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【1】変わるきっかけ

山道で見た光

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 平原を進んだ先は山道だ。険しい山道など、普通は縁がない。
 どうしても違う街へ行きたいのなら、マーチンにやって来る商船に交渉すれば安全だろう。もちろん、船旅が絶対に安全とは限らないが。

「思ったよりひどいわね」
 山道の入り口でキッドがため息をついた。『落石注意』の看板に、落石が直撃して根元から折れている。馬車の古い轍が、砂利で埋まっていた。土砂崩れでもあったのか、上り坂も崩れかかっている
「道はどうとでもなるだろうが……」
 ジェフリーは空を気にしていた。厚みがかった雲間から見え隠れしている月の位置を確認している。
 勢いのまま街を出たせいで、誰もランタンなどの照明器具を持っていない。この真夜中で頼りにできるのは月明かりだ。しかし雲行きが怪しい。雨でも降られては、視界も足元も悪くなる。三人にとっては深刻な問題だ。
「さっさと抜けてしまうか、どこかで夜明けを待つか……」
「言っておくけど、街に戻るつもりはないから!!」
 ジェフリーの独り言に、キッドが強い口調で反応した。
 ミティアがやけにおとなしい。警戒をしているのか、それとも怖いのか。表情を読み取ることはジェフリーには難しかった。
 ジェフリーとキッドなら、狂暴化した野生動物に襲われても何とかなるだろう。だが、ミティアはどうだろうか。護衛とは言ったが、女性二人をどこまで守れるだろう。少し探ってみようとジェフリーは質問をする。
「あんたも剣が使えるのか?」
「はい? わたしですか?」
 ミティアの返事に危機感がなく、ジェフリーは脱力した。
「ほかに誰がいるんだ? 腰の剣は、やっぱりお飾りなのかと聞いているんだが……」
 質問を強調すると、キッドがミティアの手を引いた。
「ほら、進むわよ」
「う、うん……」
 ジェフリーは会話を遮られた。キッドは信用していないと言っていたが、話す権利もないらしい。
「護衛してくれるなら、前を歩いてもらえる?」
 気の強いキッドに警戒されてばかりだ。きらびやかな物語なら、即席のメンバーでも、最低限のチームワークくらいはあるだろう。だが、この扱いはひどいとジェフリーは思った。
 落石で荒れた道は人の通った痕跡がない。やっと下り坂が見えた。だがここで、雲間からかろうじて射していた月明かりが急に遮られ、あたりは真っ暗になった。
「限界だな、雨だ」
「えっ、嘘でしょ?」
 キッドが反応して間もなく、雨が降り出した。草木にとっては恵みの雨だ。しかし、三人にとってはこの静かな雨も厄介なもの。
 キッドが感覚を研ぎ澄ませる。すぐに異常を察知した。
「ミティア、どこにいるの?」
「一緒じゃなかったのか!?」
 雨が降って視界は一気に悪くなった。まだ遠いが、雷も聞こえる。
「えっ、二人とも、どこにいるの?」
 まったく予期せぬ方向から、ミティアの声がした。
「そこを動くなよ」
 ジェフリーがそう言った刹那、山道が大きく揺れた。カラカラと石が転がる。雨脚が強くなる中、ジェフリーは一瞬の稲光でミティアの位置を崖ぎわに確認した。雨に濡れ、まとわりついた前髪を払う。少ない情報を、今は見失ってはいけない。
「きゃあっ!!」
 甲高い悲鳴が聞こえた。ジェフリーは次の稲光で、崖から落ちそうになり上半身だけしがみついているミティアの姿を捉えた。彼が泥だらけの腕をやっとつかんだ途端、また山道が激しく揺れた。
「ジェフリーさん……?」
 一瞬、ミティアの手を握る力が弱まった。彼女の顔に、雨にしてはあたたかいものが降りかかる。
 ジェフリーの肩から大きい石が転がり落ちた。ミティアが顔に感じたあたたかいものは、雨に混じったジェフリーの鮮血だ。
「あ、あぁ……そんな、こんなのって……」
 また激しく揺れた。いったい山道はどうなっているのだろうか。
 
 キッドは落石で長いスカートが挟まって身動きが取れなくなっていた。
 ジェフリーが、崖から落ちそうになっていたミティアを助けようとしていた。そこまではキッドも確認していた。てっきり助かるものだと思っていたが、無情にも二人がいた場所が崩れ落ちた。
 叫び声もなく、本当に一瞬の出来事だった。
「ミティア!! 嘘でしょ、こんなのって。何で、何でなの、神様……」
 自分のロングスカートがこんな形で悪さをするなど想像もしなかった。落石からスカートを引き抜こうと足掻くキッドの真横に、暗雲を払う優しい光があらわれた。
「こちらをどうぞ」
 物腰の柔らかい声だ。キッドは驚くより先に肩にあたたかさを感じた。
「えっ……?」
 暗い色の外套がかけられ、視界が広がった。キッドの横には、雨に濡れた金髪の男性の姿があった。ジェフリーではないが見覚えがある。
「あっ、さっきの街のお医者さんじゃないですか!? どうして?」
 マーチンでは白衣を着ていた竜次だ。赤いベストにズボン、動きやすい格好をしている。腰からはカバンを下げ、左の腰には長い刀が括ってある。明かりの正体は、彼が持っていたランタンだった。
「お怪我はなさそうですね。これ、持ってください。足元、失礼しますよ?」
 竜次はキッドにランタンを持たせ、腰に括ってある刀を落石の隙間に挟んだ。そのまま石を押し上げ、キッドはスカートを引っ張った。汚れたが、破れずに済んだ。
「うちの馬鹿な弟を知りませんか? あなた方を追って来ているはずなのですが……」
 竜次が言う弟はジェフリーを指すようだ。キッドは理解した。慌てながら崩れた崖をランタンで照らす。
 崩れて間もない崖からは、小さい砂利が転がり落ちていた。それを見た竜次がキッドに質問をした。
「まさか、さっきの揺れで落ちたのですか?」
「た、たぶん……そうです」
 竜次がキッドの手を取ってさらに質問をする。
「どのあたりにいたか、わかりますか?」
 キッドは下を見て身震いを起こした。高いところが苦手なのだ。
「このあたりだったはずです……」
 キッドが指をさす先に、わずかな光の反射で川が見えた。この川のせいで険しい山道を抜けるしかないのだ。
下を見て、今度は竜次が身震いを起こす。この人も高いところが苦手なのだろうか。キッドがそう思っていると、竜次はかぶりを振って、来た道を戻ろうとする。
「二人を探さないと!!」
 竜次は叫んで走り出した。キッドも肩の外套を寄せ、一緒に走った。


 落ちた……?

 ミティアがゆっくり顔を上げると、ジェフリーが左手をつかんでいる。彼がいい手当てをしてくれたのか、少しの痛みも感じない。包帯越しでもジェフリーのあたたかさを感じた。遠くに月が見え、明かりが射している。地に足が着いていないことにも気がついた。
 ジェフリーの右手には剣が握られ、崖を刺していた。これで落下を防いだようだ。そして左手だけでミティアの落下を防いでいた。普通なら思いつかない無茶をしている。
「あ、あの……」
 ミティアの震える声に、ジェフリーは反応した。左手を握り返し、彼も顔を上げる。
「普通、どうしようもないことは、こうも続かない……」
「ジェフリーさん、顔が……」
 ミティアが見たジェフリーの顔は雨で血が滲み、ひどく見える。
「残念だけど、顔はもともと悪い」
「そ、そうじゃなくて……」
 ジェフリーは出血のせいで今にも意識が途絶えそうだ。かろうじて意識をつないでいる。だからといって、この宙ぶらりんを打開する方法も今のところ思いつかない。
 ジェフリーは握っている手が雨で滑り、今にも放してしまいそうだと思った。こうして話をしている間にも、指先の感覚が痺れてゆく。ここで放すものかと意識を強めた。
「わたし、いつも何もできなくて、それなのに迷惑かけて……」
 急にミティアは涙声になった。震える声は徐々にかすれ、本当に泣き出してしまった。
「やっぱり、死んでしまえばよかったんだ……」
「そういうことは言わない方がいい」
「だって……」
 ジェフリーはミティアと言葉を交わして、不思議な気持ちになった。この怪我だ。長くは持たないだろう。握る手に力を込めた。どうしても助けたいと思った。
 最初は面倒だと思った。だが、どこか狙って抜けているのではないかと面白いところもある。美人で可愛いくせに、仕草はまるで小動物。だが、まだ笑った顔を見たことがなかった。泣いた顔や、不安な顔ばかりを目にしている。今だって、気の利いたことが言えず、泣かせてしまった。勇気づけたかった。
「この世に生きてちゃいけない人間なんて、いない……」
「えっ?」
「生きてちゃいけないとしたら、俺がとっくにそうだから」
 ジェフリーは左手を強く握り、引き上げて下を見た。
 気まぐれに射した月明かりのお陰で、反射した川が見えた。運がよければ、川に落ちる希望が描けた。でもどうせこの怪我では自分は助からないだろう。ジェフリーはそう思いながら、最後の力を振り絞った。
「この高さなら、多少はどこかをやられるかもしれないが……」
「ジェフリーさん?」
「頭、引っ込めろ!! あんたを、絶対に死なせはしない!!」
 ジェフリーはミティアを引き寄せてしがみつかせ、頭を引っ込めさせた。剣が緩んだ拍子に崖に足をかけ、できるだけ水面へ飛び込もうと試みた。
 理不尽を味わってしまった少女を、自らを死んでしまえばよかったと諦めていたミティアを、ただ助けたい一心で。自分のことはどうでもよかった。
 
 ジェフリーは、もっと生きたい人にこの命が渡せるなら――ここだと思った。

 結局また落ちて、落ちた。
 暗い。痛いとか、苦しいとか、よくわからない。
 遠くなる意識。過去にもこんな感覚があった。
 あれは――

 川の音と泥の臭いでミティアは目を覚ました。鈍い痛みがあるが、体を起こせた。
 ミティアの視界に入ったのは、血に塗れ、動かないジェフリーだ。冷たい雨に濡れながらも、まだあたたかいその手は握り返してはくれない。
「あっ……ど、う……し……」
 手がこぼれ落ちて血の海に沈んだ。広がっているのは、ミティアの血ではない。
 ジェフリーが言ったように、ミティアは大きな怪我をしなかった。目の前の人は、生きてちゃいけない人間なんていないと、励ましてくれた人だ。
 こんなの嫌だ。嘘だ。嘘に決まっている。自分のせいだと責めて何もなかったことになるのなら、とっくにそうする。ミティアはそう思いながら、血だらけのジェフリーの手を握った。両手で懇願(こんがん)するように強く祈る。

