭を抱えていた時にそっくりだ。
……もしかしてこの人、普段から"こう"なのだろうか。
どうやら、自分が想像する云倍、アクが強い人だったようだ。
この状態じゃ、例の収蔵品の修復についてお願いすることは難しいかもしれない。ここは一旦帰って、カミ代さんという職員が戻ってきてから出直した方がよさそうだ。
というか、よく考えれば、ここに持ってきた時点で修復が行われることは確定なのだから、破損の経緯を告げる必要はないのでは。
何も言わずに去れば、あれを破損させたのが僕だと知られることなく、雑誌は無事に修復されて返ってくるんじゃないだろうか。
ちょうど板部も雑巾を洗い終えてこっちに戻ってきているところだし、帰るなら今だろう。
何も言わぬが花。卑怯だと言うなら、そう言え。
こっちには将来がかかっているのだ。誰だって自分が可愛い。
「僕は糊すらも使えない男……」
「あ、あの二ノ前さん。僕ら収蔵品も届けたので、ここら辺でそろそろお暇し、」
「え、耕閲。破損させた収蔵品のこと言わなくていいの?」
キョトンと不思議そうに、板部が僕の言葉を遮った。
……誰か、この男に空気を読むというスキルを教えてやってくれ。
板部の首根っこを掴んで、二ノ前さんから距離を取る。
そうして「どう見ても、今話せる状況じゃないだろっ」と小声で怒鳴れば、「えー」と不満げな小声が返された。
「でもだからってさ、何も言わずに去るのはダメじゃね?」
「ぐっ」
くそっ、今回ばかりはコイツが正しい。何も言い返せない。
僕が言葉に詰まった時、
「――破損させた収蔵品?」
二ノ前さんの呪詛が、ピタリと止まった。
「え⁉ 紙の本を持ってる知り合いがいるの⁉」
板部が驚きで大声をあげた。僕も思わず目を丸くし、二ノ前さんを見る。
紙の本がなくなって100年。未だ紙の本を愛する者はそれなりにいれど、実際に持っている者は多くない。かつては高くても数千円あれば買えたとされる紙の本も、今の時代においては破格の値がつく文化財なのだ。
一部の愛好家や収集家がいるにはいると聞くが、その数だってそう多くはないはずだ。
紙の本専門の学芸員と、人口はどっこいどっこいといったところだろう。
「亡くなったおじいさまの物なんだそうです」僕らの反応に苦笑まじりの声で二ノ前さんが言った。
「普段は蔵に仕舞ってあるのだそうですが、定期的に展示会への貸し出しなんかもしていて、出し入れが多い関係からか破損してしまうこともままあるんだそうです。その中でもあまり損傷が激しくないものをお借りして、僕の方で修復させてもらってるんです。今はちょうど、表紙の糊付けをさせてもらっていたところでした」
だから、あんなに本と糊のことを気にしていたのか、と先刻の二ノ前さんを思い出して納得する。
確かに糊を塗っている最中にあんなことが起きれば、慌てるのも致し方ないか。
掃除している間に、せっかく塗った糊が乾いてしまうかもしれないもんな。
「でも結局その糊付けも上手くいかないし、それどころかせっかくカミ代さんに用意してもらった糊すら台無しにする始末ですし……あぁ、どうして僕ってこうなんだろう。こうやってすぐに全てを台無しにする。いろんな人が僕のためにってやってくれたことを全部ダメにしてしまう」
「に、二ノ前さん?」
「本当、どの面下げて生きてるんだろう。どうせ糊塗れになるなら、そのまま床に顔を接着させとけばよかったのに。そうだ。どうしてそうしなかったんだろう。下げられる面なんてないんだから、一生床に頭をこすりつけて生きてるぐらいが僕にはちょうどいいんだ」
混乱する僕を置いて、ブツブツと早口で続けていく二ノ前さん。そのさまは、先刻の僕らに気づかずに頭を抱えていた時にそっくりだ。
……もしかしてこの人、普段から"こう"なのだろうか。
どうやら、自分が想像する云倍、アクが強い人だったようだ。
この状態じゃ、例の収蔵品の修復についてお願いすることは難しいかもしれない。ここは一旦帰って、カミ代さんという職員が戻ってきてから出直した方がよさそうだ。
というか、よく考えれば、ここに持ってきた時点で修復が行われることは確定なのだから、破損の経緯を告げる必要はないのでは。
何も言わずに去れば、あれを破損させたのが僕だと知られることなく、雑誌は無事に修復されて返ってくるんじゃないだろうか。
ちょうど板部も雑巾を洗い終えてこっちに戻ってきているところだし、帰るなら今だろう。
何も言わぬが花。卑怯だと言うなら、そう言え。
こっちには将来がかかっているのだ。誰だって自分が可愛い。
「僕は糊すらも使えない男……」
「あ、あの二ノ前さん。僕ら収蔵品も届けたので、ここら辺でそろそろお暇し、」
「え、耕閲。破損させた収蔵品のこと言わなくていいの?」
キョトンと不思議そうに、板部が僕の言葉を遮った。
……誰か、この男に空気を読むというスキルを教えてやってくれ。
板部の首根っこを掴んで、二ノ前さんから距離を取る。
そうして「どう見ても、今話せる状況じゃないだろっ」と小声で怒鳴れば、「えー」と不満げな小声が返された。
「でもだからってさ、何も言わずに去るのはダメじゃね?」
「ぐっ」
くそっ、今回ばかりはコイツが正しい。何も言い返せない。
僕が言葉に詰まった時、
「――破損させた収蔵品?」
二ノ前さんの呪詛が、ピタリと止まった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる