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【1】変わるきっかけ

日常を抜け出す

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 暗がりの茂った森の奥地。風通しが悪く、金木犀の香りがこもる。医者の兄に頼まれたおつかいをしている、一人の若者がいた。金髪のくせ毛を結った青年。彼の名前はジェフリー。それなりの身長で筋肉質、少々目つきが悪い。
勇者でも魔法使いでもない。きらびやかな物語の主人公と称するには遠い存在だ。身につけている紺のジャケットが、間もなく訪れようとしている夜の闇に飲まれてしまいそうだ。
「今日はあんまり……か」
 ジェフリーの手には摘んだ薬草が握られていた。おつかいとは薬草摘みだ。以前はこんな奥地まで足を運ばなくても採取できたが、最近は採れる数がぐっと減った。奥地は日あたりが悪く、質も落ちてしまう。そろそろ肌寒い時期だというのに、彼の額には汗が滲んでいた。
 摘んだ数少ない薬草を、右の腰に下げている小さい麻袋に入れて紐口を縛った。
 左の腰には、大きめの剣が収められた鞘が下がっている。ジェフリーが身を守る術はこれくらいしかない。
 近ごろは野生動物が狂暴化して人を襲うと物騒な噂を耳にする。この森で襲われるとしても小動物や爬虫類だが、場所によっては猛獣も出るだろう。

 もうじきこの森は暗くなる。ジェフリーは森を出ようと来た道を戻った。ふと、風向きが変わった。冷たい風に混じる、焦げた臭いが鼻を刺激した。野焼きだろうかと思っていた彼の横を、疾風が抜けた。遅れて来た風を正面から受ける。
 ジェフリーは何事かと風の正体を確認する前に、足元に重みを感じた。視線を落とすと、怪我をした赤毛の少女が倒れている。そして微かな鈴の音が聞こえた。だが、それだけではなかった。
「手練れと見た。この娘を預けたい」
 ジェフリーの背後から低い男性の声がした。動揺したまま振り返る。
 夜闇のカラスを思わせる漆黒のマント。銀色で長髪、長身。左の肩から大きく血に染まっている。深く、ひどい怪我をしている。暗がりで顔は見えないが、背格好と声から男で間違いない。右の腰には、長い刀が二本。一本には鈴がぶら下がっている。耳にした鈴の音の正体はこれらしい。
 突然の出来事を理解できないジェフリーは、男が『預けたい』と言っていた少女を見てから視線を戻した。だが、男が立っていた場所には血だまりが残っていただけだった。
「はぁぁっ!? き、消えた……」
 思わず大声を出してしまった。目を離したのは、ほんの一瞬のはず。人が消えた。消えてしまった。夢でも見ているのだろうか。困惑からお決まりのように、頬をつねったが痛い。残念ながら、現実だ。
 ジェフリーは周辺に誰もいないことを確認し、少女の肩を揺すった。わずかだが反応がある。苦しそうだ。
 少女の目元は汚れ、頬には泣いた痕跡があった。いったいこの子に何があったのだろうか。さすがに、鬱蒼うっそうとした森の奥地に放置するわけにはいかない。
「何だよ、これ……」
 ジェフリーは、ぼやきながら両手で少女を抱え上げた。華奢な腕をしていて軽かった。左の腰からは細身の剣を下げている。
 怪我をした謎の男に強制的に押しつけられてしまったが、正直、面倒はごめんだ。そうは思いながらも、兄に相談しようと決めた。相談する相手がいてよかったとジェフリーは思った。
 少女を抱えたまま森の入り口まで戻ると、風に混じっていた焦げ臭さが強まる。近隣で火事でもあったのだろうか。
 あと少しで森を抜ける。その手前、突然木々がざわめき、大きな地鳴りを耳にした。
