トレジャーキッズ ~救いしもの~

著:剣 恵真/絵・編集:猫宮 りぃ

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【3‐3】救済

届いてほしい声

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 諸悪の根源とも言えるルッシェナと、大魔導士サキの死闘がフィリップスの船着き場で繰り広げられていた。
 だが、ルッシェナが一方的に蹂躙している状態だ。
「あなたは可愛らしい声で鳴くのですね。でも、まだ泣きませんか? 助けも求めませんね。その強がりが、わたしにはたまらない」
 時間は人通りも少ない深夜に及ぼうとしている。船着き場からは最後の定期船が出発しているので、本当に真っ暗で足場も悪い。
 サキは石の地面に何度も打ち付けられ、倒れては起き上るのを繰り返していた。徐々に起き上がるまでの時間が延びていく。口の中は何ヶ所も切れ、血を含んだ唾を吐く。
「無駄な抵抗をすればするほどわたしは震え、もっといたぶりたくなります。あなた一人でわたしに勝てるはずないのですからねぇ?」
 サキはうつ伏せにされ、杖を握る手を踏みにじられている。ルッシェナは、痛みに苦しむサキを見て興奮していた。
 ルッシェナは、人、いや、自分より弱い者を嬲って快楽を得る変態とも言うべきかもしれない。
 サキの手を踏みつけ、悪党そのものの嘲笑を浮かべる。その声は快楽を得て、震えている。
「いい顔です。あなたを生かしておいてよかった。ノックスで仕留められず、心残りでしたからねぇ」
 次は何をして来るというのか、サキが非力ながら抵抗を試みる。魔法の媒体となる杖に念じる。
「放つ光、閃光のごとく、ホーリーランス!!」
 先のはなった魔法は、踏まれている足を二本直撃した。ルッシェナは足を引きずり、後退する。
 サキもこの隙に立ち上がって後退した。だが、その足はうしろがないことを察知した。端だ、もう退路がない。
 ルッシェナは自分の足を見て、光の槍が二本も刺さっていることに忌まわしく思った。これこそ、思った以上の抵抗だ。
「小賢しい……」
 貫かれた光の槍を魔法で崩し、自身をフェアリーヒールで治癒させる。完全ではないが、サキが食らわせたものの半分くらいは無駄に終わった。
 ルッシェナは追い詰められて焦っているサキを見て、眉を歪ませながら言う。
「死にますか? うしろは海です。もう遊びは終わりにしましょうかね?」
「あなたの手に堕ちるくらいなら、僕はここから身を投げる」
「ふふっ、まだわたしを睨む元気があるのですね?」
 少し機嫌を損ねたようだ。ルッシェナも睨み返した。彼の右手には、剣が握られている。
 不気味に光る刃に立ち向かうには、もうこうするしか手がない。サキは重い杖を目いっぱいに振りかざす。
「我が魔力解放せんっ!」
 サキは圭馬と共闘することを選んだ。魔力を解放すれば圭馬は幻獣から実体化し、同じように戦える。圭馬はカバンの中から出ようとした。
 ルッシェナはさらなる手段を行使する。
「待っていましたよ、このときをね。いただきましょうか、その魔力!!」
 ルッシェナは左手で紫の魔石を弾いた。
 剣はフェイクだったと気が付いたときには、サキの全身から力が抜けて行く。紫色の霧が覆い、生気を吸い取った。
 サキはこの魔法を知っている。解放しようとしていた魔力を吸収された。
 ルッシェナの左手の中に吸収され、霧が消えた。
 魔力だけではなく、体力も奪われたようなものだ。サキは息をするのもままならなかった。すぐにでも倒れ込んでしまいそうだ。
「そん、なっ」
 杖に体重を乗せ、縋り立とうするも両膝が崩れる。サキは今にも気を失いそうだった。だが、ここで倒れたら、敗北を意味する。いや、それ以上に仲間にも迷惑をかける。そして何よりも、自分のプライドが許さない。もう抵抗する術はないのか。サキはこの窮地でも抵抗を考えていた。
 ルッシェナは怪しげに笑い、口角を上げる。
「よしなさい、もう立っていられないはずです」
 魔力解放すれば、圭馬によって大魔法に匹敵する攻撃が期待できた。だが、呆気なく挫かれてしまった。
 見るに見かねた圭馬は抵抗を試みる。
「やめろぉぉぉぉっ!!」
 サキの足元から、解放し損ねた圭馬がルッシェナに向かって跳び掛かった。左腕にしがみつき、牙を立てた。だが、噛み付く前に叩き飛ばされて見えなくなった。
 ルッシェナのうしろで、どさっと堕ちる音がした。サキは思わず首を振る。
「け、けい、ま、さ」
 小動物同然の圭馬にこの仕打ちは大ダメージだ。ルッシェナは圭馬に追い打ちをかけることはなく、サキの相手に集中する。
「使い魔の分際で主を守ろうなど愚かですね」
 ルッシェナは圭馬に牙を立てられ、腕に出血が見られる。マントの下の白衣が赤く見えた。
 サキは恨めしく見上げる。睨みながら、冷たい海へ身を投げるタイミングを計っていた。
 ルッシェナはサキに迫る。鋭い剣が月の光で反射した。
「一人でよく頑張りましたね。わたしから褒め称えますよ」

「サキは一人なんかじゃないっ!!」

 沈み掛けた暗い気持ちを照らす太陽のような明るい声がした。うれしいのに、この場では聞きたくなかった声だ。サキは声の主を見た。
 街の明かりを背景に、ミティアが圭馬を抱きながら立っている。その表情は一言では言い表せられない複雑な表情だ。怒りと、悲しみと、あとは何だろうか。
「これ以上、サキに乱暴しないで!!」
 ゆっくりと歩み寄るその姿は、どこか気高く美しい。赤い髪とバレッタのリボンが夜風に靡く。サキはこの状況でミティアに見とれてしまった。
 ルッシェナはゆっくりと振り返る。くすんだ茶色のマントに白衣が風で揺れた。このタイミングで珍客、いやルッシェナにとっては本命かもしれない。
 ミティアとルッシェナの間に吹き抜ける夜風。高まる緊張と熱を帯びそうなこの状況を冷やすような風のようだ。
「一段といい女になったね、ミティア。抱きたくなるよ」
「兄さん……」
 再会をよろこぶほどではない。だが、話したいことはたくさんある。
 ルッシェナはサキから離れ、ミティアに歩み寄った。話が聞こえる距離で二人が立ち止まる。
「さぁ、何から聞きたい?」
 ルッシェから話題を振った。その顔は少し落胆しているようにも見える。
 それもそうだろう。ミティアは『知ってしまった』のだから。
「教えて。兄さんはわたしと過ごした時間をどんな風に思っていたの?」
「遊び、気まぐれ。驚いたよ。ミティアは村が襲われるまで、わたしのしていたことをわかっていなかった」
 両手を広げ、あざけ笑う。
 悲しいより虚しい。やはり偽りだった。今度はミティアが落胆した。
「実験体ごときが、普通の女の子になれると思った?」
「兄さんはその程度でしか、わたしを見ていなかったんだね」
「自分の欲求を満たせる最高のパートナーだったよ。礼を言おう。ありがとう。わたしのモノになってくれて」
 ルッシェナは開き直っているような態度だ。ミティアは失意を抱く。
 旅を通して、この人がどれだけ異常なことをして来たのかを知った。でもそれをどこかで信じたくなかった。
「残酷だと思った。兄さん、本当はわたしの『何』なの?」
「ミティアは『まだ』わたしのもの。そうだよね?」
 寒気を覚える対峙。ミティアは想像を絶する思いをしていた。長年ルッシェナに蹂躙されていたのだ。限られた村という空間。限られた人間関係。歪んだ愛情を向けられても抵抗できなかった。誰にも言えなかった。『助けて』と――……。
「母さんは死んだ。意味深な言葉を残して……」
 ミティアは母の死を告げた。これが何を意味するのか。ミティアが質問をした意図は、『確か』な情報がほしかったからだ。
 ルッシェナはミティアの母親、レスフィーナの死を知っても悲しむ様子はなかった。それどころか、呆れるように息をつき、笑っている。
「ははは、そうか。あの女、死んだのか。馬鹿な女だったよ」
「……」
「本当にわたしとの間に愛が存在していると思っていたのだからね」
 つまり、ミティアにとってルッシェナは『兄』では済まされなかった。歪んだ愛情は、兄ではなく、父親であったせいなのかもしれない。
 ミティアはそこまで落ち込んでいなかった。謝罪をしてもらいわけではない。ただ、真実を知りたかった。自分の体は呪われている。忌まわしい記憶はこの体に刻まれている。それでも今の自分に大切な人は、それでもいいと受け入れてくれた。自分はそれだけでじゅうぶんだ。
 個人的に許せないのはここからだ。ミティアは怒りを込めて問う。
「じゃあキッドは?! キッドは、兄さんを本気で好きだったんだよ!!」
 ミティアは自分が弄ばれてしまったことよりも、キッドへの裏切りが許せなかった。
 ルッシェナに罪の意識はない。悪びれる様子もなかった。
「井の中の蛙。大きな世界を知らないままあの田舎で育っていたら、弄ばれてもわからないだろうね。本当にキッドは都合がよくて助かったよ。わたしにいい思いばかりさせてくれて、感謝する」
 ミティアは以前の自分なら、聞かなければよかったと思うだろう。それでも知らなければいけない。もう、知りたくなかったと逃げるわけにはいかないのだから。
 ミティアの腕の中で、圭馬がもぞもぞと動く。
「いい匂い。ミティアお姉ちゃん?」
 圭馬は顔を上げる。ぐったりとしていたのに、ミティアを見て驚いている。どうして彼女がここにいるのか。もっとも危険だというのに。
「お姉ちゃん、逃げなきゃ」
「わたしは逃げないよ」
 圭馬はぴくりと耳を立て、ミティアを見上げる。ミティアは圭馬と目を合わせ、優しく笑った。
「圭馬さんは、人間は汚いって言っていましたよね。わたしは汚い部分を知らなかった。自分が許せない」
「あぁ、あの人は特別だと思うよ?」
 ミティアは圭馬を下ろし、まるで安心させるように笑う。今にも泣き出してしまいそうな顔に、圭馬も一瞬はびくついた。
 ミティアの顔は覚悟を決めていた。
「兄さんがここまで人を弄ぶ理由は何? 本当に『神様』になりたいの?」
 記憶が確かなら、そう言っていた。実際、ルッシェナがやってきたことはそんな単純な理由ではないだろう。ミティアはこの質問の答え次第でこれからを決めるつもりだ。
 ミティアはルッシェナの返事を待った。
「神様になりたいだけじゃないよ。この世界に復讐をするんだ。ミティアも広い世界を見て来たならわかると思うけど、この世界に生きる人間は、どこかおかしいとは思わないかい?」
 ミティアは「兄さんが一番おかしい」と言いそうになって飲み込んだ。何だろうか、ジェフリーの影響かもしれない。首を傾げて「どうして?」と、無邪気に返せたらどんなにいいだろう。もう何も知らなかった自分ではない。ミティアはかぶりを振った。
「おかしくなんて、ないよ!」