「死なないで……お願いだからっ!!」


「この道はダメですね。少し荒っぽいですが、ここを降りましょう」
 竜次はキッドに崖路を降りようと提案した。道が土砂で塞がれている。
「あの、それって、お医者さんも帰れないじゃないですか!」
 キッドが指摘をするも、土砂で退路は断たれている。ここからは片道切符だ。
「どちらにしろ、私も、もう帰ることはできませんし」
 竜次の口調は落ち着いていた。ずぶ濡れだが、凛々しさを崩さない。
「失礼しますね」
 竜次は断りを入れ、キッドの背中と膝裏に手を回した。
「ちょっ……!?」
「捕まっていてくださいね……っと」
 キッドを抱え上げ、崖路を降りる。着地の手前、キッドが持っていたランタンが大きく揺れた。
「えっ、わわわわわ、ちょちょっ!?」
 キッドの視界がぐるりと回り、がくんと上下した。
「す、すみません……」
 竜次は腰の刀が地面に突っかかり、着地に失敗したようだ。膝を着いて、申し訳ない表情をしている。
 キッドは尻もちを着いていた。外套のおかげで汚れは少ないが、どちらかというと落とされたことで、精神面にダメージを受けた。
「女性を落とすなんて最低ですよね。お怪我はないですか?」
 竜次が手を貸そうとした。すると、風が吹き乱れ、茂みの先に天を突く眩しい光が見えた。
「あれ、何だろう……?」
 竜次の手を取りながら、キッドも光を見ている。
 光は空へ突き抜け、雨雲を散らした。あれだけ降っていた雨がぱたりとやんだ。悪天候が嘘だったかのように、綺麗な星空が広がっている。
「行ってみましょう。川の方角です」
「えっ、あの……」
 三日月のピアスが揺れた。竜次はキッドへ振り返る。
「私、竜次と申します。変わった名前でしょう?」
 思い出したように名乗った。悪い印象を抱かない、独特の微笑を浮かべている。
「あ、あたし、キッドです」
 簡単に自己紹介をして、二人は道ではない道を進んだ。雨のせいで地面はぬかるんでおり、大小さまざまな落石も見受けられる。
「この山、火山らしいですよ。活動が活発になって、観光地にもならなくなったみたいです。この先にある街も廃れて馬車も出さなくなったと聞いた覚えがあります」
 竜次は説明をしながら、地図をカバンにしまった。いつの間にか見ていたようだ。
 この先は鬱蒼と茂っている。
「ここを抜けたら川みたいです。どちらにしろ、もう地図はアテになりませんね」
 竜次は深いため息をついて、左の腰に下げている刀を引き抜いた。
 ぎらりと不気味に光る刃は鋭さを感じる。障害物を一掃する技でも繰り出されるに違いない。そう期待に満ちたキッドの目の前で、生い茂った草木を切り崩して先を歩き出した。
「えっ、あの……」
「必殺技でも出すと思いましたか?」
「い、いえ、そんな……」
 キレの悪い冗談だ。この状況でふざけている気もしたが、その足取りは急いでいた。進むにつれ、徐々に川のせせらぎが近くなる。竜次が斬り伏せた茂みの向こうに開けた場所が見えた。視界が開けると、二人は駆け抜けた。

 落ちた二人が倒れている。ジェフリーは仰向けに、ミティアは彼の手を両手で握って横たわっていた。
「ジェフ、しっかりなさい!」
 泥と雨に濡れた痕跡だけで目立つ外傷はない。
「先生!!」
 キッドは竜次が医者なので、とりあえず『先生』と呼んだ。
 竜次はミティアとジェフリーを確認するが、二人とも手はあたたかく、脈が取れた。呼吸もしている。
「これはいったいどういうことですか……」
 竜次は二人が無傷だと困惑した。その困惑に応えるように、ジェフリーがうめき声を上げた。すぐに目を開き、覚醒した。
「ジェフ、大丈夫ですか? どこか痛みませんか?」
「……ってぇ……」
 ジェフリーは自力で上体を起こせた。後頭部に痛みが走り、思い出したように全身の感覚を得る。左手に違和感があり、手を握っていたミティアの存在に気がついた。その手は柔らかくてあたたかく、放すのが惜しくなるくらいに強く握られていた。
 右手で頭のうしろに触れて驚いた。鈍い痛みこそあるが、傷がない。確か落石で怪我をしていたはずだ。傷口に受けた冷たい雨の感覚を覚えていた。なぜ無事なのかと、ジェフリーの頭の中は疑問でいっぱいだった。
 キッドが揺すっても、ミティアは目を覚まさない。
「あんた、何したのよ?」
 キッドのきつい言葉と視線を受け、ジェフリーは一気に目が覚めた。
「何って……」
「ふざけてるの?」
 ジェフリーは答えないまま、あるものを探していた。崖を刺していた剣が……あった。数メートル先、崖の下に剣が落ちている。その視線を追って、竜次がミティアを診ながら質問をした。
「何があったか、わかるように説明してもらえますか?」
「……どうして、兄貴が?」
「それはあとで落ち着いたら話します」
 竜次は立ち上がり、剣を拾いに行った。そのまま崖を見上げる。そう、その崖から。
「落ちた……この子と一緒に」
「やっぱりそうだったのよね」
 キッドは目を伏せ、肩を落とした。自分が助けられなかったと悔いているようだ。
「この剣、こちら側だけひどく刃こぼれしていますね」
 竜次がジェフリーの剣を持ち上げるも重そうだ。刃を見て首を傾げている。片方の刃に傷が多く見られた。
「一度はそいつで落下を逃れた。でも打開策がなかったから、この子を抱え込んで庇いながら落ちた。茂みか川にでも飛び込められたらよかったが、ご覧の通りだ。俺は頭に怪我もしていたし、少なくとも無事で済むような高さじゃなかったはずだ」
 ジェフリーは落ちてからのいきさつを説明し、目を覚まさないミティアに目を向けた。
「まったく、子どもみたいな無茶を……」
 聞いた竜次は弟の無謀さに呆れかえる。命が助かっただけいいのかもしれないが、この無茶を褒めるに値しないといったところだ。
「ジェフの無茶はともかく、無事でよかった。今はそれでよしとしましょう」
 竜次にとって二人とも無傷なのが不思議でたまらない。今問い詰めても、ミティアが目を覚まさないのなら話は前に進まない。彼女を何とかする方が先だと切り替える。
「怪我、治ってるのね……」
 キッドが少し違う趣意の呟きをした。ジェフリーはこれに答えられず、視線が泳ぐ。
 また小さい揺れが起きた。
「この山道はゆっくり話もさせてくれないみたいですね。ここを抜けましょう」
 竜次はジェフリーの鞘に剣を収めた。そのままミティアを引き取ろうと手を解いた。
「俺が持つ……」
「ほぅ?」
 竜次は変な勘繰りをしていた。
 ジェフリーがミティアを受け持つのは、目を覚まさない理由が自分にあるのかもしれないと責任を感じていたからだ。
 兄弟のやり取りを耳に、キッドは表情を曇らせていた。
 