 驚きながら足を止めたが、背後で落雷に似た大きな音がした。森中の野鳥が一斉に羽音を立てて飛び立った。木々がメキメキと激しい音を立てて倒れる。その先に、黒くて大きな影がうごめいていた。
 空が暗く、正確には影なのかもわからない。とにかく黒くて巨大だ。巨人なのか、化け物なのかはわからない。
この状況で一つだけ確かなことがあった。この黒く巨大なものは、こちらに向かって来ている。
「……ったく、今日は何だ!?」
 正体のわからない黒く大きなもの、目を覚まさない少女、突然あらわれて一瞬で姿を消した銀髪で黒いマントの男。今日は厄日だろうか。ジェフリーは理解に苦しむことばかりだと思った。
 幸いにも、黒いものはゆっくりとした動きをしている。走れば逃れられそうだ。人里までは追って来ないだろう。
ジェフリーは少女を抱えたまま森を抜け、まだ遠い街の明かりを頼りに走った。

 水の街・マーチン。少し大きめの田舎街。贅沢をしないで暮らすだけなら困らない。強いて不満があるとすれば、田舎らしく、ものは商船で取り寄せるので届くのが遅い。
 街の中には井戸や泉がある。近くに川があり、水に恵まれているがゆえに『水の街』と呼ばれてはいる。それでも大都市とは比べものにならない田舎街だ。
 どこの国にも属さず、コミュニティが閉鎖され、見捨てられた街と言っても過言ではない。それでも、住民とは波風を立てずに暮らせるなら問題はない。そのため、あえて外の世界を気にしようとは思わない。
 街の外れには剣術学校。そんな立地に、大きくはないが診療所もある。ジェフリーの兄はそこで働いている。

 街に到着したが、夜だというのに騒がしい。
 街中は普段よりも明るく、宿泊施設や広い集会所が解放されていた。質素な暮らしが特徴の田舎街では、あまり見ない光景だ。そんな賑やかさを見流しながら、ジェフリーは診療所を目指した。
 ところが診療所は外まで人があふれ、とても入れる状況ではなかった。
 泣き叫ぶ声は老若男女。怒号も聞こえた。怪我をした人も多く見受けられる。身内の特権で無理に入ってもいいが、この街の人と問題になるとあとあと住みづらくなる。ジェフリーは仕方なく少女を抱えたまま、借家へ向かった。もしかしたら兄は帰っているかもしれない。

「って、やっぱり帰ってないよな……」
 借家に戻ったジェフリーはパチパチとスイッチを弾き、部屋を明るくした。椅子も机もテーブルもベッドも一つしかない。それもそうだ。ジェフリーが一方的に転がり込んでいる。兄は夜勤で不在も多い。生活時間をずらせば、寝ることに不自由はしない。一人用の借家、一緒に住んで半年ほど。一部を除き小綺麗なままだ。家に誰かを入れても兄が不在なら問題はない。いや、今は帰って来てほしいのが本音だ。覚えている限り、今日は帰って来る日だったはず。
 非日常な出来事に重なる疲労、ジェフリーは大きくため息をつきながら少女をベッドに寝かせた。今まで暗がりで見えなかったが、すす汚れや細かいすり傷が多い。
 数分待ってみたが、兄が帰って来る気配はない。人だかりだった診療所の中だろう。ジェフリーはくだらない心配をしながら、部屋を見渡した。少女ばかり見ていても落ち着かない。
 目に入ったのはタオルだった。ジェフリーはタオルに水を含ませて、少女のすす汚れを拭った。骨折はしていないようだが、汚れが取れて今度はすり傷が気になった。
 兄が机で薬草を潰して塗り薬にしている作業を見た記憶がある。その瓶は確か……。
 大きくはない机の上にあふれんばかりの書類の山。瓶が数個、埋もれていた。どの瓶も手書きのラベルが貼られ、同じような緑色の半液体状のものが入っている。せっかくジェフリーが摘んで来たのに、手をつける暇もなく、カラカラに乾いた薬草も見えた。兄がどれだけ仕事に追われているかなど、これだけでだいたいの想像がつく。