 ルッシェナは大きく笑う。
 そのうしろでサキは、支えにしている杖を握る手を震わせていた。本当は立っていられないのに、話を聞いて自分の姉がこんな人を本気で好きだったなんて悲しくて仕方がない。想いを踏み躙ったことが許せない。
 機会を待った。瀕死のサキができることは少ない。
 ルッシェナは独自の考えを持っていた。そしてその考えが正しいと思っていた。
「では、なぜこの世界に人間なんてものが存在している? わたしはアリューン神族だが、常々思うよ。短命のくせに、神族を滅ぼした人間は本当に愚かだと。生き残った人間によって、世界はどんどんひどくなっていく。だから、この世界の創造主を生き返らせて聞いてみたいのだよ。この世界はまた一つに戻すべきなんじゃないのかと」
「兄さん、何を言っているの?」
 ミティアはゆっくりと瞬きながら首を傾げる。ルッシェナの言っていることがわからない。何をしようというのか。
「数だけ増えた人間が、世界をどんどんみにくくする。破壊、戦争、なぜ滅ばない?! なぜ神族だけが滅んだ?! 自分たちの世界に追い遣られないといけなかった。わたしは人間とこの世界に復讐するために、邪神龍や生贄システムを投じたんだよ」
 ミティアにとって、ルッシェナは敵だ。友だちでも、仲間でも、よき理解者でも、ましてや家族でもない。まだ救いはあるかもしれない。戻れるかもしれない。
「兄さんは、人間を知らない。理解しようとしない。確かにどうしようもない人はいるよ。暴力的な人、平気で人を殺す人だっている。兄さんはその人間になりきろうとしているけど、人間がすることじゃない。人間になりきって復讐したかったの? 命を弄んでも無駄なんだよ。だって人間は、限られた時間の中で何かを築こうとする。大切なものを得ようとする。どんな理不尽を味わっても、また立とうとする。一緒に分かち合おうとする。支え合おうとしてくれる。種族なんて関係なく、そんな人だっているんだよ!!」
 ミティアはともに歩んで来た仲間を思い浮かべながら、涙声で訴える。
 届いてほしい。
 間違っていると今からでも気が付いてほしい。そんな願いは儚く散った。
 ルッシェナは、殺意を秘めた目でミティアに剣を向ける。
「世界の生贄にしてハイブリッド人間、この世で一番命も体も弄ばれて不幸な人間が、人形のくせに、実験体のくせに、憐れむような目で見るなッ!!」
 声は届いた。でも、心には届いてくれなかった。血眼になって向かって来る。涙ながらにミティアも剣を抜いた。
「兄さんの言っていることは、支離滅裂でわからない。わからないよ」
 ミティアは体勢を低く構え、受け身の体勢に入った。もともと攻めは得意ではない。受け止めた刃の向こうのルッシェナは狂気で染まった別人だ。
 隙を見た圭馬はサキに駆け寄った。サキも何も考えていないわけではない。もう戦うしかない。
「圭馬さん、大丈夫でしたか?」
「自分の心配をしたらどうなんだい。あのお姉ちゃんも、キミもそうだよ」
 圭馬のこの憎まれ口で、サキはなぜか少し元気が出た。いや、元気と言うよりは気力かもしれない。
 もしくは、根性だろうか。そう言えばジェフリーは、サキには人一倍の根性があると称えていた。不意にこの場にいない友だちの言葉を思い出すなんて、どうかしている。
 殴られ過ぎたか、それとも怒りでどうかしてしまっているのか、サキはうっすらと笑みを浮かべながら大きく息を吸った。


 街から船着き場への道、小高くなっている手前の橋でミエーナは立ち尽くしていた。その距離は百メートルもない。竜次はやっと追いついた。
「はぁ、はぁ、ミエーナさん?」
 ミエーナの頬を涙が伝う。話を聞いていたようだ。ミエーナは船着き場を見下ろしている。
 竜次はコーディを抱えたままだったので、疲労は色濃い。焦る気持ちを抑え込んでいったん呼吸を整えた。もちろん船着き場が見えている。怪我を追っているサキと、剣を振るミティアを見て焦りを増した。
「ミティアさん、サキ君」
 相手が相手なだけに、息切れた状態で挑みたくはない。インドアなお医者さんとは言ったものだが、変な所で慎重になった。前の竜次だったら何も考えずに突っ込んだだろう。そして失敗する、大切なところでしくじる。もうそんな自分ではない。
 ミエーナは竜次に振り返った。
「アタシは力になれますか?」
 ミエーナは何を聞いたのだろうか。竜次はそのことについては触れず、あえて営業スマイルを浮かべた。
「あなたが見たくないものは、視界を指で削ればいいのではないでしょうか」
「はいっ、本当に見たくないものを見るようにします!!」
 赤いリボンとポニーテールが大きく縦に動いた。何とミエーナは、竜次を置いて先に走って行った。
「えっ、えぇっ?!」
 ミエーナの手には大きな鉈、武器召喚によるものだ。応戦、援護するつもりでいるのだろう。その背中を見て、竜次はぽつりと言う。
「どうしてあなたが、そこまで?」
 竜次の中で大きな疑問だった。動かねば、自分も。一瞬だけ星空を仰いだ。この場にいないキッドを探すように。

 舞っても受け止められてしまう。この人に自分の剣は通用しない。神族として長生きして来たのだから、簡単に倒せるわけではない。ましてやミティアには力がない。
「せっかく剣術学校に行かせてあげたのに、覇気はないんだね。わたしを殺したくはないのかい?」
 ルッシェナは余裕の笑みでミティアを挑発する。