 山道を抜け、到着したのはふもとの街レスト。かつては登山と観光のために設けられた足休めと、宿泊施設で栄えた街……だったらしい。今となっては活気はない。入り口の色あせた観光案内の看板が見えた。あの山道の様子から、観光どころではない。廃れてしまい、街の半分くらいは空き家のようだ。長らく放置されて崩れかけの建物も見受けられた。
 すっかり夜が明けてしまった。朝日が無駄に眩しいが、とにもかくにも宿で休息を取りたい。目を覚まさないミティア以外はそう思っていた。
 休めそうな場所を探すも、街中は早朝から散歩を楽しむお年寄りの姿が目立った。
「見るも無残な限界集落だな。観光の街って言っても、これじゃあマーチン以下だ」
「ジェフ、言葉には気をつけなさい。今は休める場所を探しましょう」
 街を見渡しながらジェフリーは思ったままを口にしたが、竜次に注意されて口を慎んだ。ただ街を眺めていて見ていては何も始まらない。
 街の人からの情報で一行は宿にありつけた。フロントで部屋は取れたが、大部屋しか用意がないと言われた。つまり、男女一緒の部屋。一般的にはあり得ない。
 通されたのはベッドが四つあり、椅子もテーブルもある家族部屋だった。観光の街らしさがうかがえたが、この際休めるのなら何でもいい。
「正直、不満だけどしょうがないわよね」
 少なくともキッドは気にしていたが、ミティアがいるのだから仕方ない。
 キッドはあくびをしながら目を擦った。ジェフリーもミティアをベッドに下ろし、肩をぐるぐると回している。夜通しだったのだから、眠気も疲労もあるだろう。
 ただ一人、竜次は端正な顔に眠気が見られない。
「まずお二人は休んでくださいな。お疲れでしょう?」
 カバンを下ろし、椅子に腰掛けていた。
「えっ、先生は?」
 キッドは竜次を心配していた。彼女の背後では、ジェフリーが剣もジャケットも脱ぎ捨てて横になっている。
「私は三日に一回、六時間眠れたらいいので……」
 竜次は平気だと笑っていた。だが、キッドの腕を見て目の色を変える。
「おっと、包帯くらい替えませんと」
 キッドの腕の雨と泥をかぶった包帯を気にかけた。
 下ろしたばかりのカバンから包帯を取り出すが、数が合わないと気がついた。ほかにもガーゼ瓶や、新品のピンセットも開けた跡がある。これを見た竜次は、カバンから視線を移す。背を向けて寝ているジェフリーに目を向け、次に目覚めないミティアの左手を見た。彼女の手にも汚れているが包帯が巻かれている。
「なるほど……」
 竜次は小さく笑って、包帯をもう一つ取り出した。まずは、キッドの腕の包帯に真新しい鋏を入れる。

 ミティアは仮眠をとった二人より目覚めるのが遅かった。山道で意識がなくなった時間など正確にはわからないが、かなり眠っていたことになる。
 日は傾き、部屋の窓からは西日が射した。
 ミティアは上半身を起こし、ここがどこなのか、どうして竜次がいるのかと気にしていた。
「あぁ、ちゃんと紹介をしていませんでしたね」
 竜次は立ち上がってミティアの前で軽く頭を下げた。
「私はジェフリーの兄、竜次・ルーノウス・セーノルズと申します」
「げっ……」
 竜次の自己紹介なのに、ジェフリーが顔を引きつらせている。
 その理由を、ミティアもキッドも理解していない。
「りゅーじさん……? マーチンにいたお医者さん、ですよね?」
 ミティアは小動物のように首を傾げている。竜次は頷き、笑っていた。
「変わったお名前ですね? わたし、ミティアです」
 ミティアは名乗ってから笑顔を見せた。
 ジェフリーは心の中に燻ぶりを感じていた。竜次はたやすくミティアの笑顔を引き出した。この差は何だろうか。
 竜次は笑顔のまま質問をする。
「一応確認しますが、ここから北西に沙蘭サーランという国があるのはご存じですか?」
 ミティアもキッドも顔をしかめ、見合わせていた。
「ほくせいの……?」
「さーらん?」
 この反応に竜次は苦笑いをし、脱力した。『沙蘭』が通じていない。知らないままでもよかったのかもしれないが、一度は出してしまった話だ。このまま黙っているわけにもいかずに続ける。
「難しい話は省いておきますが、妹が城主をしています。もし、長旅にでもなるようでしたら言ってくださいね。何か協力できると思うので……」
 難しい点は省いたかもしれないが、やんわりと重要な話をしていた。ミティアもキッドもピンと来ないらしく、落ち着いて聞いていた。だが、ジェフリーが余計なことを付け加えた。
「要するに、兄貴は一国の関係者だと思ってくれればそれでいい。金とか、関所を通りたいとか、お偉いさんの力を借りたいときはちょっとした手伝いができるってことだ」
 ジェフリーの言葉で徐々に理解したのか、先に声を上げたのはキッドだ。
「ま、待って、先生って偉い人なの?」
「それじゃあ、ジェフリーさんも?」
 ミティアも驚き、ジェフリーに視線をおくった。だが、彼はそっぽを向いた。
「俺は関係ない。もちろん、金も権力もない」
 キッドは竜次が気になっていた。
「だからお医者さんなんですか?」
 キッドに質問をされ、竜次は苦笑いで返した。
「それはまたちょっと違うお話ですね……」
 竜次は少し悲しい表情をした。どうやら医者に関しては、あまりいい理由がないようだ。
 出会って数時間、お互いの深い話にはまだ触れずにいた。