 居候らしく部屋の掃除はするが、机だけは触らないでくれと言われていた。そのため、正直机のどこに何があるのかは把握していない。
 薬はこれで正解だろう。そのまま指を突っ込むのは衛生的ではないと、机の周辺を見た。兄の現場カバンくらいしか見あたらない。このカバンは、ずっと机の下にあったのか、フェルトのような埃をかぶっていた。申し訳ないと思いながら埃を払った。パリッとしたカバンを開け、中を探る。
 銀の聴診器や、きちんとしたラベルのついた薬瓶。圧縮パウチされた注射器だろうか、ほかにも専門的な器具が入っていたがどれも真新しくて開けた痕跡がない。カバンの底から、封を切っていないガーゼが入った瓶を見つけた。サビ曇りのないピンセットも見つかった。こちらも新品のようだ。手当てに使えそうな脱脂綿は、残念ながら見あたらない。
 できる範囲で手当てを施す。左手の甲に大きなすり傷があったため、表皮の汚れを拭う。傷薬をガーゼに含ませて塗ると少女の顔が苦痛にゆがんだ。
「んっ……」
 傷に沁みたのだろう。妙に艶のある声だ。
 このとき、ジェフリーは初めて少女に興味を持った。もしかしたら、すごく可愛い子かもしれないと思った。儚くも長く美しい睫毛に見とれてしまった。悪い人なら、ここで少女に邪な行為をするかもしれないが、ジェフリーにそんな気持ちはなかった。怪我をして弱っている人に対して非道なことをするのは、許せないと思っていたからだ。これでも曲がったことは許さない性格のつもりだと邪念を払った。今度は包帯を巻きつけた。アンティークだろうか、左腕に高そうな腕輪をしている。動かせず、引っついている気がするが、深くは考えていなかった。
 引っ掻き回して手当てをしたが、それでも兄は帰って来ない。
 どっと疲れた。女の子に対する気疲れもした。気を緩めるとすぐにでも意識が落ちそうだ。最近こんなに疲れることがあっただろうか。
 ベッドを背に床に座って深呼吸すると案の定、ジェフリーはまどろみに飲まれてしまった。

「あの……」
 ジェフリーはまどろみの中から現実に引き戻された。うたた寝をしてしまったようだ。声の主を見上げると、手当てをした赤毛の少女だった。
 緑色の澄んだ大きな瞳、整った顔立ち、お世辞ではなくかなりの美人だ。年は少し下だろうか。控えめな胸の前で手を組み、不安そうだ。知らない場所に知らない異性と二人だ。無理もない。
「あの、すみません。助けていただいて……」
 眠気が一瞬で吹き飛ぶ可愛らしい声だ。ジェフリーは一緒の空間にいるだけで恥ずかしいと感じた。視線を逸らしながら、立って身なりを整える。
「手当てはしたが、助けてはいない。銀の長い髪をした黒マントの人に預けられた」
「それは誰ですか?」
 少女は小動物のように首を傾げた。うまく言えないが、仕草がいちいち可愛いとジェフリーは思った。だが、それは一瞬だけだった。少女は怪我をした手を気にしながら、怯えていた。
「わたし、もしかして、誘拐されたの?」
 その一言にジェフリーは顔を引きつらせた。手当てをしたのに、疑われるなんてとんでもない。面倒だと思い、舌打ちをした。嫌な気分にさせたかもしれないが、この際どうでもいい。ジェフリーは悪態をついた。
「誘拐なんてするか!! 帰る場所があるなら、とっとと帰ってくれ……」
 吐き捨てるように言って家を出ようとする。少女は服をつかんで引き止めた。
「ああっ、あの、待って!! ここはどこですか?」
 今にも泣き出してしまいそうな目で訴える。この上目遣いも可愛らしいので対処に困った。
 少女に場所を質問されたが、返答次第では本当に誘拐になってしまう。ジェフリーは投げやりな感情に自制をかけ、答えた。