 ミティアは人からの煽りにいっさいなびかない。彼女が剣を振る理由は、すでに自分の中にある。
「わたしは、兄さんの口から違うって聞きたかった。間違っていたんだって、認めてもらいたかった。やり直したいって聞きたかったっ!!」
 信じられない程の剣戟がミティアから繰り出された。ルッシェナの剣を弾き、間合いを取る。
 ルッシェナは気に食わない様子だ。それもそうだろう。
 ミティアは理不尽な運命に抗い続け、人間を憎むなどしなかった。ミティアは一人ではない。仲間がいたからここまで来れた。真実を知ることができた。
「どうせならお前が堕ちるところまで堕ちて、瘴気の魔物に憑り込まれてしまえばよかったものを……」
 ルッシェナは引き笑いをしている。堕ちるところまで堕ちたのはルッシェナの方だ。左手が白衣のポケットに入れられた。何か仕掛けるつもりのようだ。
 サキが叫んだ。
「ミティアさん、魔法です!!」
「で、でも……」
 ミティアも物理では圧倒的に不利だと感じていた。だが、魔法でも適うとは思っていなかった。
 サキは空を舞う影に気が付いた。本当に自分は一人じゃないとわかって、気持ちを持ち直す。重たい杖を振りかざした。
「ソニックブレイド!!」
 放てる魔法が限られる。しかも狙いが定まらず、足元を崩した。大きく外れた疾風は海に波を立て散った。サキは肩で息をする。
「はぁっ……」
 魔法によって、ルッシェナはサキに視線を向けた。サキに対する目は明らかに殺意が込められている。だが、同時にルッシェナはサキを必要としている。手中に収めるにはゆっくりと仕留めたいはずだ。そのために手間をかけて弱らせたのだから。
「やはり、瀕死にするだけではいけませんか」
 ミティアも気になるが、サキの抵抗が厄介だ。
 圭馬はサキの肩に乗り、身を寄せる。
「無茶だよ、キミ」
「圭馬さんもね」
 ルッシェナの牙が向く。サキは受ける前にうしろから衝撃を感じた。体が浮いた。
「え、えぇーっ!?」
 圭馬が目を真ん丸くしてサキを見上げた。だが、サキも驚いている。少なくともサキの魔法ではないようだ。羽ばたくような大きな音を耳にした。
「なんだ、ずいぶん軽いじゃん。ホントに太ったの?」
「コーディ!?」
 サキはコーディに対し、『ちゃん』と付けそうになって噛み殺した。背中から腰に手を回されて飛んでいる。バサバサと翼が風を切る。誰かを担いで飛べる力がコーディにあっただろうか。サキは意外に思った。
 コーディは勢いに任せたまま、旋回している。下はまだ戦場だ。
 ルッシェナは目で追っていた。
「空では格好の標的。ちょうどいい。打ち落としてくれる!!」
 落とせばサキは重症だろう。ルッシェナはその考えのもとで動いた。ミティアはそれを阻止しようとする。
「兄さんダメ、やめてっ!!」
 ミティアがルッシェナに飛び掛かろうとする。間合いが広がったせいで、ルッシェナの左手が振り上げられるのが間に合わない。
 走る緊張、祈る気持ちで手を伸ばすミティア。狙いを定めようとする左手からいくつかの魔石が零れ落ちた。
「な、に!?」
 ルッシェナは魔法が放てないという違和感に気付いた。誰かに見られている。街の明かりで見えたのは赤いリボンにポニーテールのミエーナ。目の前に両手をかざし、視界を制限していた。マジックキャンセラーの彼女が持つ能力だ。
「あの小娘!!」
 ミティアがすかさずルッシェナの左腕に飛び掛かった。だが、この判断はまずかったようだ。ミティアはミエーナがいたことにここで気が付いた。だが、ルッシェナの殺意を秘めた目も、光っている剣も見えたときはもう遅かった。刃はミティアに向いていた。邪魔をするものが多い。ならば、片っ端から排除するまでだと判断したようだ。
「ミティア、邪魔を……するな!!」
 ミティアの眼前に鈍く光る剣が迫った。その刃に一瞬だけ金の月が見えた。月の正体の声がする。
「いいえ、お邪魔しますっ!!」
 ミティアの眼前で剣が砕かれた。一撃必殺の太刀、こんな剣戟を繰り出せる人はあの人しかいない。ミティアの視界に、ほのかに街の明かりを反射した月のピアスが見えた。この剣戟の正体は竜次だ。
 時差で何本か指を切り落としたのか、湧き水のように血を零す手の平が見えた。
「せ、せん、きゃあっ!!」
 ミティアは振り払われ、地に伏せた。彼女の細身の剣がカラカラと地面を滑る。
 ルッシェナが振り払った左手は次の手であるマスケット銃を持っていた。だが、竜次はこれも先手を打つ。
「月閃ッ!!」
 竜次は踏み抜けた足をそのまま軸にして大きく切り返す。長い金髪が空に靡く。
 遅れて弧を描いた血が舞った。
「ぐ、あぁぁっ!!」
 ルッシェナは魔獣の叫びかと思うほど、腹からの叫びを上げる。
 これが断末魔だったらいっそのこと諦めがつくのにと、ミティアは目に涙を滲ませる。
 ミティアの手元にマスケット銃と握っていた腕が零れた。手首から先だろうか。
 見上げると竜次がいつもの温厚な顔をしていない。この顔は剣鬼の顔だ。
「息があるうちにおうかがいします。改心はなさらないのですね!?」
 竜次にしては低い声だ。怒りを抑え込んでいるに違いない。その怒りはケーシスを巻き込んだことか。それとも、ミティアを弄んだことか。もしくは、キッドの想いを踏みにじったことだろうか。どれも怒りに該当する。
 ルッシェナは竜次だけではなく、この場のすべてに呪詛をかけるように言う。