 竜次の話がひと段落した。ジェフリーは腕を組みながらキッドに向き直る。
「うちの家庭事情はさておき、あんたに質問がある」
「な、何よ?」
「そろそろ話してもらっていいか?」
 キッドが唇をきゅっと噛んだ。ミティアに歩み寄ってベッド脇に座ると、観念したように深くため息をついた。
「どこで知ってるってわかったのか、聞いていい?」
 心理戦が始まっていた。ジェフリーはずっとキッドを不審に思っていた。
「怪我が治っているのを不思議がっていなかった。兄貴にも聞きたいが、親友とやらがぶっ倒れているのに、泣いて騒いでなかったんじゃないか?」
「んー……確かに、あまり取り乱していませんでしたね」
 竜次は話を振られ、心当たりがあるのか深く頷いた。ジェフリーは続けた。
「こうとも取れる。俺が何かした、ふざけてる……こいつの何かを引き出させたみたいな口振りだったよな?」
 聞いていたミティアが、キッドの腕を引いた。
「わたしも知りたい。キッドは何を知っているの?」
 これだけミティアがせがんでも、キッドはなかなか口を割らない。
 竜次は、もしかしたらジェフリーの喧嘩腰な言い方のせいで話しにくいのかもしれないと思った。椅子に深く腰掛け、じっとキッドを見つめる。独特の微笑を浮かべて語るように話した。
「これでも一応お医者さんなので興味があるのですよ……」
 独特の微笑からは威圧が感じられた。竜次もこの話に興味、執着があるようだ。
「一瞬で怪我が治る薬なんてありませんからね。あるとすれば……強力な治癒魔法でしょうか?」
 言わないとこの状態が続きそうだ。キッドは竜次の威圧に恐慌きょうこうをきたした。
「あ、あたしは魔法に詳しくないし、魔法は使えない。魔法使いは嫌いだし。魔法に詳しい人がいたら、その正体がわかるかもしれないけど」
 キッドは取り乱しつつ、話を続けた。
「亡くなったミティアのお兄さんから、妹は不思議な力を持っていると聞いたことがあります。話そうとは思っていました。でも、詳しくわからないから、どう話せばいいかもわからなくて……」
 キッドは銀髪で黒マントの男と話の中で場所について反応していた。つまり、彼女はミティアがさらわれる理由に心当たりがあった。だが、詳細がわからず、なかなか話せなかったことを悔いていた。

 次々と疑問が浮上するので、話が一点に集中できない。
 ジェフリーが小難しい顔をしながら唸った。
「治癒魔法か……」
「意外ですね。ジェフが魔法の話に興味を持つなんて」
 ジェフリーは竜次を鋭く睨んだ。彼にだって触れられたくないことがある。それでも話しにくそうにしながら、ミティアとキッドに言う。
「あんまり話したくないが、魔法について、まったく知らないわけじゃない」
「な、何であんたが魔法について知ってるの?」
 キッドは眉をひそめた。ジェフリーは腰に立派な剣を下げている。魔法に詳しいとはとても思えない。
「短い間だったが、フィラノスの魔法学校に在籍していたことがある」
「……それで?」
 意外にもキッドは興味を持っていた。ジェフリーは続ける。
「治癒魔法については知らないが、情報がありそうな場所なら心当たりがある。大図書館が有力だ。ただ……」
 ジェフリーは言い詰まった。聞いていた竜次が、軽く手を叩く。
「教授に許可をもらうか、総合成績がよくないと自由に入館できないんでしたっけ?」
 知っていても利用するためには条件がある。もちろん打開の手段もない。
 目指す場所が見えて来たが、話が行き詰った。

「あの……」
 ミティアが不安そうな声を上げた。肝心の彼女が置き去りになっている。
「わたし、結局何ですか?」
 ミティアの『不思議な力』の正体はわからないままだ。治癒魔法かもしれないし、そうではないかもしれない。銀髪黒マントの男は、それを調べろと指したのだろう。個人で知っている情報を開示したが、おぼろげなヒントだけで、何も解決していない。ミティアの表情も暗かった。
 竜次は立ち上がってジェフリーの手を引いた。
「何だよ?」
「いいから」
 まるで保護者のような立ち振る舞いだ。
 竜次はミティアに質問をした。
「崖から落ちたのは覚えていますね?」
「はい……」
「ジェフは何かしましたか?」
 竜次の質問にミティアは首を一度は横に振った。だが、すぐに大切なことを思い出し、小声で呟くように言った。
「あっ、でもわたしのことを励ましてくれました。ずっと、手をつないでいてくれた」
 ミティアは顔を上げ、ジェフリーと目を合わせた。
「男の人にあんなに強く抱き締められたの、初めてだったので何て言えばいいのかわからないですが、すごくあたたかくて、うれしかったです」
 彼女はここまで言って、大きく息を吸った。頬を赤くして声を震わせる。
「落ちたときの記憶、最後までは覚えていませんが、助けてくれてありがとう……」
 ミティアから笑顔が綻んでいた。少し儚く感じたが、やっと笑ってくれた。あれほどジェフリーが見たいと思っていた、彼女の笑顔だ。たったこれだけで、心の中で何かが救われた気がした。
 ジェフリーの視線が無駄に泳いだ。どうしても恥ずかしい。それでもきちんと言わなくてはとかぶりを振った。
「頭の傷もなくなっていた。あの高さだから、きっと俺は無事じゃなかった。それをあんたは治してくれたんだと思う。助けられたのは俺だ、礼を言いたい」
「そ、そんな、わたしはたくさん迷惑をかけたのに……」
 ミティアは落ち込み、涙声になってしまった。
 そんな顔をしてほしくないのがジェフリーの正直な気持ちだった。ミティアの命を助け、自分も助けられた。放っておけない気持ちが芽生えた。
「護衛とは言った。でも、それだけじゃなくて、協力させてもらいたい。まだ何もわかっちゃいないけど、解決して自由になれるといいな」
 深入りをしないように、気を遣っていたジェフリーが励ましの言葉をかけた。ミティアははにかみながら、小さく頷いた。少しでも気持ちが上向いてくれるなら、それでかまわない。ジェフリーはそう思い、頷き返した。
 一部始終を見ていたキッドが、ジェフリーに対して冷ややかな視線をおくっていた。
「やっぱり、気色悪いわね……」
ミティアと親しくなろうとすると、言葉と態度で噛みつかれる。まるで番犬のようだ。キッドとのやり取りは、気が緩むより緊張感があっていいかもしれない。ジェフリーはこのやり取りが、さほど嫌だと感じていなかった。

 竜次はカバンから古そうな地図を取り出して広げた。持ち物から推測すると、少しは外の世界に慣れているようだ。
「このまま川沿いを北へ行けば魔法都市フィラノス。ここから数時間程度ですが、それでも徒歩では距離がありますね。もう夕方ですから、今日はゆっくり休んで、明日の早朝にここを出ましょう」
 竜次は言ってから、だいたいの道筋を指で描いた。確認が終わって地図を折りたたみ、カバンにしまった。立って身支度を整え、ミティアとキッドに声をかける。
「さぁ、ご飯を食べに行きましょう? お買い物もしたいですし、ね?」
二人は顔を見合わせながら、そわそわと落ち着かない様子だった。マーチンを出てから何も食べていないだろう。お腹は空いていないだろうか。などと思いながら、竜次は首を傾げ、質問をした。
「どうしました?」
 二人は恥ずかしそうに答えた。
「あ、あの、あたしたち……」
「あんまりお金持ってなくて……ごめんなさい。この宿代だって先生が出してくれましたよね?」
 その言葉を聞いて、ジェフリーが思い出したようにジャケットを探る。ポケットから袋を二つ取り出して、竜次に渡した。片方は薬草の入っている麻袋だ。
「こっちはあなたが持っていなさい」
 竜次は中身を見ないまま、麻袋ではない方をジェフリーに返した。
「私がいないときに必要なものがあったら、ここから出しなさい。小銭は重くて音が立つので、あまり作りすぎないようにしなさいね」
 返す際、軽い金属がぶつかる音がした。中はお金だ。
「お金でしたら、しばらく私が工面します。底をつくようでしたらこっそりと出張診療所でもやりますので……」
 竜次の言葉にミティアもキッドも目を丸くした。戸惑いながらキッドが質問をする。
「えっと、どうして先生たちはそこまで親切にしてくれるんですか?」
 この兄弟は他人だ。ミティアの『不思議な力』の謎の解明だけではなく、どうしてお金の工面までしてくれるのだろうか。
 竜次もジェフリーもお互いを見合っていた。
「あの黒い龍、女の子、それに黒マントの人もそうですが、私たちは顔を見られてしまったのです。偶然でも居合わせてしまった時点でもう他人ではないのかなと」
「まぁ、俺も最初は面倒だと思ったけど」
「私たちは、いつでも抜け出せたはずの日常に流されていました。まだちゃんと自立できていないこの子が、まさか出て行くとは思いませんでしたが」
「勝手に出て行ったのは謝る……」
 竜次は息をついて腕を組んだ。ジェフリーの身勝手はいいとして。
「親切の大半の理由は私が弟の保護者だからです。お金に限らず気を遣わないでくださいね。遠慮しないでくださいな」
 にっこりと、好印象を抱かせる笑顔だ。
 キッドはミティアの手を引き、二人は竜次に頭を下げた。
「先生、ありがとうございます」
「あたしたちにできることがあったら、手伝わせてほしいです」
 竜次はつかつかと部屋の入り口に歩いて行き、笑顔で手招きした。
「まだ何もしてないですよ。ごちそうもしていませんからね?」
 一同は街に繰り出した。
 
 レストの街は閑散としている。温泉を掘る計画があったようだが、何年も前に頓挫してしまったらしい。近場が火山なのだから、可能性はあっただろう。観光産業に力を入れようとした痕跡が見受けられた。土産物の工芸品の工房があったが、閉まっている。明かりのない民家の窓からは、何年分かわからない埃が見える。その民家の玄関には街のアピールポスターが貼られていたが、色あせてボロボロになっていた。
「温泉があったら入りたかったですね」
 竜次は街を見渡しながら、ジェフリーに世間話を振った。
「あほか、旅行じゃあるまいし、家族で行ったこともないだろ」
「確かに家族で旅行なんて、しなかったですね」
 街中を歩きながら兄弟が会話を交わす。不意に『家族』という言葉が飛び交って、女性二人が落ち込んでしまった。
「家族がいるっていいわね……」
 キッドがミティアに言ったつもりなのだろうが、その言葉をジェフリーが拾った。
「家族はいるが、両親は行方不明だ」
 ジェフリーに家族について触れられ、キッドは噛みつくように言い返した。
「まだいるだけいいんじゃない? こっちは両親が死んで……天涯孤独だし」
 その噛みつくような言葉の中には悲しみが込められていた。察したミティアがキッドをフォローする。
「わたしはもう肉親がいないけど、キッドはまだ弟が生きてるかもしれないって言ってなかった?」
「『魔導士狩り』があってから、もう十年くらいよ。巻き込まれちゃってるわよ」
 キッドは諦めるように首を振った。

「進んで話すつもりはなかったけど……」
 ジェフリーが足を止めてキッドに向き合った。二人の間には、異様な空気が流れる。
「俺も『そこ』にいた」
 共通の過去があった。言葉は少なくとも、気持ちを汲み取るには十分だ。ジェフリーは魔法学校に縁があると話したが、魔導士狩りにまでは踏み込まなかった。
 キッドは何度か瞬き、そして小さく頷いた。
「魔導士なんて名前だけで、ほとんど無差別だった。大量殺人なんて理不尽よね」
「理不尽……そうだよな」
 ジェフリーは理不尽と言われ、心を深く掘り下げられた気がした。忘れかけていたのに、忘れようとしていたのに、心の傷は癒えない。
 お互いに何を失ったのかは言わなかった。まだ、そこまで腹を割って話していい仲ではない。
 この気遣いは無駄なのかもしれない。目的地はフィラノスだ。嫌でも思い出す。ジェフリーは塞ぎ込みながら、ぼんやりと考えていた。同時に、いつこの気遣いを解こうかと探っていた。人の心の闇に触れるのは、せっかく築いた関係の悪化につながると知っていたからだ。深く入れ込まないようにしているが、関係を悪化させたくないという矛盾に葛藤を抱いていた。

「わぁっ!! これ、おいしそうですね!」
 ミティアの明るい声が場の空気を変えた。竜次も一緒になって街案内のパンフレットを見ながら悩ましい顔をしている。
「中に餡子が入っているので、甘いものですよ?」
「甘いんですか? 知らなかったです」
 ミティアは見慣れない食べ物に興味津々だ。
「饅頭というのは、お土産としては手頃な食べ物です。ここに限らず、行く先々であるかもしれませんね」
 竜次は説明を入れてからジェフリーに視線をおくった。口元が笑っているので、わざとだ。暗い話題から逸れるように誘導したと見ていい。
 説明を耳にしたミティアが、今度は頬を膨らませた。ころころと表情が変わるので可愛らしい。
「でも温泉がないのに、温泉饅頭って名前は嘘をついているみたいでおかしいです」
「あっはっは、おいしいので許してあげましょうよ」
 竜次は気を大きくし、豪快に笑った。和やかな空気になり、話はさらにはずんだ。
「わぁ、キッドが好きなパスタ屋さんがあるよ!」
 今度はお店の話をしていた。ミティアはパンフレットを見てはため息をついている。
「こっちは落ち着いたお店ですね」
「これはバーです。ミティアさんはお酒が飲めるのですか?」
「お、お酒はまだ飲んじゃダメですっ!! わたし、まだ大人じゃないので……」
 ミティアと竜次だけで話が盛り上がっている。会話の中で、『お酒』という単語が飛び出した。ミティアは自身が『大人ではない』と打ち明けた。
 それを聞いた竜次がにっこりと笑った。鼻の下を伸ばし、明らかに下心がある様子だ。
「ジェフはいつもお酒に付き合ってくれません。いつか、飲めるようになったミティアさんをお誘いしようかな?」
「わ、わたしですか? いいんですか!?」
「えぇ、大人になるまでお待ちしていますよ。ふふふ……」
 ジェフリーは竜次の態度に呆れていた。どこまでが本当で、どこからが冗談なのかがわからない。気を遣っている自分とは正反対で、親しく接している。口に出さないが、正直、気に食わない気持ちを燻ぶらせていた。

「あ、あの……」
 声を上げたのはキッドだ。彼女のことだ、そろそろ文句の一言でも挟むのかとジェフリーは思っていた。だが、耳を疑った。
「あたし、お酒飲めますよ!!」
 キッドが会話に混ざったことで、ミティアの表情が一段と明るくなった。そのまま、どこで食事をしようかと話を広げている。
「ジェフリーさんは何が食べたいですか?」
 ミティアが話題を振った。キッドと竜次も注目している。これにはジェフリーも困惑した。
「な、何でも食える。辛いのは好きじゃないけど……」
 渋々会話に混ざった。話題の共有により、一行の雰囲気が明るくなった。

 足を運んだのは、食堂だった。人はまばらで繁盛している様子ではない。
 皆は思い思いの料理を注文した。ところが、竜次の前には軽食しか置かれていない。彼も夜通しで山道を抜けたはずだが。睡眠欲もなければ食欲もないのだろうか。
「先生はあんまり食べないんですか?」
 大皿のパスタを頼み、キッドと仲むつまじく取り分けているミティアが質問をする。パスタの横にある山盛りのサラダにはすでにフォークが刺さっている。宿を出る際に、気を遣わなくていいと言われていたが、さっそく遠慮をしていなかった。
「あんまり食べると、眠くなってしまいますので……」
 竜次はちまちまとチョリソーを口に運んでいた。ほかには、マグカップの野菜スープが置かれている。
明らかに食事らしくないと、ジェフリーが苦言を呈した。
「休めるときに休め、食えるときに食え、体調管理もしっかりしろ、それが医者じゃなかったか?」
「それはそうですけど……」
「それに、ここからフィラノスまでの平原で、何か出たらどうするつもりだ?」
「お金の工面だけじゃダメですか?」
「何言ってんだよ。足を引っ張るつもりか!?」
「だって……」
 竜次のふてぶてしい態度を見て、ジェフリーはテーブルを叩いて立ち上がった。そして強い口調で言った。
「さっさと食って付き合え!!」
 サラダからプチトマトをつまんで食堂から出て行った。竜次は口を尖らせ、深めのため息をついた。
「やだなぁ、そういうの……」
 肩を落とし、明らかに気が進まない様子だ。このやり取りは何を意味するのだろうかと、ミティアもキッドも気になった。
「先生……?」
 ミティアが心配そうに顔を覗き込んだ。
 竜次は諦めるように空っぽの笑みを浮かべて言う。
「喧嘩みたいなものですから、よかったら護衛さんの実力でも見に来てくださいな?」
 もう一度ため息をついて、空になった皿をジェフリーが食べたあとの皿に重ねた。
「ごめんなさいね。弟のせいでおいしくないお食事にしてしまって……」
 竜次は軽く頭を下げて詫び言を口にし、席を立った。

 宿の近くの閑静な場所で兄弟が話し込む。
「一人で素振りでもしてなさい」
 竜次は明らかに嫌そうな顔をしていた。彼の足元に、使い込まれた木刀が放られている。ジェフリーも木刀を持っていた。
「何年も振ってないなんて、舐めてるとしか思えない。訛(なま)ってるんじゃないか?」
「さぁ……?」
「その重たいカバン……外さなくていいのか?」
「ちょうどいいハンデかもしれませんよ。どうせ私も、フィラノスまでの護衛です。そもそも、このやり取りは必要ですか?」
 竜次は渋々カバンから手袋を出し、左手にはめた。
 少しして、ミティアとキッドも駆け付けた。二人とも、これから何が始まるのだろうと期待に満ちた目をしている。
「先生、あいつと何をするんだろう?」
「お稽古……かな?」
 女性二人が見守る中、竜次は木刀を拾い上げた。この街は空き家も多く、多少は騒いだところで迷惑はかからないだろうと判断した。
「どうしようかな。カッコ悪いところ、見せられないですね」
 せっかくだから、いいところを見せよう。竜次はそう思いながら軽く振ったが、すぐに顔をしかめた。
「使い込まれていますが、私にはちょっと短いなぁ……どこから持って来たんです?」
 刀と比較すると、明らかに短い。武器は宿に置いて来たので、木刀を使うしかないのはわかるが、これはどこから持って来たのだろうか。竜次は疑問に思った。
 ジェフリーは悪びれる様子もなく、平然と答えた。
「さっきの何年も使ってなさそうな工房の裏」
 その返事に竜次は肩を落とし、深いため息をついた。
「犬じゃないんだから……」
 呆れつつ、持つ位置を確認していた。左手に手袋をしたのに右手で持っている。剣術にはさまざまな流儀があるが、竜次は片手持ちのようだ。
「はい、どうぞ、いらっしゃい」
 左足だけそっと前に出し、竜次は構えた。
 仕掛けたのはジェフリーからだ。受け止められたが、力で押し切ろうとしていた。
「お、馬鹿力……」
「左手は使わないのか?」
「一応つけましたが、使うほどジェフは強くないかな?」
 実力を舐められていると知ったジェフリーは、嫌悪感むき出しの舌打ちをした。交わる刃の向こうに何を考えているのか読み取れない微笑。気分が悪くなって当然だ。
「さて、こうだったかな……?」
 竜次は一瞬だけ体を引いたが、その次には刃を弾き返していた。ジェフリーは足元を崩し、少し後退した。素人が見てもわからない速さと技術が光る。
「え、何? 今の……」
 緊張の中、キッドは声を発した。剣術はさっぱりだが、目を凝らしている。ミティアも黙ってはいなかった。
「先生の技、一度引いてから、攻め込まれるリスクごと押し返してるね」
「えっ、ミティア。もしかしてわかるの!?」
 そういえばミティアも腰に剣を下げている。振り方にはある程度の理解があるようだ。ただ、根本的な技術はよくわかっていないらしく、振りを見ては首を傾げていた。
 また刃が重なる。ジェフリーは今度は下から仕掛けた。これも難なく受け止められてしまった。
「下からは力が入らないから、こうなりますよ?」
 竜次はまた、受け身の体勢のまま捻って切り返した。今度はジェフリーの木刀が弾かれ、地面を跳ねた。カラカラと乾いた木の音が響く。気まずそうなジェフリーとは違って、竜次は楽しそうだった。
 じっと観察していたミティアが難しい顔をしながら呟いた。
「先生、一歩も動いてないね……」
 ただすごいと言うのは簡単だが、どうも着眼点が違う。鉄壁の防御、鋭い剣戟、そして動いていない。
 ミティアの指摘がうれしかったのか、竜次はすっかり気をよくしていた。
「敵意のあるものに遭遇したら、私も努力はします。か弱い女性が怪我をするくらいでしたら、本気を出しますよ? 技や、居合はすっかり忘れていますけどね」
 日が落ちようとしている。だが、竜次はちょっとした稽古で火がついたようだ。肩をぶんぶんと回した。
「さぁ、もうちょっとお付き合いしてくださいな」

 兄弟の打ち合いは、結局夜遅くまで続いた。
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