49 / 55
49 「あなた、いま、幸せ?」
しおりを挟む
ヴェルナー・ベルベットはもちろん凡人で、十九歳を迎えたばかりの若造で、ペーネミュンデ陸軍研究所に所属する研究員のなかで、断トツに頭の回転がわるかった。
ヴェルナーは、奇抜な発想も、天才としかいいようのない閃きも持ち合わせてはいない。
場違いな場所にいるのではないかと悩んだことも、一度や二度ではない。
けれど、ペーネミュンデに所属する誰もが理解していた。
天才鬼才のよせ集め集団のなかで、平々凡々な能力しかもたないと自嘲するヴェルナーだけが、ロケットを組み上げられる唯一の人間だということを。
ヴェルナーは出来てしまうのだ。
奇抜な発想をもたない代わりに、全体を見渡し、夢と現実に折り合いをつけ、嫌がる研究者をなだめ、理不尽な要求にいらだつ現場との間をとりもち、とにかく完成を急がせる軍上層部を説得することが。
これら全てを同時並行しながら、数千、数万点におよぶ部品の手配と保管を一括管理し、巨大なロケットに組み上げていく場所を手配し、打ち上げ時の天気を気にしながら一気に組み上げてしまうことが。
ひとつひとつは、いわゆる普通のことでしかない。
けれど、普通がいくつも積み重なってこんがらがり、訳のわからなくなりつつある進捗を普通にこなすのは、凡人にはできない。
普通のことを普通にこなし続けられる人間が、凡人ではありえない。
しかも、数日、数週間、数ヶ月単位で日程を進めていく根気のいる作業は、天才が最も苦手とする類の業務だった。
ロケットを組み上げる。
夢と希望と情熱とに満ち溢れていそうなこの表現の裏には、実直な努力家が不可欠なのだ。
そして、天才たちは、頭が回ってしまうが故に、ほかの誰かと合わせるということが出来ない。
出来ないとわかっていることを、やりたがる人間はいない。
誰もやりたがらないから、専門分野を持たないヴェルナーがやるしかなかった。
時が経ち、いつの頃からか、皆、気がついた。
面倒なことは、ヴェルナーに丸投げしたほうが、上手くいくらしいということに。
気がつけばヴェルナーは、天才と一般人の橋渡しのような役割を担うことになっていた。
彼のもとにはありとあらゆる情報が集められるようになり、それらを忙しいという一言だけでこなしてしまうヴェルナーは、能力の方向が違うだけの鬼才の持ち主であることを、本人以外の誰もが理解していた。
ちなみに、ヴェルナーがよろしくやってくれることに気づいてから、ヤスミンカはものすごくはりきるようになった。
開発を進めれば進めるだけ、ヴェルナーがとりあえず使えるものにして、持ってきてくれるのである。
自分の考えた技術が、恐ろしいほどの勢いで形になるのである。
楽しくないわけがない。
ただし、人は誰しも、一日は二十四時間しか使うことができない。
ロケット開発に時間を注ぎ込むに従い、他のことに割く時間は短くなってゆくのは、致し方のないことだった。
だからこそ、ヤスミンカは、ヴェルナーとの時間を大切にしようと心に決めていた。
「あいかわらず、散らかっているわねえ」
ヤスミンカが彼の居室に訪ねたとき、彼の部屋一面をまるまる使った黒板には、ロケットの開発進捗管理表とニュートン法で近似解を求めた跡と、乙女の口にできない罵詈雑言とが一緒くたになっている。
ヴェルナーも黒板とチョークの愛用者になっていることに喜びを感じているところに、返事が返ってくる。
「どこが散らかってるんだって?」
肝心のヴェルナーは、振り返りもせず、熱心に机にむかい、なにやら熱心に資料作成に取り組んでいた。
ヤスミンカが近づいて彼のヘッドホンを取り上げたところで、やっとペンを置くありさまだった。
ヴェルナーは大きく伸びをして、肩をまわした。