「戯言を……これで勝った気になるとは生ぬるい。どうせ天空都市は落ちるのだからなぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
 竜次が剣を下げている。その隙を狙ってか、指の千切れた右手が鈍く光った。
 目にしたミティアが飛びつき、腕ごと抱え込む。
 武器が見えたために、こうして抑え込むしかなかった。
「もうやめてぇ!!」
 ミティアの掠れた涙声が寂しく零れた。
 この場に地鳴り、そして激しい揺れを感じ、竜次もルッシェナも体勢を崩した。
「は、はは……こんな世界など、もう……」
 狂った笑み。まだ手があるのだろうか。ルッシェナの手の内かが読めない。竜次間近で見て恐怖を感じた。ルッシェナはいくら阻まれても、絶望しない。目的のためなら、どんなものも犠牲にするつもりのようだ。それは自分も対象なのかもしれない。
 風を切る轟音がする。コーディがサキを抱えたまま急降下したのだ。
 その状態で攻撃を仕掛けるようだ。
「グラビティ……」
「スマッシュッ!!」
 強烈な一撃が食らわされた。急降下と重力の勢いで攻撃力が何倍にもなった一撃は船着き場の半分以上を大きく削る衝撃だった。ルッシェナの姿はない。勢いで弾き飛ばされそうになったミティアを竜次が腕で抱きかかえる。ルッシェナの姿がなくなったのを確認した竜次は大きく息をついた。
「ミティアさん、もう大丈……」
 ミティアの様子がおかしい。竜次はぐったりとしている彼女の体を揺すって呼び掛ける。すると、血に染まった手がだらりと落ちた。
 ミティアの服が胸の少し下から真っ赤に染まっている。
 血を見た竜次は声を震わせ、動揺する。
「あ、あぁ……」
 刺されたに違いない。手も腕も切り傷が見え、血が滲んでいる。
 ミティアは呼び掛けに応える様子がない。焦る気持ちに拍車を掛けるようにまた地面が揺れた。どうして地震が起きるのだろうか。そんな疑問と溢れ出す感情が竜次を混乱させる。
 地上に圭馬だけがひらりと落ちる。ぼうっとしている竜次を見て、急かした。
「お兄ちゃん先生、マズいよ。この揺れで潮位が動くかもしれない!」
 圭馬はミティアの手から血が零れているのを見て血相を変える。竜次の肩に乗っかり、さらに言う。
「お兄ちゃん先生!! パニックに弱いんだから! まずは高台に避難してってばっ!! 波が上がって来るかもしれないよ」
「は、はいっ!!」
 圭馬に叱られて、やるべきことの優先順位を把握した。ここで手当てするにはあまりにも危険だ。竜次はミエーナにも声を掛けた。
「高い場所へ!!」
「は、はい。わかりましたっ!!」
 ミエーナが気にしていたのは竜次でもミティアでもない。圭馬と目が合って気まずそうにしていた。その圭馬もミエーナを意識した。
「話、あとでいい?」
「わ、わかりました」
 本当に話を付けたいのはミエーナではない。だが、参考までに話は聞こう。今は避難が優先だ。
 竜次はミティアを腕で抱え上げる。生暖かいものが肘を伝った。出血がひどい。そのはずが、ミティアは目を開いた。
「せん、せ?」
「喋らないで。疲れちゃいますよ」
「…………」
 瞬いている、ちゃんと竜次を認識していた。
 竜次はこの目を見るのがつらかった。こんな思い、できれば二度と味わいたくはなかった。自分の詰めが甘いせいで、どこかに情けが残っていたせいで、またミティアにつらく、痛い思いをさせてしまった。

 情けない。本当に。自分を責めてミティアが元気になるなら、いくらでも責めて泣きたい。自分のためじゃなくてもいい。また心から笑ってほしい。消えてほしくない太陽の光に届かない想いを馳せる。

 深夜に及ぼうとしていることが幸いし、街に人は少ない。避難を知らせる点は気にしなくてもよさそうだ。一同は高い場所を探した。圭馬が小川の上流を指した。
「お兄ちゃん先生!」
「あの高い橋の上でいったん落ち着きましょう」
 竜次はミティアの容態を気にかけながら小走りになる。そこへ、もう一人、竜次を『お兄ちゃん先生』と呼ぶコーディがサキを抱えたまま降下した。
「お兄ちゃん先生?! ミティアお姉ちゃん、どうしたのっ!?」
「避難が先です……」
 降下して来たコーディと短いやり取りをする。サキはぐったりとしていたが大丈夫だろうか。
 竜次は少し高くなっている橋の上で腰を下ろした。できるだけミティアに負担をかけないように気遣う。
 圭馬は橋の手すりに昇って海の方を見ていた。
「揺れ、治まったね。一番最初が大きくて、他は微震というかそんなに大きくはなかったけど」
 幸いにも波が少し高くなった程度で助かった。だが、ここで津波でも起きようものなら泣きっ面に蜂だ。
「ミティアお姉ちゃんっ!!」
 コーディがサキを適当に寄り掛からせて駆け寄った。何となくだが、コーディの人間性がここで丸出しになった。
 ミティアが腰に下げているポーチが真っ赤だ、痛いかもしれないが横にならせる。竜次は医者カバンを下ろして中を探った。大きな怪我の専門ではないが、今は自分にできる精一杯をしたい。もう彼女は禁忌の魔法などない、普通の女の子なのだから。
「ミティアさん、今、寝たらダメですからね。私がわかりますか?」
 ミティアは顔色が悪いが、頷いて返事をしている。意識ははっきりしているが、痛さを訴えるように眉がぴくぴくと動く。
