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【5】親と子どものカタチ

ブラザーズ・カラミティ

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 視界は真っ暗。目を閉じているのか、開けられないのか。体を動かそうとしたが、鉛のように重かった。
 ふかふかの布団が心地よく、これもまた体を動かせなくなる要素だった。
 ……布団?
 竜次は自分の体ではない感覚に襲われていた。
 確か自分は父親のケーシスに豪速の蹴りを食らった。そこまでは覚えがある。
 目を開くと白い天井が視界に入った。次いで蛍光灯。ここはどこだろうか。
「よーお、気ぃついたか?」
 竜次は視線を横に動かした。なぜか首が動かない。
 金髪で四角い眼鏡をかけた男性。自分を息子と呼び、殴った父親、ケーシスだ。竜次を覗き込んでいた。
「お……と、さま……」
 竜次はか細い声を上げる。激しい頭痛が襲い、起き上がることはできない。
 ケーシスは竜次に質問をした。
「一応聞くが、四肢は動くな? 感覚はあるだろう?」
 竜次は頷き何か言おうとする。動かすことは難しいが、感覚はある。なぜケーシスは心配をするのだろう。
 ケーシスは鼻で笑い飛ばし、すぐ引き下がる。
「薬が抜けるまで、おとなしくしとけ」
 竜次は大きく息を吸ってこれが夢ではないと確認した。生きている。いや、生かされたのかもしれない。
 無情にも、何も聞き出せないまま、鉄扉が閉まる音がした。
 起きなければ。
 竜次は頭をわずかに持ち上げた。たったこれだけで、ぐるぐると視界が回る。気持ちが悪くて仕方がない。吐くものがないのに、嗚咽が込み上げた。
 真っ白な部屋、真っ白なベッドにシーツ、布団まで真っ白。これではまるで病院だ。
 やっと起こせたと思ったら、隣にもベッドがあると確認ができた。
 竜次は目を疑った。見えるのは金髪、青いジャケット。ジェフリーだ。
「ジェフ……?」
 ちゃんと言えた。だが気分が悪すぎて、壁を背にした。これ以上動くとどこか壊れてしまいそうだ。薬のせいだろうか。それとも、打ちどころが悪かったのか。
 竜次は一度冷静になった。
 情報の整理をしてみよう。

 自分はクディフと争った広場へ、医者カバンを取りに行った。
 そこで惨状の痕跡を見た。
 父親に会った。殴られた。礼儀がなっていないと言われて。
 そして今だ。

 体は悲鳴を上げるばかり。考えることはできるのだが、気持ちが悪い。頭を下げたが、余計に気持ち悪くなった。
 目の前に、弟のジェフリーが眠っている。
 父親は何と言っていたか。薬が抜けるまで、おとなしくしていろと言った。
 目線だけなら動かせそうだ。
 この部屋には何があるだろうか。
 意外なことに、入り口に剣が立て掛けられている。医者カバンもあった。そこまで行くにはこのたまらない吐き気と戦わなくてはならない。
 支えていた、左腕が痛くないのは不思議だった。麻酔か、睡眠薬かと思ったが、手首を丁寧に縫合されている。痛みがないのもそうだが、どうして?
 試しに握り拳を作ってみたが、違和感なく握れた。
 父親が、何かしたのだろうか。
 それにしても、激しい頭痛もそうだがこの吐き気。変なものを盛られていなければいいのだが。
 竜次は頭を下げたまま深呼吸をし、意を決した。じっとしているなんてできない。
 目の前のジェフリーを叩き起こさなくては。
「こんなもの……死ぬのに比べたら、どうってことは!」
 予想はしていたが、ベッドから立てなかった。
 気分が悪い正体はいまだにわからないが、ジェフリーに何とかしてもらおう。
 竜次は床を這い、ジェフリーのベッドのシーツを引っ張って自分の体を持ち上げた。
「ジェフ!! 起きてっ!!」
 ジェフリーと同居していたときの記憶が蘇る。自分が寝たいのに、弟に寝床を占拠されていたことがあった。
 記憶が正しければ、ジェフリーは布団を剥いだ程度では起きない。
 起こすとしたら、これが有効だ。
「ジェフ、ごめん!」
 竜次は信じられないほどの気力を振り絞り、ジェフリーの髪の毛を引っ張った。
 大きい呼吸音ののちに、ジェフリーは跳ね起きる。
「つってぇっ!!」
 起きてくれた。竜次はその顔も見ることなく身を伏せる。
「おえっ……」
 吐くものがないが、声が出た。竜次はベッドの脇で床に座り込む。
「兄貴? ここは?」
 ジェフリーは状況の確認をする。それよりも先に竜次が叫んだ。
「そこのお水ちょうだい!!」
「はぁ?」
「いいから! あなた、動けるでしょう!?」
 ジェフリーはベッドを降りた。脇のチェストにガラスの水差しがある。水も入っている。一面が白いせいか、その存在がわかりづらい。ここに水差しがあることを深く考えてはいけないだろうか。ジェフリーは持ったまま顔をしかめた。
 竜次は下を向いたまま声を震わせた。
「そ、それごと……」
 ジェフリーが持って行くと、竜次は水差しからそのまま水をがぶ飲みした。とても気分が悪そうだが飲み干している。
 竜次がこの行動をとったのには理由がある。何か盛られたのであれば、水で薄めようとする単純な行為だ。一気飲みのせいで、肩で息をしている。
 具合の悪そうな竜次を見ながら、ジェフリーは首を傾げた。
「状況がわからないんだけど……」
 ジェフリーはいなくなった竜次を探していた。確かコーディと一緒に行動をしていたはず。記憶がそこで途切れた。
「うぅ……全然楽にならない」
 麻酔か睡眠薬だろう。竜次は自分の中だけで予想を巡らせていた。
 ジェフリーは竜次を気遣った。具合が悪いならと医者カバンを拾い上げる。
「それごと!」
「わかったから……」
 竜次はジェフリーから奪うように剥ぎ取った。中から水筒を取り出し、また水を飲んでいる。だが、今度は半分飲んだくらいでジェフリーの方を向いた。
 少しはマシになったのだろうか、髪は乱れているが視線は合う。
「手荒な起こし方でごめんなさい」
「いや、まぁ、どう見ても非常事態だよな」
 ジェフリーは鼻をすすりながら、ベッドに座った。
「無事……じゃないよな、兄貴は」
 竜次の視線が落ちた。悲痛な表情だ。
「お父様に、連れて来られたようです」
「はぁ? 親父?」
 ジェフリーは、状況も話も読めない。まだ混乱していた。
 竜次は詳しく話した。
「私、カバンを探しに行きました。そこでカバンを拾ってくれていたのがお父様で……」
 何となくこの先が話しづらかった。自分をよく見せようとする意地を、振り払おうとする。
「私に対して礼儀がなってないと……その、蹴られてこのザマです。手当てを受けている様子でした。麻酔か、睡眠薬を入れられているみたいでこの状況ですけど」
「俺は……覚えてない。兄貴を探してはいた」
 ジェフリーの経緯を聞いて、竜次の顔色が変わる。