ばきばきとヤスミンカにも聞こえるくらいに、不健康な音だった。
けれど、彼の不健康さとは対照に、部屋は健全そのもので、黒板以外にあるのは、本棚と、彼の仕事机と、ヤスミンカのための椅子くらいのものである。
「あなたの頭のなかよ」
ヤスミンカがからかうようにいった。
ヴェルナーは苦いものを飲み込んだときの顔をしていった。
「いつまで経っても、やることがなくならないんだよね」
「そうだと思って、迎えにきたのよ」
「なにかあったっけ?」
きょとんとした顔で、ヤスミンカをみつめた。
ヤスミンカはため息をつくと、取り上げたばかりのヘッドホンの通話ボタンをおし、告げた。
「ヤスミンカより各位。今日の歓迎会は一番遅かったひとの奢りよ」
にわかに、館内が騒がしくなった。確実にみんな忘れていたな、とヤスミンカは密かに思った。
「工場長に工場ごと引っ越させたのは、あなたじゃない」
「しまった。もうそんな時間だったか」
軽い口調で、ヴェルナーはいった。
彼の頭の中からは、ひととして大切なことがいろいろと抜け落ちているように感じられた。
ヤスミンカは急に、不安になった。
ヴェルナーに無理をさせている自覚はあったけれど、やるべきことに忙殺された彼が、他人を気にかけなくなっているのだとしたら、由々しき事態だ。
少なくとも、ヤスミンカが好意をもっているときのヴェルナーに、そんなことはなかったはずである。
自然と、手が彼の袖に伸びていた。
ヤスミンカは、恐る恐る尋ねた。
「ヴェルナー、あなた、いま、幸せ?」
ヴェルナーは、奇抜な発想も、天才としかいいようのない閃きも持ち合わせてはいない。
場違いな場所にいるのではないかと悩んだことも、一度や二度ではない。
けれど、ペーネミュンデに所属する誰もが理解していた。
天才鬼才のよせ集め集団のなかで、平々凡々な能力しかもたないと自嘲するヴェルナーだけが、ロケットを組み上げられる唯一の人間だということを。
ヴェルナーは出来てしまうのだ。
奇抜な発想をもたない代わりに、全体を見渡し、夢と現実に折り合いをつけ、嫌がる研究者をなだめ、理不尽な要求にいらだつ現場との間をとりもち、とにかく完成を急がせる軍上層部を説得することが。
これら全てを同時並行しながら、数千、数万点におよぶ部品の手配と保管を一括管理し、巨大なロケットに組み上げていく場所を手配し、打ち上げ時の天気を気にしながら一気に組み上げてしまうことが。
ひとつひとつは、いわゆる普通のことでしかない。
けれど、普通がいくつも積み重なってこんがらがり、訳のわからなくなりつつある進捗を普通にこなすのは、凡人にはできない。
普通のことを普通にこなし続けられる人間が、凡人ではありえない。
しかも、数日、数週間、数ヶ月単位で日程を進めていく根気のいる作業は、天才が最も苦手とする類の業務だった。
ロケットを組み上げる。
夢と希望と情熱とに満ち溢れていそうなこの表現の裏には、実直な努力家が不可欠なのだ。
そして、天才たちは、頭が回ってしまうが故に、ほかの誰かと合わせるということが出来ない。
出来ないとわかっていることを、やりたがる人間はいない。
誰もやりたがらないから、専門分野を持たないヴェルナーがやるしかなかった。
時が経ち、いつの頃からか、皆、気がついた。
面倒なことは、ヴェルナーに丸投げしたほうが、上手くいくらしいということに。
気がつけばヴェルナーは、天才と一般人の橋渡しのような役割を担うことになっていた。
彼のもとにはありとあらゆる情報が集められるようになり、それらを忙しいという一言だけでこなしてしまうヴェルナーは、能力の方向が違うだけの鬼才の持ち主であることを、本人以外の誰もが理解していた。
ちなみに、ヴェルナーがよろしくやってくれることに気づいてから、ヤスミンカはものすごくはりきるようになった。