「マーチンだ、水の街って言われている」
「あぁ、学校があるところですよね? 知っている場所でよかったぁ……」
 少女は腰から剣を下げている。だが、護身で通わされただけだと想像はついた。なぜなら鞘には傷がほとんどないからだ。いざというときは剣を振れない者も多い。もし彼女がまともに振れるなら、今ここにはいないはずだ。ジェフリーは会話の中でそう思った。
 今度はしんとして気まずいが、何やら外が騒々しい。バタバタと品のない足音が近くなり、そしてドアが乱暴に開かれた。
 長身に白衣をまとい、長い金髪を結った男性が部屋に入った。女性が騒ぎそうな好青年だ。息を切らせながらジェフリーに言った。
「もしかしてと思ったら、やっぱり!」
 乱れた髪に隠れていた左耳の三日月のピアスが大きく揺れた。こんなに奇抜きばつな医者はまずいない。
「すぐに逃げる支度をしなさい! この街は危険です!!」
 彼の名前は竜次、ジェフリーの兄で一応医者をしている。事情があって変わった名前をしているが、血のつながった兄弟だ。ジェフリーとは違って高学歴で顔もいい。
「逃げるって?」
 竜次はジェフリーの質問に答えないまま、床に転がっていたカバンを拾い上げた。そして、赤毛の少女の存在にも気がついた。
「えっ、女の子……?」
 ジェフリーが女性を連れ込んでいることに驚いた。だが、今はそれどころではない。外から何人もの悲鳴が聞こえ、竜次はやっと説明する。
「見たことのない黒い蛇というか、龍みたいなものが街を襲っているのです!」
「黒い……?」
 ジェフリーは森での出来事を思い出した。
「あー……森で見た奴かも?」
「はぁ? も、もしかして、街に連れて来ちゃったんですか?」
 悪者にする冗談もほどほどに、竜次は少女にも逃げるように促した。
「お嬢さんも、お逃げなさい」
 少女はジェフリーと竜次を見ながら首を振った。
「わたし、村に帰らないと……」
  そう言って二人の間を走り抜けた。少女の言葉に竜次が青ざめる。
「村って、ヒューリ村……あそこはいけません! ジェフ、あの子を止めてください!」
 竜次が必死に訴える。ジェフリーは困惑した。
「どういうことだ、逃げろって言っておいて」
「えっ、知らないんですか? ヒューリ村は焼け落ちて、壊滅したんです!!」
 街を出てしばらくすると、薬草を採りに行く森が広がる。その先にあるのが、ヒューリ村だ。
 森で感じた野焼きに似た刺激臭の正体はわかった。だが、ジェフリーはどうも腑に落ちない様子だ。
「村が壊滅って……」
 竜次は表情を曇らせた。数秒沈黙したあと、答える。
「とても信じられませんが、診療所に逃げて来た人によると、その龍は村を荒らし、人を食べたと……」
 少女を追い駆けないとまずい。ジェフリーは反射的に家を飛び出した。
「あ、ちょっとジェフ!!」
 竜次もすぐにあとを追った。

 街の中は混乱していた。
 この街の人だけではなく、避難して来た村の人までも逃げ回っていた。診療所の方角が騒がしい。
「黒い龍がこっちに来るぞ!!」
「逃げろっ!! 食われちまうぞ!!」
 逃げる人の叫びがする。誰が言い始めたのか『黒い龍』と呼ばれていた。その存在は、民家の屋根よりも大きな図 体を引きずりながらゆっくりと動いていた。その先には、ジェフリーが森で預けられた赤毛の少女が見えた。
 ジェフリーには黒い龍が彼女を狙っているように見えた。
「きゃああああああ」
 若い女性の悲鳴がして、ぷつりと途切れた。
 逃げ損ねた女性が、黒い龍の餌食になってしまった。人を食べるという話は本当のようだ。だが、食べるどころか咥えたまま上を向いた。血に染まったスカートと脱力した下半身が揺れて見える。黒い龍の口からは、鮮血がぼたぼたと落ちた。その光景を目の前にして、赤毛の少女は顔を真っ青にして腰を抜かしていた。あまりの恐怖に立ち上がれないようだ。
「ミティア!!」
「えっ、キッド……?」
 赤毛の少女のもとに、金髪でボブカット、羽根のついたベレー帽をかぶったロングスカートの女性が駆け付けた。このボブカットの女性の名はキッド。赤毛の少女の名はミティア。二人はこの混乱の中で再会を驚いた。
「無事でよかった。立って、ここから逃げないと……」
 キッドがミティアの手を取った。やっと立ち上がったミティアの瞳がジェフリーの姿を捉えた。
「あ、さっきの……」
 ミティアの頬を涙が伝う。恐怖で声は震えていた。
 黒い龍は上を向いたまま動かない。今なら逃げられるかもしれない。
「村じゃない方に逃げろ」
 ジェフリーが言うと、キッドが大きく頷いた。
「もう、帰る場所はないの。ただ、ここから逃げないといけないのは確かね……」
 気の強そうな声だ。キッドの年はジェフリーと同じくらいだろう。
 ミティアは戸惑いながら二人に訊ねた。
「帰る場所がないって?」
 キッドがはっとする。つらいかもしれないが、事実を告げた。
「あ、あのね、村はもうないのよ。こいつに襲われて、みんな壊れてしまったの」
 話し込んでいる彼女たちを背に、ジェフリーは黒い龍を見上げる。動きを止めていたはずが、咥えていた女性とともに『何か』を滝のように吐き捨てた。『何か』の正体は大量の赤黒い液体、肉片、骨だ。鼻が曲がりそうな血の臭いもまき散らされた。
 キッドは吐きそうになり、口を押さえた。肉片が彼女たちのそばにまで散っている。
 黒い龍は肉片を吐き出すと、再び動きを止めた。
 その脇から、幼い女の子が黒い霧のようなものをまとってあらわれた。この黒いものは瘴気だ。つまり魔のもの。不確かな存在。この惨状は夢か、幻なのかと疑いたくなる。
 女の子は青みを帯びた長い髪で、色白。黙っていれば、どこかのお姫様のように整った顔立ちをしている。
 にわかには信じられない惨状だ。次から次へと状況が変化して、理解が追いつかない。ジェフリーはそう思いながら警戒をした。
 女の子は不気味な笑みを浮かべながらゆっくりと口を開いた。
「ざんねん、おなかいっぱいみたい……」
『ざんねん』と言いながらも、楽しそうに笑っている。やはり女の子は普通の存在ではない。ジェフリーだけではなく、この場にいるキッドもミティアも理解した。
「せっかく『世界の生贄』を見つけたのに、どうしようかな?」
 女の子は笑みを浮かべたまま、冷たい視線を向けた。その視線は怯えているミティアを捉えている。ジェフリーは剣を手に庇いに入った。凍りつきそうな視線を遮る。
「お兄ちゃん、死にたいの? ほかの人と違って逃げないんだ? 偉いね……」
 突然、女の子は狂ったようににやりと笑う。いくら勇敢に庇っても、ジェフリーも本心では逃げたかった。この女の子にはそれだけの禍々まがまがしい威圧感がある。
「人間って、はったりが好きだよね。強がっちゃって、馬鹿みたい……」
 緊迫した空気の中、鈴の音と風が吹き抜ける。ジェフリーにとっては見覚えのある黒いマントの男が空中から軽快に着地した。まるでカラスのようだ。あらわれたのは、ミティアをジェフリーに預けた銀髪の男だった。
「あぁ、つまらないのが来ちゃった……」
 女の子は黒い龍を撫でながら落胆した。
「なぜ仕留めない」
 銀髪の男がジェフリーに言った。
「はぁ?」
「時間を稼がれているのに気がつかぬとは……」
 銀髪の男はため息と舌打ちをした。
 女の子は笑いながら、銀髪の男に向き直る。
「さすがね、バレちゃった?」