「あなた、何かされていませんか?」
「さぁ? だるいけど、兄貴ほどじゃない」
 竜次は眉をひそめた。ジェフリーはずっと鼻をすすっている。
「ジェフ、風邪ですか?」
「そうかもしれない。ここのところ野営だの奇襲だの、ごたごたも多かったからな」
 聞いた竜次はカバンからカプセルの薬を引っ張り出した。
「風邪薬です。お水、あんまりないですけど……」
 竜次は申し訳なさそうに水筒と薬を差し出す。ジェフリーは両方受け取らなかった。
「風邪薬より、フィラノスでサキにやってたドリンク剤がほしい」
 竜次はフィラノスでサキの診察をした時、薬やサプリメントではなくドリンク剤をあげていた。完全に体力の前借りになってしまう。効力が切れた時が怖い。
「体はよく動きますが、風邪は治せませんよ?」
「知ってる。けど、よく効くらしいじゃないか」
 ジェフリーはやたら元気になっていたサキをこの目で見ている。竜次はカバンの底から茶色い小瓶を出した。
「いるんだろ、親父。ここから出てぶん殴るなら、薬よりもドーピングがいい」
 鼻をぐずらせながらも、ジェフリーは瓶を受け取ろうとした。だが、竜次はその手を避けるように引いた。
「確かに、その考えは賛成です。半分つしましょう?」
 あれだけ気分が悪かった竜次だが、今は余裕があるようだ。水のせいか、それとも弟と話して気が紛れたか。
 竜次は違和感なく瓶の蓋を捻ることができた。痛めていたのに、左手はすんなりと動く。ケーシスが何らかの手当てをしたのだろう。
 竜次は半分ほど先に飲んで、ジェフリーに渡す。ジェフリーは受け取った瓶を見て文句を言った。
「二ミリくらい飲み過ぎじゃないか?」
「ジェフったら、ガキンチョですか?」
 醜い喧嘩だ。些細なことでも兄弟にとってはよくあること。子どものころは何度もこういった場面に遭遇した。ジェフリーは文句を押し殺し、舌打ちをしながら残りを飲んだ。
 ジェフリーはポケットに手を突っ込む。重要なものに触れた。歪んだピアスだ。これは返すべきだろうと、ジェフリーは握った手を差し出した。
「これ、兄貴の落とし物……だよな?」
 竜次は両手で受け取り、目を丸くした。次いで左の耳を触る。
「これ、私の……見つけてくれたの、ですか?」
「蹴られたって言ってたけど、その時にでも落ちたんだろ」
 大きい三日月のピアスだ。何も知らない人が見たら、派手だと思うだろう。
 ジェフリーは一応謝った。
「ごめん。見つけた時に文字を見ちゃったけど、それって……」
 見られては困るものかもしれないとジェフリーは思った。だが、その心配は必要なかったようだ。竜次は歪んだピアスを見つめ、目を細めた。
「そうですよ。愛した人がくれたものです。こんなに心のこもったプレゼントをしてくれた。残っている唯一のものです」
 竜次は胸ポケットにしまい込んだ。今はしみじみと感傷に浸ってはいけない。
「帰ったら直さないと……」
 特別高価ではない代物だ。だが値段で決められない、思い出と想いの詰まった大切なものだ。その価値は計り知れない。
 二人は武器を腰に括りつける。竜次が余計な話を振った。
「ジェフにだって大切な人、もういるじゃないですか」
 ジェフリーは剣を結ぶ手を止めた。竜次はその後、ミティアがどうなったのかを知らない。
「禁忌の魔法を使った反動で、ミティアは記憶喪失になっていた。俺の言葉は忘れているらしいから、そのままにしてある。兄貴が面倒を見てやればいい」
「えっ、ミティアさんが記憶喪失?」
「部分的だと博士は言ってた。まるっきり忘れているわけではなかった。兄貴には都合がいいだろ?」
 竜次はずいずいとジェフリーに迫った。
「ミティアさんに余計なこと、言ったんじゃないでしょうね?」