開発を進めれば進めるだけ、ヴェルナーがとりあえず使えるものにして、持ってきてくれるのである。
自分の考えた技術が、恐ろしいほどの勢いで形になるのである。
楽しくないわけがない。
ただし、人は誰しも、一日は二十四時間しか使うことができない。
ロケット開発に時間を注ぎ込むに従い、他のことに割く時間は短くなってゆくのは、致し方のないことだった。
だからこそ、ヤスミンカは、ヴェルナーとの時間を大切にしようと心に決めていた。
「あいかわらず、散らかっているわねえ」
ヤスミンカが彼の居室に訪ねたとき、彼の部屋一面をまるまる使った黒板には、ロケットの開発進捗管理表とニュートン法で近似解を求めた跡と、乙女の口にできない罵詈雑言とが一緒くたになっている。
ヴェルナーも黒板とチョークの愛用者になっていることに喜びを感じているところに、返事が返ってくる。
「どこが散らかってるんだって?」
肝心のヴェルナーは、振り返りもせず、熱心に机にむかい、なにやら熱心に資料作成に取り組んでいた。
ヤスミンカが近づいて彼のヘッドホンを取り上げたところで、やっとペンを置くありさまだった。
ヴェルナーは大きく伸びをして、肩をまわした。
ばきばきとヤスミンカにも聞こえるくらいに、不健康な音だった。
けれど、彼の不健康さとは対照に、部屋は健全そのもので、黒板以外にあるのは、本棚と、彼の仕事机と、ヤスミンカのための椅子くらいのものである。
「あなたの頭のなかよ」
ヤスミンカがからかうようにいった。
ヴェルナーは苦いものを飲み込んだときの顔をしていった。
「いつまで経っても、やることがなくならないんだよね」
「そうだと思って、迎えにきたのよ」
「なにかあったっけ?」
きょとんとした顔で、ヤスミンカをみつめた。
ヤスミンカはため息をつくと、取り上げたばかりのヘッドホンの通話ボタンをおし、告げた。
「ヤスミンカより各位。今日の歓迎会は一番遅かったひとの奢りよ」
にわかに、館内が騒がしくなった。確実にみんな忘れていたな、とヤスミンカは密かに思った。
「工場長に工場ごと引っ越させたのは、あなたじゃない」
「しまった。もうそんな時間だったか」
軽い口調で、ヴェルナーはいった。
彼の頭の中からは、ひととして大切なことがいろいろと抜け落ちているように感じられた。
ヤスミンカは急に、不安になった。
ヴェルナーに無理をさせている自覚はあったけれど、やるべきことに忙殺された彼が、他人を気にかけなくなっているのだとしたら、由々しき事態だ。
少なくとも、ヤスミンカが好意をもっているときのヴェルナーに、そんなことはなかったはずである。
自然と、手が彼の袖に伸びていた。
ヤスミンカは、恐る恐る尋ねた。
「ヴェルナー、あなた、いま、幸せ?」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする
夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
死んだはずの貴族、内政スキルでひっくり返す〜辺境村から始める復讐譚〜
のらねこ吟醸
ファンタジー
帝国の粛清で家族を失い、“死んだことにされた”名門貴族の青年は、
偽りの名を与えられ、最果ての辺境村へと送り込まれた。
水も農具も未来もない、限界集落で彼が手にしたのは――
古代遺跡の力と、“俺にだけ見える内政スキル”。
村を立て直し、仲間と絆を築きながら、
やがて帝国の陰謀に迫り、家を滅ぼした仇と対峙する。
辺境から始まる、ちょっぴりほのぼの(?)な村興しと、
静かに進む策略と復讐の物語。
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる