国立書籍博物館学芸員の繫雑な日常Ⅱ

勝哉道花@みちなり文庫

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Ⅱ. 学芸員、戸惑う

Ⅱ-Ⅰ

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「お見苦しいところをお見せいたしました……」

 そう言って、濡らしたタオルで前髪についた糊を拭い取りながら、男――ノ前のまえさんは僕らに頭をさげた。

「修復依頼の収蔵品が運ばれてくることは知っていたのですが、作業に集中していたせいか、すっかり頭から抜けてしまっていたみたいで。普段あんまり人が来るような場所でもないものですから、突然のノック音に驚いてしまい、それでつい……」
「作業台にあった糊を床にひっくり返してしまったと」

 板部と2人がかりで綺麗にした床に目を落としながら続けた僕に、二ノ前さんが「すみません」と謝りながら背中を丸める。
 座っている丸椅子の座面よりも小さくなろうとでもするかのように身を縮める二ノ前さんの額に、湿り気を帯びた前髪が力なく張りついた。

 あの後、なんとなくの事態を把握した僕と板部は、ひとまず場の掃除に取り掛かった。自分達が先人の二の舞にならないよう気をつけながら、散らばる道具をどかし、床を綺麗にしていく。

 その間、当の先人には流しで気を落ち着かせがてら、顔を洗ってきてもらった。
 そうこうして、床と顔面。両方の面が綺麗になる頃には二ノ前さんも落ち着きを取り戻し、こうして状況確認と互いの自己紹介をするに至ったのだった。

「改めまして、書籍館修復課所属の二ノ前はじめと申します。二の前はいちと覚えてもらえれば、すぐに覚えてもらえるかと」

 確かに覚えやすい名前だ。
「書籍館展示課所属学芸員の羊皮耕閲です」「同じく板部佑京でーす」板部と2人、それぞれに挨拶を返す。

「本日はいないのですが、もう1人、カミ代という職員がおりまして。普段はそちらの者が対応を行っているんです」
「ドアのとこに記名されていた名前ですね」

 部屋に入る前に見た文言が頭の中に浮かぶ。『修復課統括長 カミ代』確か、そのような記名がされていたはずだ。

「えぇ、そうです」と二ノ前さんが頷いた。

「僕は彼の代理といいますか、ただの留守番役といいますか」
「ということは、書籍修復士の方ではない?」
「あ、いえ、一応肩書きは書籍修復士です。ただその、僕はまだ新米といいますか、むしろほぼ見習いみたいなものといいますか……」

 尻すぼみ気味に言葉を続ける二ノ前さん。
 なんだか、どうにもハッキリとしない人だ。もう少しハキハキと喋ることはできないのだろうか。

 思わず僕が眉をひそめた時、「見習い?」と、作業台を挟んだ向こうにある流しで雑巾を洗っていた板部が口を開いた。

「書籍修復士って実務経験詰んでなるもんなんスか」

 口調が先刻よりも砕けているのは、二ノ前さんを同年代と見てのことか。距離の詰め方が馴れ馴れしい。

 しかし、二ノ前さんの方は特に気にしていないらしい。
 むしろ、話題が逸れて助かったとでも思っているのか、ホッとした様子で板部の方へ振り返った。

「いえ。大学や修復専門の会社が開講してる講義があるので、そちらで技術を学んだ後に就くのが一般的ですね。昔は徒弟制だったらしいですが、今はもうないと聞きます」
「じゃあ、二ノ前さんも大学か、その講義とやらを受けて?」
「はい。……途中で退学しちゃいましたが」

「数か月前までは学生でした」と続けた二ノ前さんに、板部が「え⁉ じゃあ年下⁉」と完全に敬語を取っ払った声で叫んだ。

「どうしよう、耕閲! 書籍館に俺達より下がいたぜ! 後輩だよ、後輩っ!」
「お前、デリカシーって言葉知ってるか」

 同期の叫び声に頭を痛くする僕に、二ノ前さんが苦笑した。

「お気になさらないで大丈夫ですよ。僕がお2人より年下なのは事実でしょうし」
「はあ」
「大学は中退してしまいましたが、僕の場合はいろいろと縁があったおかげで、カミ代さんの下に就くことができたんです。見習いというのは、まぁそうした経緯があっての立場だというお話ですね。修復士と名乗るには、どうにもまだ未熟なところが多いといいますか……」
「でも、今は本の修復してたんだよね」

 板部が絞った雑巾を流しのフチにかけながら、二ノ前さんに訊ねる。

 本当に遠慮デリカシーのない男だな。とはいえ、それについては僕も気になっていたことだ。二ノ前さんの後ろにある作業台に目を向ける。

 作業台の上には、先刻板部と一緒に床から拾い上げた道具達と一緒に、1冊の本が置かれていた。
 本文ページが綺麗に外され、外装だけになった状態で開かれている。

 まるで鯵の開きのようだ。本来ならあるべき見返し――表紙の内側に貼り付けられる紙のこと。表紙と本文を接合するために用いられる――がなく、その下に隠された茶色い板紙が丸見えになっているのも、そう思える理由かもしれない。

「あぁ、これは」と二ノ前さんが僕の視線を追うように、作業台を見た。
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