 ミティアの傷を確認すると、剣を持った腕を抱え込んだそのままの傷だ。脇と腕には大きな切り傷。それ以外の怪我は見られない。ただ、出血が多いのが気になった。
 しかし場所が悪い。暗がりで視野も悪い。そして何より、竜次の医者としてのスキルが足りていない。
「こんなに広範囲だと、ここで縫合はできない。安全で明るい場所まで運ばないと。止血と血圧を一時的に上げておくことはできます」
 移動のせいもあり、いくぶんか冷静にはなれた。だが、竜次はこの場でできることが限られるため、あくまでも応急処置だけ施す。
「気付け薬です。これで痛みがなくなるわけではないですが、飲めますか?」
 竜次は水筒と細長い瓶を取り出した。次いで、種の研究所では使わなかった、袋に入った綺麗なタオルを取り出す。一枚ではなく何枚も。剣を磨く用途は別に持っているのだが、汚れ防止のための袋も今は忌々しく思う。
 竜次はミティアの傷口を圧迫し、抑え込んだ。帯を巻くように腰にも回す。
 ミティアは声に出さないが目を瞑り、縮こまっている。薬を飲むどころではないようだ。コーディが手を貸す。
「私やる。お姉ちゃん、口開けられる?」
 コーディが気付け薬を引き受けてくれる。
 その間、竜次は注射器を取り出した。使い慣れていないし、ずっとしまい込んであったもの。練習をしたことはある。だが、実は人に使うのは初めてで手が震えている。いくら使えばいいのか、適量の計算はできるが実践に弱くて怖気づいてしまう。
 コーディはこの状況でも普段と同じように接している。これがミティアを安心させていた。
「うえっ、すごいニオイだね。これ、効きそう」
「ん、おいしくないね」
「さすがのお姉ちゃんも、これはおいしくなさそうだね」
「んー……!! な、何だろう? 体の芯がびりびりするよ」
 コーディが水を飲みやすいように傾ける。ミティアは血を吐いていないので大丈夫そうだ。笑ったり、話したり、普段と変わらず、痛がる様子もない。痛いことを言葉にしないのは強さだろうか。もっとひどいものかと思った。
 竜次は注射器に痛み止めをセットし、針の先を確認する。
「ごめんなさい、チクッとします」
 竜次は大きく息を吸って、歯を食いしばった。緊張の抑え方に、どちらが打たれる側なのかと変な構図になってしまう。
 そんな竜次に視線だけ向け、ミティアは消えそうな笑みを浮かべる。弱り切った彼女の眼には、こんなポンコツであろうと何十倍にもかっこよく見えた。
 少し離れて、同じく瀕死のサキは文句を言う。
「はぁ、僕は放置ですか?! 一番頑張ったのは、僕なのに」
 橋の手すりに手を付いて、サキは眺めている。傷付いたミティアを見て一瞬は目を伏せたが、竜次の手当てと彼女の表情に命を落とす程度ではないと把握すると安堵の息を漏らした。本当は魔法で傷を浅くしたいが、その気力がない。それに、竜次が手当てを施している。サキは自分が何もできないことをもどかしく思った。
 そのサキにコーディアはちょっかいを出す。
「あぁ、気付け薬、飲む? ちょびっとだけだけど、ミティアお姉ちゃんと間接キスになるよ?」
「また誤解されるからそれはちょっと」
 間接キスで痛い目に遭ったことをコーディに掘り返され、からかわれた。コーディはサキをからかって楽しんでいるようだ。
 サキは橋の上から海を眺める。街の明かりのおかげで白波が見えた。
「波が高かったけど、レナードさんの乗った船、大丈夫だったかな」
 この疑問に答えたのはコーディだった。
「船はノアにいったん避難したかもしれないね。でも大きな船だし、大丈夫だと思うよ。港だって大きいから」
 心配はそれだけではない。サキは微かに増水した真下の小川を見ながら杖をしまった。
「終わったのかな? 僕、夢中だったから、ただ、コーディの提案に乗ったけど」
 落ち着いたところで、やっと実感が湧いた。サキはコーディに抱え上げられて危機を脱した。その勢いのまま、急降下で重力魔法をぶちかました。ルッシェナは大打撃を受け、海に落ちた。
 コーディもそれは目撃した。
「海に落ちたとは思うけど。あの怪我じゃ助からないと思うよ」
 サキとコーディの会話がミティアの耳に入る。ミティアの物悲しい表情が、何を言いたいのかたくさんの意を込めている。
 竜次も、実感が湧いた。今になって手が震える。湧き出て来たのは、ミティアに対する罪の意識だった。
「返事しなくていいので、先に言っておきます。人を斬ったのは初めてでした。それもあって甘かった。その甘さのせいで、あなたがこんなに傷付いた。ミティアさん、本当にごめんなさい」
 謝りたかったと、竜次は深く頭を下げた。もうほとんど土下座だ。しかも目尻にも目頭にも涙を浮かべている。
 ミティアは首を振り、ただ笑っていた。言いたいことはあるが、今は手を握り返して黙った。
 
 ミエーナの赤いリボンが潮風にバサバサと煽られる。向かい合って、圭馬が文句言いたそうに耳を立てていた。
「でさ、ミエーナ? 敬称は付けた方がいい年齢?」
「ううん。湖の畔の民は長生きだったでしょ。これでも十八歳。パパもママもゆっくり年を取ったらしいから」
「壊滅しちゃったけどね。じゃあ、失踪した当時より少しあとかな?」
「そう。一回過去を改変してるから。アタシたちは生きている時間がおかしいと思う」
「頭がこんがらがっちゃうよなぁ」
 時間を越える、時間を移動する。瀕死のミティアは今は使えないが禁忌の魔法が使えた。もう要素が多すぎる。呆れるのもそうだがそろそろ話しの整理もしたい。これからどうしたらいいのかもわからない。賢人である圭馬でも、情報が追い付いていなかった。