「あれだけ食らっては、まともに動けまい」
 街中で戦うつもりなのだろうか。銀髪の男は不格好に布を巻いただけで、利き腕をまともに手当てしていない。
 女の子は睨みつけながら、にやにやと嘲笑あざわらった。
「この子、食べすぎてお腹壊したみたいだし、お互い分が悪いわね。まぁ、追われてみるのも悪くないかな?」
「これだけして、逃げるつもりか!」
 銀髪の男が言うと、女の子は眉をひそめた。
「逃げる? 逃げないといけないのは、あなたたちではなくて?」
 女の子が黒い瘴気を増幅させて後退した。
「今回はご挨拶だけ。また今度ね。さようなら……」
 そう言うと女の子は黒い龍とともに霧のように消えた。この場に残ったのは血だまりと、誰のものかもわからない骨や肉片。鼻を覆いたくなる血の臭いも、夢や幻で済むものではなかった。

 突然、銀髪の男性が怯えているミティアの腕をつかんだ。キッドが素早く割り込み、手を払いのける。ミティアを必死に庇っていた。
「今のはいったい何なの!? 現実離れして、わけがわからないんだけど!!」
 気の強いキッドの言葉は、ジェフリーが聞きたいことを代弁してくれていた。
「あんた何、誰? この子を誘拐でもしたいの!? あんたも悪い人なの!?」
 あまりの質問の多さに、銀髪の男は観念したように息をついてから答える。
「今のところは中立……といったところだ」
 もちろんキッドは納得しない。
「あの黒い龍みたいなものは何なの? 人を食べてたじゃない……」
「あれは……」
 銀髪の男は言葉を選んでいた。
「人の狂気、恐怖、悲しみ、憎悪の塊、と言えばわかるか?」
「ぜんっぜんわかんないわ」
 やはりキッドは納得していない。銀髪の男は確認するように質問をした。
「娘は過去にこの世の理不尽を嘆いたことはないのか?」
「ある、けど……あんたがしようとした誘拐も理不尽よ!!」
 キッドは噛みつくような勢いで指摘をした。あまりの勢いに、この場の誰も口を挟まない。
「この状況で立場をわかっていないらしい……が、それもそうだな」
 銀髪の男は怯えているミティアに向かって言った。
「選ばせてやってもいい。俺と一緒に来るか、自分の目で自分を知るか」
「自分の目で、自分を知る……?」
 ミティアの声が震える。
「一緒に行ったらひどいことされるに決まってる。絶対に行っちゃダメ!!」
 警戒し、止めに入るキッドとは違い、ミティアは意を決して返した。
「自分を知るってどういうことですか? 何をしたらわかりますか?」
 世間知らずなのか、お嬢様なのか。ミティアの唐突な返しに銀髪の男も驚いている。
「その気があるらしいな。まず知識の街でもある魔法都市フィラノスへ行け。そこで何も得られないのなら、やはり俺と一緒に来てもらおう……」
「え、フィラノス? ここから山を越えて……って、結構遠いじゃない」
 銀髪の男の言葉に、キッドは驚いていた。
ミティアは出された条件に対し、伏し目になりながら答えた。
「が、がんばってみます……」
 ミティアの返事を聞いて銀髪の男は背を向ける。また風のように去るのかと思われた。
「待てよ」
 引き止めたのはジェフリーだった。剣を鞘に収め、睨みつける。
「話がまったく読めないが、あんたの存在が意味不明なのは間違いないな」
 銀髪の男はジェフリーを見て、鼻で笑う。
「貴殿は見込み違いだったし、俺の計算違いでもあった」
「な、に……?」
「今の人間は、いくら戦う術を身につけてもほとんどがお飾りなのだな」
 銀髪の男が言っていることは間違いではない。しかしジェフリーには、その言葉がどうしても許せなかった。感情的になって、再び剣を引き抜こうとした。
「気に障ったのなら謝っておこう、俺も厄介な傷を負っている……」
