Boundary Clash

菱公太

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第1章 深緋の衝撃

第5話

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 昼休み。

 一学期の授業は午前中ですべて終了。チャイムが鳴り、各教室の扉が開いていく。夏休みを先取りするような弛緩した空気が廊下に流れ出す。

 浮かれた雰囲気が学校中を満たす前に、慧は教室を出て無駄のない早足で階段を下っていく。

 目指す先は購買。全校生徒八百人弱の桐葉高校において、購買のパン、それも目当てを手に入れるのは至難の業である。

 普段は列に並ぶのが苦手な慧も、夏休み前に食べておきたい好物のため、行列戦争に参加することにしたのだった。

 
 五分後。足取り穏やかに教室に戻ってきた慧。弁当を持参しているクラスメイトたちは、机をくっつけたり、椅子だけで円を作ったりと各々で陣地を構築していた。

 自分の机に向かう慧。いつもは誠也と二人で駄弁るか、彼が昼練に行くときは一人で食べているのだが──

「おっ、チーズフランスは買えたみたいだな」

 そこには、慧の口角がコンマ数度上がっていることに気付いた誠也と、

「やっほー」

 同じくその事実に気付きながら、遠慮がちに手を振る一瑠の姿があった。


「こうやって三人で飯食うの、いつぶりだろうな?」

 重箱並みの巨大な弁当箱を片手で持ち、こぶし大の唐揚げを頬張る誠也。その豪快さに反してどことなく懐かしそうに話した。

「少なくとも、三年になってからはないんじゃないか?」

 大好物をたべた幸福の余韻に浸りながら、二本目のパック牛乳にストローを刺す慧。

「そうだね。ついこの間までわたし、ほとんど生徒会室あっちでお昼食べてたから」

 既に弁当を食べ終えたものの、時おり誠也のからあげに視線を送る一瑠。

 松井誠也、伊形慧、瀬理町一瑠の三人は幼稚園から高校まで同じと、役満級の幼馴染みである。

 中学時代に距離ができたものの、高校では一年生からずっと同じクラスだったこともあり関係は続いている。

 先週の期末試験に際しては、一瑠の発案により慧宅で勉強会が開かれるほどには仲がいい。

 一週間に亘る勉強会によって、慧は苦手な「数学」の、誠也は得意な「保健体育以外すべて」の補修の回避に成功し、一瑠はゲームテトリス漫画ジャンプの面白さを覚えたのだった。

「いっちゃんは、もう生徒会には顔出してないの?」

 誠也は最後のから揚げを口に運びながら尋ねた。今まさに消失しようとしている旨味とカロリーの塊を横目で追いながら、一瑠は答える。

「たまに行くよ。相談事があるときとか、暑い日とか」

生徒会室あの部屋、エアコン効いてるもんなあ」

「せいくん、最近入り浸ってるでしょ。はるかちゃんから聞いたよ」

霧生きりゅうさんが? なんて言ってた?」

「「ここは避暑地じゃありません。それに松井先輩がいると、冷房をつけても暑苦しいです」って」

「──っ、」

 牛乳を吹き出さないように堪える慧。

「笑うなよ慧。いっちゃん、その話、どこまで本当なんだよ?」

「さーね。教えてあげてもよかったけど、取引材料はたった今消えてしまいました」

 一瑠は珍しく、少しあきれたような意地の悪い顔をする。必死に食い下がる学校のスターをいじめて楽しむ元弓道部主将兼元生徒会長兼かくれ食いしんぼうなのであった。

 
 瀬理町一瑠せりまちいちる。慧の幼馴染みにして数少ない友人の一人。そして、松井誠也と双璧を為す、桐葉高校のスーパースターである。

 スポーツ特化の誠也に対し、一瑠は文武両道を地で行く女子高生だ。

 成績は常に学年トップクラスで、所属していた弓道部では主将を務めた。それに加えて、生徒会長に推薦された際には、選挙で満票を獲得するという人望まで備えている。

 優秀な成績、運動部の部長、生徒会長という一人の高校生にはあまりにも過多な責任とプレッシャーを背負いながらも、一瑠は高校生活を誰よりも楽しんでいた。「瀬理町さんならやってくれる」「一瑠ちゃんだから大丈夫」といった、ときに無責任にも思える周囲からの期待にも「どうだ!」と彼女は笑顔で応えてみせた。

 外から加わる重圧を一身に背負って倒れることなく、むしろ自分のエネルギーに変えていく姿は、周囲の目を気にも留めず自らの道を突き進む誠也とは正反対だ。
 
 そんな人間離れした二人を幼馴染みに持つ慧は、中学の頃こそ嫉妬したものだが、今では誇らしいばかりだ。

 時々、自分の持たざる者さ加減に辟易するが、それを口に出せば恐らく二人は怒るだろう。二人の幼馴染みかつ友人でいることに少し優越感を覚えると同時に、それを感じている自分に呆れる慧であった。