 ミエーナは自分がここにいる事情に触れる。
「お兄ちゃんはここが世界の終わりだと言っていた。アタシがいたことで未来が変わるとは思えないけど、さっきの人って瘴気の魔物ではないよね?」
「ただの変態サディスト野郎だよ。でもミエーナがいなかったら、あそこのドラグニーの子と大魔導士の子は海の中だったかもね」
 勢いで付いて来てしまったけど、何かの役に立ったならよかったとミエーナは笑う。
「こんなアタシに何かできるなら、いっそお兄ちゃんと一緒にいる理由はないのかもしれないね。うん。決めた」
 ミエーナが走って行く。その先にはまともに話せそうな竜次。
「あの、アタシ、しばらくお世話になってもいいですか?」
 竜次はミティアを抱え上げながらキョトンとしていた。決定権は自分にあるものなのかと困惑している。
「すみません。保護するつもりではいたのですが、ほったらかしになってしまって」
「いえ、どうせお兄ちゃんいないんだし。あれだけ騒がしくしたのに顔も見なかったってことは、多分ですが、この街を離れたんだと思います。代わりにここでお役に立とうと思います。よろしくお願いします」
 ぶんっっとポニーテールが下がって竜次を軽く殴った。ミエーナのチャームポイントであり、それ以上の要素でもある。
 これを見たミティアは笑った。
「ふふっ、ありがとうミエーナちゃん」
「あ、あぁっ、ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんです」
 少し空気が和んだ。戻ってミティアを安静にさせてあげたい。凝った処置を施せるはずだし、みんなボロボロだ。
 圭馬がサキの肩に乗った。今はこのウサギの体重も重く感じる。
「しっかし、殴られたねぇ」
「顔と右手ばかりです。口の中を切って気持ちが悪いです」
「タフじゃん。喧嘩慣れでもしているのかい?」
 このウサギ、知ってて言っている。サキは虐待を受けていた経緯から、変に逆らって踏ん張るよりはある程度流れに沿って受け流す方が痛さはマシなのを得ていた。
 殴られ慣れているとは言いにくいが、サキが身に付けたガードでは限界があったからだ。殺されないことは最初からわかっていた。
 サキが痛そうに歩いている。コーディはそれを見てにやにやと怪しげな笑みを浮かべていた。
「どうして人が痛がっているの見て笑っているの?」
「別に? あとで私が手当てしてあげるよ」
「コーディだってインフルさんじゃないか」
 コーディが立って歩いていられるのも、サキを抱えて旋回し、突っ込めたのも竜次の栄養ドリンクのせいだ。コーディの横を水色のコートをまとったミエーナがふわりと通った。
「あ、あの、アタシに捕まってください!!」
 ミエーナは気を利かせ、サキの左肩を持った。引っ張るように一緒に歩き出す。
「あ、ありがとうございます? あれ?」
 サキはミエーナに支えられて驚いている。ミエーナは当たり前のことをしていると思っているのか、その表情は涼しい。
「な、なっ……」
 鳶に油揚げをさらわれた気分だ。コーディが口をパクパクさせて二人が過ぎるのを見つめている。
「こりゃ波乱の予感だね。久しぶりに人間臭い昼ドラ劇場が見られそうだ」
 圭馬が楽しそうにしている意味がわかっているのは当の本人たち以外だ。中でもコーディにいたっては、インフルのぶり返しでもするのではないかと言うくらいに顔を真っ赤にしている。

 拠点に戻るため、速足で石段を下っていると声を掛けられた。
「わわわ、竜次坊ちゃんっ!!」
 尋常ではない身のこなしで壱子が石段に踏ん張りを掛けてブレーキを掛ける。
「壱子様っ!! ご無事でしたか!!」
「いえ、あ、はい。坊ちゃんたちを心配してこの壱子、一足お先にと!! そのお怪我は?」
「私の怪我ではありません。でも手当てしないと。ローズさんたちは?」
 壱子が背後を気にしている。次に聞こえたのはハーターの声だった。
「えっえっ!?」
 ハーターは陽気に手を振ろうとしていたのだろう。だが、竜次の手が血塗れなのと、手当てをされていたミティアを見て、血相を変える。
「こ、こいつはまずい! 先に行って家を開けておくね!」
「お、お願いします!!」
「コッチも怪我人が出てるんだ。ソッチはみんな、生きてるんだよね?」
「そ、そうです!!」
 ハーターは竜次の返事を聞き、大きく頷いて走って行った。
 壱子がミティアの顔を覗く。力ないが笑っていたのでホッとしている。
 竜次は壱子に質問をした。
「壱子様、怪我人って?」
「それ、わたくしに聞いちゃいますか? 彼女を落してしまいますよ」
 壱子は断りを入れた。竜次はこの時点で嫌な予感はした。だが、今は壱子の気持ちを汲み取った。拠点に戻ることを優先する。
 足早に坂を上がり、拠点に辿り着いた。家の中は暖炉に火が入っていてすでに暖かい。
 バスタブにお湯を溜めているのか、家の奥からほんのりと湿気が感じられた。
 ハーターはバタバタと支度をしているようだ。
「えぇっと、お湯と消毒液と。ごめんよ、保健体育の知識しかなくて」
 竜次はこの心遣いがありがたいと思った。
「あの、あと綺麗なタオルをたくさんと毛布。器具を炙れるような小さい火があると助かります」
 ハーターは竜次が言った足りないものを取りに行く。