 銀髪の男はジェフリーの横を抜けた。
「どうせ、この場限り。もう会うことはないだろう」
 すれ違いざまに別れの言葉を残した。
 流れるような風と微かな鈴の音がする。素性も目的も答えないまま、銀髪の男は姿を消した。
「何だ、あの野郎……」
 ジェフリーは奥歯を軋ませる。そんな中、ずっと離れて見ていた竜次が駆け付けた。
「ジェフ、お二人も怪我はないですか?」
 心配をしていた。命を取られることもなく、無事で済んだと安心した。

「いたぞ、あいつだ!」

 次の災厄が舞い込んだ。
 街の人々が騒ぎの中、一同へ非難の声を向ける。街の人……正確にはヒューリ村から逃げて来た人たちだろう。一同の中からミティアを見つけると、次々と人がやって来て非難の声を浴びせる。
「この疫病神が!!」
「この魔女があんな龍を呼び出したんだ」
「ここから出て行け!!」
 この言葉が自分に向けられていると、ミティアは震え上がった。
「この人殺し!!」
「お前なんて死んでしまえっ!!」
 怒号に混ざって心ない言葉が投げられた。
 ここまで他人を貫いていたジェフリーは集まった人たちを睨みつける。何と言い返そうかと考えている間に、ミティアは走り出してしまい、キッドがそれを追った。
 ジェフリーの目に映ったのは、今にも泣き出してしまいそうなミティアの表情だった。手当てをした少女が、現実離れしたことに巻き込まれ、そして心ない言葉を浴びせられた。この理不尽な状況を黙って見すごしていいのだろうかと、ジェフリーは自身に問いかけた。
 集まった人たちは恐怖、憎しみ、悲しみなどの負の感情が入り混じっている様子だ。やり場のない感情を、他人にぶつけている。
「ジェフ、先に戻っていなさい」
 竜次はジェフリーに声をかけるが、彼は眉間のしわを深め、首を横に振った。
「兄貴、ごめん。世話になった……」
 ジェフリーは決意したように言い、顔を上げた。
「えっ、ちょっと……まさか、あなた!?」
 止めようとする竜次を無視し、ジェフリーはミティアたちを追って走った。
 ざわめく人々を背に、竜次もまた、選択を迫られている気がした。
「あぁ、もう、わけがわからない……厄日ですか」
 竜次は嘆き、肩を落とした。

 街の裏口で、キッドはミティアに追いついた。
「相変わらず足速いわね……」
「キッドの方が速いくせに……」
「ここを出るんでしょ?」
 キッドが確認すると、ミティアは深く頷いた。
「帰る場所、もうないんだよね……」
「そうね。でも山道を抜けないとフィラノスに行けないわよ」
 村娘にとって外は未知の世界だ。どんな危険が潜んでいるかわからない。
「やっぱり危ないかな?」
「あたしはこの街で暮らす方が危ないと思う」
 帰る場所がない今、銀髪の男に言われたフィラノスを目指すしかない。
「さっき、何も言い返せなくて悔しかった。ごめんね……」
「キッドは悪くないよ。たぶん、わたしがいけないんだから」
 ミティアは儚さを秘めた作り笑いをする。精神は弱っていた。
『お前なんて死んでしまえっ!!』
 その言葉が心に突き刺さって、ずっと残っている。
「やっと見つけた!」
 ジェフリーがやっと二人に追いついた。
「お前たち、足速いな……」
「何、あんた……」
 すかさず、キッドはミティアを庇いに入る。
「待って、その人は悪い人じゃないよ。た、たぶん……?」
 ミティアは脇からおそるおそる前に出て、猫のようにジェフリーの顔を覗き込んでいる。この小動物に似た仕草は彼女の癖のようだ。
「あの、わたし、何か忘れものでもしましたか?」
 この状況で調子はずれを言うなど、どこか抜けている。天然か、狙っているのかはジェフリーにはわからない。