 瀬理町一瑠が優等生の枠を超えて、全校のスーパースターといわれている理由は、その容姿にあった。

 一六三センチの身長に抜群のプロポーション。肩まで真っ直ぐ伸びた黒髪に整った顔立ち。特に彼女の大きな黒い瞳は、幾重にも重なる万華鏡のようで、万象を吸い込んでしまいそうな不思議な力を秘めていた。
 
 一度目を合わせれば二つの黒い輝きに魅入られ、誰も自分を取り繕うことなどできずにありのままを話してしまうのだ。

 幼馴染みの慧と誠也でさえ、彼女に嘘をつくことができたのは過去にそれぞれ一回だけである。


 太陽のように眩しい光を放つ瀬理町一瑠はその実、二つのブラックホールをその身に宿しているのだった。


 そんな学校一の美人を男子が放っておく筈はない。入学式からしばらくして、学年を問わず玉砕覚悟で一瑠に告白する男子が後を絶たなかった。
 
 一日に何回も告白される一瑠を見ていたその頃の女子たちの心境たるや、想像するのも恐ろしい。四百人分の嫉妬が彼女に注がれていた。

 しかし、そうした嫉妬が羨望の眼差しに変わる出来事が起きる。今から二年前の六月、高校生にとって一大行事である文化祭、桐葉生にとっての「紫鐘祭ししょうさい」でそれは起きた。

 目玉イベントである仮装コンテストにおいて、のだ。

 紫鐘祭の仮装コンテストは毎年お題が決められ、それに沿った仮装をすることになっていた。各クラス男女一人ずつを擁立して順位を競う。

 二年前のお題は「宇宙」。土星の輪でフラフープをしたり、全身タイツに点を描いて星座を作ったりと、皆それなりの仮装をした。

 だが結局のところ男子の部では、当時の三年生で、圧倒的な女子人気を誇っていたサッカー部の部長(宇宙飛行士)が、女子の部では一瑠(バニーガール)が優勝したのだ。

 一瑠がバニーガールの格好をする羽目になったのは、クラス会議において、宇宙といえば星、星といえば月、月といえば兎、兎といえばバニーガールという愚かな連想ゲームが行われたためである。

 それも、男子連中の純粋かつよこしまな欲望と女子たちの「瀬理町に恥ずかしい格好をさせてやろう」という陰謀が「コンテストでは当然一位を狙うべき」という大義名分の下に集約された結果だった。

 そのような無理難題、きっぱり断ればいいものを、一瑠は「やってやろうじゃない」と快くバニーガールの仮装を引き受けてしまったのだ。

 そんなこんなでコンテスト当日。体育館にバニーガールが降臨。堂々とした姿から時おり垣間見える羞恥心。男子からは歓喜の、女子からは冷ややかな拍手が送られた。

 事件は優勝者インタビューで起こった。

 宇宙飛行士姿のサッカー部部長がよりにもよって全校生徒の前でバニーガールの一瑠に告白したのだ。入学から二ヶ月、並みいる男子たちの告白を退けたことで彼女の価値はつり上がり、遂に最高値を迎えていた時期だった。

 誰しもが告白を受けると確信していたが、一瑠はなんとその申し出を断った。

 そればかりか、しつこく食い下がるサッカー部部長に平手打ちを食らわせ、「わたしは誰とも付き合うつもりはない」と高らかに宣言したのである。

 この事件は、事態に慌てたインタビュアーの「いやあ、バニーガールのが炸裂しましたけれども──」という謎のフォローと、人類で初めて月に降り立った宇宙飛行士の名をかけて「アームストロング事件」と呼ばれるようになった。

 ほどなくして、部長には告白の直前まで付き合っていた二年生の女子がいたことが判明した。

 その二年生は一瑠と親交があり、一方的に別れを切り出されたことを一瑠は彼女から聞いていた。実のところ、彼は一瑠をはじめ、女子たちをトロフィーか何かと勘違いしている残念な脳みそと性根の持ち主だったのだ。

 アームストロング事件以降、一瑠に告白をしようとする男子は激減し、恨めしがっていた女子たちは軒並み態度を変えた。

 見事なまでの手のひら返しにも動じず、一瑠はスーパースターの階段を一足飛びに上り始めたのだった。

 その後もファンクラブの設立や親衛隊の組織、河川敷決戦など、瀬理町一瑠を取り巻く伝説は今日まで続いていくのだが、それはまた別の話である。


 文化祭を終えて迎えた最初の日曜日。

 結果として、三人が再び幼馴染みとしての関係を深めていくきっかけになった日。

 一瑠から「ちょっと聞いてほしいことがある」と呼び出された慧と誠也。指定された先は、地元の人間である二人も知らない小さな喫茶店だった。

 二人はそこで、名物らしき特大パフェを頬張る一瑠に「人間ってムズカシイよね」と散々悪態を聞かされたのだが、二人はこの日の一切を墓まで持っていくことにした。

 示し合わせたわけではなく、あくまでも自主的に。
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