 ここは明るいし、温かい。竜次はミティアの顔を見て言う。
「ミティアさん、もう大丈夫ですよ」
 暖炉近くのソファーに寝かせた。ここなら温かいはずだが、ミティアの手が震えている。寒さを訴えた。
 ベルもノックもなく、玄関が乱暴に開いた。その正体はローズだ。
「オニーチャンッ!! すぐに大量のタオルとお湯を!!」
 ローズは入って来るなり真っ青になる。ソファーの上の先客に目を見開いて震え上がった。ローズが立ち止まることで、あとが閊えた。だが、すぐにキッドを背負ったジェフリーに押し込まれた。
 ジェフリーは竜次と目が合った。お互いにびくりとする。そして、危機的な状況だと気が付いた。
 竜次は血だらけのキッドを見て手を止めた。
「クレ、あぁ、そんな……!!」
 取り乱して首を振っている。ジェフリーがキッドを下ろした。竜次が茫然としている間にローズはテキパキと準備をしている。
 慣れていないだけでこの差だ。だが、ローズも足に大きな擦り傷を作っていた。本当は彼女だって痛いはず。
 ジェフリーは手を止めている竜次に言う。
「兄貴、手当てをしてほしい!!」
「わ、私には……」
「頼むから助けてやってくれ!! 俺にはできないない」
 ジェフリーが竜次に向かって頭を下げた。目を覚ましてほしい思いで。
 兄弟の切羽詰まった問答にキッドが声を上げた。
「竜次さん、そこにいるの?」
 声のする方を注意しているようだ。
「あたしは生きてるから、心配しないで。それより、ミティア、怪我をしてるの?」
 キッドは頭から血を流しているが、意識ははっきりしているようだ。ただ、目は開けない。ローズが処置を施す。
「横がいい?」
「今は座ってる方がいいかな、あんまり揺すったりしないで」
「これを首のうしろに……」
 ローズはキッドの首のうしろに氷の入った袋をタオルに包んで回した。
「ジェフ君、キッドちゃんの顔を拭いてあげてください」
 ジェフリーは渡されたタオルでキッドの血を拭う。ローズはいたって真剣だ。特徴的な語尾でふざける様子はない。
 ローズはショック状態で使い物にならない竜次を押し退けようとする。
「北の山道でワタシに言ったことは嘘だったの? そこにある命は助けるって!!」
 ローズがミティアを診ようとする。だが、ミティアはローズの手を握った。首を振って唇を震わせている。彼女のお得意である、自分を優先しないのが始まるのかと、ローズは怒鳴った。
「ミティアちゃんっ!!」
「わたし、先生に、診てもらいたい」
「えっ?」
「お願い、先生に、チャンスをあげて。わたしは、大丈夫。頑張れますから」
 信じられない言葉に背中を押された。ここまで言われて奮い立たずにはいられない。
 竜次は立って手を洗いに奥の部屋に消えた。
 ミティアはジェフリーを見上げる。
「いいよね?」
 キッドを優先してほしい。竜次にチャンスをあげてほしい。ミティアは、自分は大丈夫だからと言い張る。ジェフリーは複雑な思いを抑え込んだ。
「あんな落ちぶれた兄貴にチャンスをくれてありがとう」
 目が合って笑う。ミティアの心優しさに感銘を受けるのは、これが初めてではない。ジェフリーも、自分勝手ならば自分の大切なミティアをどうあっても優先させろと道理を外れることもできたはずだ。だが、そこまで聞きわけがないほどではない。
 ジェフリーは頷きながら立ち上がる。この異様な空気の中、キッドは拗ねるような態度を取った。
「あのさぁ、ミティア?」
「なぁに、キッド」
「竜次さん、あげないから!!」
「先生は、かっこよすぎるから。わたしじゃダメだよ」
 ミティアはキッドが思いのほか元気であることに安心した。嫉妬が今は可愛らしく思える。
 キッドの親友との会話に空気が和む。ミティアは心から笑っていた。

 すこぶる不機嫌のコーディが玄関で仁王立ちをしている。
「で、入っていいの?」
 怪我をしているのに、こんなに和やかなのはこの一行のいいところなのだが、気性の変化が激しいコーディには不機嫌が増す材料にしかならない。
 主な原因は階段に座って、ミエーナに顔まで拭いてもらっているサキのせいだ。
 戸締りだけ先にしてしまおうと、ハーターが玄関を閉めようとする。外では壱子が中に入るわけでもなく突っ立っていた。
「キミも入ればいいのに」
「いえ、ここは温かすぎるのです」
「……」
 壱子の指す意味は部屋の温度ではない。この一行の絆と飛び交う思いやりに温かさを感じているのだ。
 聞いてハーターは歯を見せて笑う。
「ケーシスさんはどんなに冷徹なのさ」
「でも、まぁ、そうですね。今の人間からは失われつつあるものです」
「混ざってお茶を飲むくらいはいいじゃないか」
 説得され、壱子は諦めるように息を吐いた。
「お話もありますし、そうですね。素人ですが、手当てを手伝いたいとも思います。お邪魔しましょう」
 壱子が中に入ると、温かい空気に思わず笑顔が綻んだ。
 勇者一行、救世主、ギルドでも言われはいくらでもある。だが、そんなものでは片付けられない。単純ではなく、もっと複雑で、そしてこんなにも温かい。

 一行に混ざらず、窓の外を気にしている猫が一匹。圭馬が気にかけていた。
「なぁ、ババァ? 会話に入らず、すっと外なんか見てどうしたんだよ?」
「ふむ。気のせいじゃといいのぉん」
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