「その……あんたたちをフィラノスまで護衛……してやる」
 ジェフリーの言葉に、キッドは声をひっくり返した。
「はぁ? 何、その上から目線。あんたも頭がおかしくなったんじゃない?」
「そうかもしれない」
 ジェフリーは否定しなかった。キッドは腕を組んで、嫌そうな顔をしている。
 かまわずジェフリーは食い下がった。
「あんたたちについて行けば、あの銀髪黒マント野郎にまた会える。言われっぱなしで胸糞悪いんだよ」
 ジェフリーが言った理由は苦し紛れだった。本当はもっと至極単純なものだが、言えば話がややこしくなる。
「それだけじゃないんでしょ? この子が可愛いから?」
 キッドがじろりと睨む。ジェフリーは、勢いからそうかもしれないと喉まで出ていたが、誤解を生まないように飲み込んだ。冗談を言っている場合ではない。
「はっきりしない人って、見てるだけでむかつくのよね」
 キッドの言葉は正直で真っすぐだ。それがどんなに失礼でも、初対面だろうと容赦はしないようだ。ジェフリーに対する警戒を緩める様子がない。
「山道が危険なのは知っているよな? 狂暴化した野生の動物も出る。観光が廃れて荒れっぱなしで、近年は馬車も走っていない」
 ジェフリーは言った。仮にも護衛と言ったのだから、自分を売り込もうと必死だ。
「それで?」
「昔フィラノスに住んでいた。街の案内はできるかもしれない」
「あたしも一応住んでいたことがあるんだけど」
 キッドの守りは鉄壁かもしれない。あまりにも隙がないため、ジェフリーは苦し紛れを通り越した、やけくその理由を言った。
「あんな暴言を吐く腐った連中と、同じ街で暮らすなんて俺は嫌だ。いっそ、ここを出て、ほかの街に行く方が、マシだ!!」
 今まで手厳しい反応だったキッドが、くすりと笑った。
「その理由なら買ってあげる。あたしもそうだから」
「キッド!」
 黙って話を聞いていたミティアの表情が明るくなった。キッドは腕を組んだまま街の外を向く。
「言っておくけど、あたしは信用してないから」
「初めからそうは思っていない。役に立たなかったら、その脚に隠し持っている武器で、ひと思いにやってくれてかまわない」
 キッドはぴくりと反応した。ジェフリーはかまわず続けた。
「その長いスカート、右だけスリットが入っているし、あんたみたいな気の強い奴が丸腰なんて考えられない」
 キッドは顔を引きつらせ、ゆっくりと振り返る。
「気色悪いわね、あんた……」
「わぁ、すごい!! キッドが武器を隠し持っているなんて、普通の人はわからないはず」
 緊張感を持った二人とは違い、ミティアの言葉だけは浮いていた。
「あの、わたし、ミティアです。こっちは、親友のキッド。何て呼んだらいいですか?」
 まるでピクニックにでも行くようなのんきな振る舞いだ。ジェフリーは苛立った。
「俺の名前はジェフリーだ。兄貴と同居していたが、あの騒ぎで家を飛び出した。仕事もしていないし、護衛はちょうどよかったのかもしれない……」
 ジェフリーは自己紹介といきさつを話した。それを聞いたミティアは何か思い出したのか、視線を落とし震えている。キッドがミティアの肩に手を置いた。
「しっかりして……」
 ミティアは顔を覆った。村を襲ったのは人食いの龍。詳しい話はしなくても、ジェフリーには察しがついた。
 これは理不尽を味わってしまった者たちの顔だ。
 今は誰も癒すことができない。前に進む以外に選択肢がない。
 
 これから、違う日常が始まる。
 想像していなかった『日常』が――。
 
 ジェフリーはそう思いながら、二人と街をあとにした。
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