 竜次の指す『余計なこと』とは何を指すだろうか。ジェフリーはこの際だからと思い、全部ぶちまけた。
「兄貴がミティアを好きだって言った。だから、俺に気持ちが向くことは、もうないと思う」
 竜次は深く息をついて首を振った。嫌悪感をむき出しにする。
「そんな汚い入れ知恵しないで」
 ジェフリーに対し、明らかに怒っている。
「そこまでしたくない。ミティアさんの気持ちを縛るなんて、ジェフはどうかしてる。自分でもわかっているくせに!」
 耳が痛い言葉だ。それでもジェフリーは、自分は間違っていないと押し通そうとした。
「俺は兄貴に幸せになってもらいたい……」
「私じゃなくて、彼女の気持ちを考えて! そんな入れ知恵、非モテが友だちにお願いする卑怯なまねです。本当に好きなら、自分で振り向かせます!」
 言ってから竜次は自分の刀二本を腰に下げた。このままジェフリーに斬りかかりそうな勢いだ。
「私のプライドも考えてください。そうやって、自分の気持ちからも逃げて、あなたは彼女を騙して傷つけたいのですか!?」
 ジェフリーは視線を逸らした。ミティアの記憶が抜けているのを好機と勘違いし、愚行だったと注意をされて気がついた。彼女の記憶が戻ったら、誰かを想う前に深く傷つくだろう。
 気持ちをねじ伏せるのは難しい。ジェフリーも自分には将来性がないと逃げ腰な部分があり、気持ちが振り切れない。
 竜次はジェフリーの鼻先に指を突き出した。先ほどまで具合の悪かった人間とは思えない態度だ。
「いい加減、素直になりなさい! 嘘をついてもいいことがないでしょ!?」
「ミティアに謝らないと……」
「本当にあなたって子は……」
「俺って、どうしようもないな」
 ジェフリーは壁に手をついて首を垂れた。
 誰かのためを思ってした行為が、最も信頼する人まで傷を負わせた。愚かだと思った。
 そんなジェフリーの背中を叩き、竜次は激励した。
「言った以上は責任を持ちなさい。もう大人でしょう?」
 ジェフリーは深く頷いた。理解のある兄の励ましに照れ臭そうだ。
「ミティアさんはあなたが思っているよりもずっと大人です。外野が騒ぐものではありませんけれど、ちゃんと話し合って健全なお付き合いをしなさいね?」
 付け加えられたこの言葉は、やけに説教じみていた。竜次はジェフリーが知らない一面でも握っているとでもいうのだろうか。
 竜次は乱れた髪を手櫛で整え、カバンの中から新しいリボンを取り出した。長い金髪をきゅっと束ねる。
 身支度を整えながら竜次はジェフリーに言う。
「お父様は私たちがこの部屋を抜け出すのは想定しているとは思います。ですが、ここはどこでしょうね。種の研究所でしょうか?」
 竜次は軽く腕を回している。まだ少し動きづらそうだ。
「とりあえず出てみないとわからないな。兄貴とこんな狭い部屋に、ずっと一緒なのも気が狂いそうだ」
「それは同感です」
 合図して、二人で部屋の扉に体当たりをする。鉄の扉は高い音を立てて弾け飛び、ガランガランと大きな音を立てて床に落ちた。
 真っ白な扉の向こうも真っ白だった。通路も、壁も床も天井も真っ白だ。いや、天井に規則的な間隔で蛍光灯だけある。
 目印もなく、方向感覚が狂いそうだ。
 ぐるりと見渡しながらジェフリーは言う。
「気が狂いそうな場所だな」
「これじゃ、どっちがどっちだかわかりませんね……」
 竜次が何かないかとカバンの中を漁っている。
 軽快で乾いた足音がした。二人は音に対し、耳を澄ませた。
「あー……気の早いお出迎えですね」
 二人の目線の先に二足歩行の『生き物』がいる。
 毛むくじゃらだが、毛は不揃いだ。皮膚は焼けたようにただれ、腐敗している。目は左右についているのだが、今にも目玉が落ちそうなほどひん剥かれている。手は長く、やや猫背だ。裂けた口からは牙が剥き出し、涎なのか体液なのか血液なのか、定かではないものが垂れていた。
 二足歩行で毛むくじゃら、手が長いとなると、動物でも限られる。いや、動物なのだろうか。ここが種の研究所だとすれば、嫌な想像が搔き立てられる。
 鼻を突く腐敗臭だ。吐き気が二人を襲う。
「何だっけ、こういうの」
「クリーチャーって言いたそうですね。怪我をしたら、私たちもこうなるのでしょうか」
 簡単なSFでは済まされない、感染系の嫌なものを連想する。
 二人して武器を構えた。
「この真っ白な空間に、どうやって目印をつけようか迷っていたのですけれど」
「いい目印じゃないか、よっと!」
 クリーチャーはジェフリーに襲いかかった。だが、目に見えていた一匹だけではなかった。一匹目が襲い掛かったのが合図のように、次々と飛びかかって来る。その数五匹、いや、後から次々と影が見えた。
「ちょっと勘弁してくださいよ。こんなところでジェフと死ぬのはごめんですからね!!」
「それはこっちだってごめんだ!! 手を動かせ、クソ兄貴!!」
「口悪ぅ……怖い弟ですねぇ」
 竜次の冴えない冗談にちゃんと指摘を入れ、付き合っているジェフリー。これもお馴染みになってしまったが、もともと仲が悪い兄弟ではない。
 ジェフリーが切り伏せる横を、竜次が刀の柄に手をかけながら狙いを定めた。
「雪の舞!!」
 きゅっと靴底が鳴る。引き抜いてから長い髪がなびいて閃が走った。
 一瞬で切り抜けたように見えたが、正解のようだ。その踏み込みと一閃した刀は、ふわりと粉雪が舞うような静かなものだった。
 舞い上がった長髪がぱたりと落ち着くと、漏れがなく全匹、斬り伏せられていた。
「んー……狭かったから、返り血の計算をミスしましたねぇ」
 せっかく斬り伏せたというのに竜次は不満そうだ。軸にしていた靴に返り血が滲んでいる。その足元に目玉が転がった。
「こっわ……」
 ジェフリーが斬り伏せたのは二匹。他は竜次が一掃した。
「思い出したので試してみました」
 竜次はにっこりと笑いながら刀を振って血を落としている。これでも半分ほどしか舞えず、いくらか壁を引っ掻いて抜けた。振って添えた左の腕が全く痛まない点が気になった。父親が何かしたと考えるのがいいだろう。
 変なことをされているのなら、きっと今ごろ理性はない。このクリーチャーのようになっているはずだ。父親に会えばわかるだろう。
「だいたいこういう展開って、危ない方が正解なんですよね」
 大量のクリーチャーが来た方に目を向ける。今のところ追撃はない。
「ジェフ、今の化け物に噛まれていませんよね? 突然巨大化したり、発狂したり、ゾンビになるのはナシでお願いしますよ?」
「さすがにそれはないけど、何かの見過ぎなんじゃないか?」
 ジェフリーも剣の血を振って払った。いつもの冗談なのだろうが、できれば竜次の言う展開だけは勘弁してもらいたい。
 念のため周囲を警戒し、足音を立てないように進んだ。
 静かすぎて耳までおかしくなりそうだ。
 十字路が現れ、進む道に悩んだ。来た道を戻る選択肢もある。
「ふぅむ……」
 一方はクリーチャーが走った跡が見える。
 一方は行き止まりだが何かあるかもしれない。
 一方は進む先に扉が見えた。
 二人は立ち止まって進む道を考えた。
「普通に考えたら扉の道だろうけど、行き止まりの道も調べておいた方がいいんじゃないのか?」
「寄り道をするといいアイテムでも出てくるのでしょうか?」
「今日の兄貴は冗談が決まってるな……大丈夫か?」
「……冗談も言いたくなりますよ」
「悪い……」
 竜次が冗談を言いうのは気を紛らわせるためだ。それに気がついたジェフリーは、一応謝った。真に受けているわけではないが、会話がないと本当に気が滅入る。
 行き止まりの道は先が見えているだけ気が楽だ。耳を澄ますと、上から小さい物音がする。
「何でしょう?」
 止まって天井を見上げるも、上には横穴で金網の通気口がある。
「ネズミか?」
 戻ろうとしたとき、金網の蓋が降って来た。二人の背後でガランガランと音を立てる。
 警戒するも、次は上から人が降って来た。
 目を疑った。
 おしゃれな帽子に綺麗で長い栗毛、そして忘れもしない人情バッグ。
 着地できず、床に転がった。血を引きずっている。
「人情マダム!?」
「おばさん!!」
 サキの師匠にあたるアイラだ。
 オレンジのストールと緑の服が血に染まっている。深手を負っていた。
「兄貴!」
「ジェフ、周囲を見張ってください!」
 竜次は武器を置いてカバンを漁った。
 貿易都市ノアで物資の補給もしたので、ストックはかなりある。
 アイラは左の肩、首の近くを深く負傷していた。手当てをしていないのか、あるいはできなかったのかもしれない。広がっている血の縁は乾き、かなりの時間が経過している。
「まさかこの傷、私を逃がすために負った傷じゃ……」
 アイラは竜次の手をつかんだ。
「あぁ、竜ちゃんかい?」
 アイラはいつもの歯切れのいい元気な声ではない。明らかにか細く弱っている。こんな場所で遭遇するとは思っていなかった。
 肩の傷が深い。出血も多いしこのままでは危ない。
 カバンの中を探りながら竜次は質問をする。
「マダム、この怪我は誰に……」
「クソ白狼だよ……」
 アイラが指す『白狼』とはクディフだ、自分たちを逃がすために傷を負った。だが、悔いている暇はない。
「逃げようとはしたんだけどねぇ。後から割って入ったケーシスさんは見逃してくれなかった」
「ど、どうしてお父様が?」
 取り乱しそうになった竜次に、ジェフリーが声をかけた。
「兄貴、今は手当てに集中してくれ」
「も、もちろんわかっています!」
 ジェフリーに注意を受け、竜次はすぐに冷静さを取り戻した。
「ここでできる手当てはしますが、ちゃんとしたものではありません。助かる保証はありませんが……」
 ジェフリーも腹を括った。見張りから手当てに移行する。
「わかった、俺も手伝う」 
「そっち持って、傷口を圧迫しないと」
 アイラの意識ははっきりとしている。
 今は大丈夫だが、時間が経てば当然命が危ない。
 軽く情報の交換をするも、アイラもここがどこなのかわかっていないようだ。
 種の研究所、かもしれないという段階だ。それでも探ろうとしていたのなら、そこに連れ込まれたのではないかと考えが行き着く。
 カバンの中を探るだけでは足らず、中を広げ、役立てそうな薬がないかを探した。
 薬瓶を広げたが、痛み止めしか現状で役立てそうなものがない。傷の縫合はしたことがないので、下手をして悪化を招くのは避けたかった。
 大判のタオルで圧迫し、包帯では回らないので、アイラのストールをそのまま襷がけにし、きつめに縛った。
「俺が背負う。兄貴の方が切り抜けるのが上手いから……」
 ジェフリーがアイラを背負うと率先した。理由はそれだけではない気もするが、好きにさせようと竜次は思った。
「俺がサキみたいに手当ての魔法が使えたらよかったんだが……」
「ははは……気持ちだけでいいよ」
 アイラはまだ話す余裕があるようだ。もしかしたら、話している方が痛みを忘れられていいのかもしれない。
 移動する準備を整え歩き出す。
 先を歩く竜次がアイラに質問をした。
「どうしてマダムが、お父様に連れ去られないといけなかったのでしょうか」
「都合が悪いからさ……」
 ジェフリーの背中でアイラが呟いた。
「理由はいくつも思い当たるよ。あたしゃ金がいいから、機密情報の依頼を請けていたのさ。邪神龍や種の研究所を嗅ぎ回られては困るんだろうね……」
 あまり話さない方がいい気もするが、本人も意識をつなぎたいのだろう。
 迷ったが、扉の道を選んだ。また変な生き物に追われても、今は困る。
「あたしゃ、邪神龍を倒す目的もあったんだよ。昔、負けちまったからね」
 アイラが話し続ける。これが、変なフラグではないと信じながら聞いていた。
「ケーシスさんは世界の生贄肯定派だと耳にしているよ。白狼はミティアちゃんを利用して国のお姫様の復活を目論む派、そしてあたしは邪神龍を倒す目的を持っているんだ」
 ぶつかり合っている目的がここで、アイラによって明らかになった。
 同時に、はじめにフィラノスで『情報屋』と称して力を貸そうとしていた点がつながった。アイラはある程度の情報を持っていて、交換条件で、紙媒体を揃えたくらいだったのだと推測が可能だ。
 知っている子が彼女を助けようと躍起になっているのを知って、黙っているのは『人情』がないだろう。
 安心もしたが、はじめから知っていたずるさも感じていた。
「その話に沿うと、俺たちは、おばさんの味方なんだが……」
 ジェフリーがアイラを持ち上げて位置を直した。
 だが、アイラの体力はどんどん落ちている。
「あんたたちは、ミティアちゃんを普通の女の子にしたいんだろう? 普通はそう思うだろうさ、あんな力は余計だから」
「そうだな。俺たちはそのために約束したから……」
「でもね、普通の女の子になるのは、人の汚れを知って、誰かを憎むようになって、それでやっと負の感情を背負える生贄になるんだよ。知ればこの世界のために身をささげてもかまわないと思うようになる。狭い箱庭で、広い世界を知らないでいるのが本当は幸せだったのかもしれない……」
 思わず二人の足が止まった。
 今、アイラは何と言った?
 耳を疑った。兄弟の動揺の視線が重なった。
「私たちは、間違っているのですか?」
「……」
「俺たちはとんでもない過ちをしているのかもしれない……」
 ミティアが普通の女の子として生きる道、そのものが彼女を世界の生贄になるものだった可能性がある。
 ジェフリーは約束までしてしまった。返事を聞かせてほしいと。自分がどれだけ彼女を苦しめているのか、それがわかったとき、取り返しがつかないかもしれない恐怖が支配した。
「もう、時間がない、かも、しれないね……」
 アイラの声が小さい。意識が混濁している。
「ジェフ、どちらにしろ、ここを出ないと……」
 嫌な予感がする。予感で済んでもらいたい。
 覚悟を決めて、扉の向こうへ足を進ませた。
 その嫌な予感はなぜ的中してしまうのだろうか。
 白く広い空間に立ち塞がる者。ネクタイをした金髪の男性、ケーシスだ。四角い眼鏡がいやらしさを増す。
「お父様……」
 竜次は唇を噛んだ。目の前にいるのは、間違いなく父親のケーシスだ。敵意と警戒を向けている。
 ジェフリーは落ち着いているようだ。
「あんたが親父か……」
 初対面だ。だが、どことなく自分を見ているような錯覚を起こす。ジェフリーは睨みつけるように凝視した。
 ケーシスはネクタイを緩め、首元を崩す。
「もう少し兄弟喧嘩をすると思ったのに、予想よりずっと早かったな」
 あえてジェフリーを避けるような反応だ。
 実際にケーシスの視線は、竜次に向いている。
 竜次は言う。
「ここを出ます。通してください!」
 ケーシスは眉を吊り上げ、声を張り上げた。
「あぁ!?」
 竜次が構える前に間合いを詰められた。右の脇腹にケーシスの回し蹴りが入った。受け身を取る隙はほとんどなかった。
「かはっ……っぅ……」
 ケーシスは竜次の胸倉を掴む。
「人に何かを頼むときは、お願いしますって言うんだよ!!」
 ドスの効いた低く威圧する声だ。
 胸倉を掴まれた竜次は、天井に気配を感じた。
 繭のようなものが見える。瘴気を纏っており、異常な黒さだ。
「あれは……」
「竜次はこれが何だかわかっているのか? まだ生まれてないぞ、今期の邪神龍……」
 竜次はケーシスが正気なのかを疑った。
「今期? じゃあ沙蘭で倒したのは……」
「ふん。腕だけは確かか。もしくはいい仲間と組めたようだな」
 ケーシスはこちらの行動を知っているようだ。この受け答えと反応を見る限りだが、敵とは断言しにくいとジェフリーは思った。
「この前の歪みのおかげで孵化寸前だ」
 ケーシスはにやりと笑って竜次を解放した。仁王立ちをしたまま、動じていない。自分の息子との再会をよろこぶ様子でもなかった。
「その死に損ないは保険だ。俺にとっては都合が悪いから、始末してもよかった。まぁ、ちょうどよかったからなぁ」
 ケーシスはアイラとは見知った仲のようだ。どうもケーシスにとっては、都合が悪いようだ。この二人の間にも因縁があるのだろうか。
 ケーシスは竜次を挑発した。
「せっかく千切れた腱を繋いでおいたんだぞ。ほら、戦ってみろよ。向けるか? 父親に向かって。今までのうっぷんをぶつけるのも悪くないと思うぞ」
 挑発とも取れる言動だった。これを、どう受け取るべきだろうか。
 竜次は俯きながら苦悩していた。ただここを通りたい。外に出たい。どうして、父親と戦わなくてはならないのか。この繭はどう対処するべきか。考えることが多かった。
「早くしないと邪神龍が生まれるか、生贄が本当に生贄になるか、それとも……」
 ケーシスが両脇の柄に手をかけた。剣を構えるのかと思いきや、まだ形だけだ。
「やるしか……」
 竜次も構えようとする。だが、ジェフリーが竜次の手を引いた。
「ジェフ?」
「多分だけど、親父の本当の目的は、俺たちが思っているものとは違うものだ」
 ジェフリーはアイラを下ろし、竜次の隣に立った。彼女の意識はまだある。自力で手をついている程度だ。
 ケーシスは今のところ、抜いて襲って来る様子はない。
「ジェフリーの方が賢くなったのか?」
 脅しか、話をしたいか、もしくは時間稼ぎか。
「俺は個人的に親父と話がしたい」
 ジェフリーはアイラをまだ大丈夫だと判断し、あえて話す選択をした。
 ケーシスは柄から手を離し、今度は腕を組んだ。やっとジェフリーと向き合う姿勢を示した。
「ふん……」
「こんなときに家庭の事情を持ち出すのはどうかと思うが、それでも、どうしても知りたい」
 ジェフリーは、父親と対峙してわざわざ話がしたいと申し出た。自分の中で、ずっと抱えている疑問だ。これを聞かないと一生後悔する。
 竜次も聞くのが辛い。ジェフリーが何を聞きたいかをわかっているからだ。
 ジェフリーは拳を握り、震わせる。緊張しているのか、はたまた武者震いなのだろうか。いずれにしても、自分の呪縛を振り払おうとする。
「親父が本当の親父なら、お願いだから答えてほしい。俺が産まれたせいでおふくろは身体を壊した。それは自分が歩んだ道中で知った。俺のせいで、親父がこんなことをしてる。間違っていたら教えてほしい」
 ジェフリーはずっと、ずっと気になっていた。
 父親と長らく会っていなかった竜次ですら、その真実は気になる。聞いてしまったら、ジェフリーが壊れてしまうのではないかと怯えながら耳を傾けていた。
 ケーシスは深く息を吸い、組んでいた腕を解いた。
「お願いされたら答えるしかないな……」
 この白く静かな空間に緊張が走った。
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