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【2‐1】生と死と

生存戦略

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 沙蘭のからっと晴れた空に高い笛の音が響いた。
 街の見回りをしていた竜次が反応する。
「これは裏ですか!?」
 よく慣らされた木の橋をトントンと渡る。向かうのは城の裏側だ。
 鳴ったのは呼子笛という緊急事態を知らせる笛だ。考えたものだ。正姫によると、住人全員に持たせているのだという。危険が及んだ際に、躊躇なく吹き鳴らせと周知させてあるようだ。
 鳴った場所に駆けつけると、鉈を持った役人が負傷していた。そして竜次よりも早く、キッドが駆けつけていた。不慣れだが、負傷した役人の手当てをしている。
 相手は牙を生やした大きなイノシシだ。
「クレア、援護を……ちょっと大きいです」
「わかりました。あたしの得意ジャンルですね、任せてください!!」
 キッドは退いて距離を取り、弓を構えた。竜次は怪我をした人を、安全な場所へと端に移動させる。
「大丈夫です。骨は折れていませんから」
「竜次様、ありがとうございます!」
「手当てをしてくれた彼女にお礼を言いなさい」
 竜次はにっこりと無難な営業スマイルを役人に見せる。追い込まれた人は、これだけでも安心するだろう。
 医者カバンを外して地面に置いた。
「っと、たまには働きませんと」
 キッドに向かってイノシシが突進しようとしている。弓矢では弱く、突き刺さりはするが、ダメージがほとんど与えられていない。キッドは狩猟用の剣を構えた。
 きっと受け止める。竜次はそこを、後ろから斬りかかるつもりだった。
「きゃあっ!!」
 キッドの剣が砕けた。運悪く牙に当たってしまったようだ。
「クレア!! こ……んのぉ!!」
 キッドを引きずった状態で突進を続けるイノシシ。竜次は牙突を繰り出した。咄嗟に変えた軌道に、背を裂いた。
 何も計算せずに斬りつけたせいか、返り血が腕を染めた。普段なら、こんな手際の悪い戦い方をしない。完全にイレギュラーだ。
 竜次はいつもの顔をしていない。真剣で静かな怒りを訴える目をしていた。
 イノシシはようやく竜次の存在に気がついたのか、向きを変えてこちらに向かって猛進した。
 大きいし牙もある、高さは竜次より少し低いくらいだ。刀は通らない、となれば。
 持ち手を変え、右手を空ける。その手はマスケットへ行った。
 バゥンッ!!
 頭を狙ったつもりが、鼻先からバーストし、血肉が飛散し、イノシシは倒れた。だが返り血がひどい。獣の臭いと、血肉による悪臭が漂う。
「うっ、竜次さん……」
 マスケットの煙たさと、残る熱を不快に思いながらホルスターに収め、キッドに手を貸した。
 倒れた拍子に脚を擦りむいた程度だが、右手が血塗れだった。砕けた剣が悪さをしたと見ていい。
「どうしよ、これじゃ弓が引けない……」
「そんなのはいいから! 自分の心配をしなさい」
 昨日も切り傷を負った。まだ包帯が痛々しいのに、また手を怪我した。キッドはひどく落ち込んだ。
 竜次はカバンを拾い上げ、応援に駆けつけた役人に声をかけた。
「国を出て行ったはずの、私が指示を出すのはどうかと思いますが、街の門を全部封鎖しなさい。外部からの侵入を少しでも防ぐように動いて! 怪我をした人は、詰所の北殿に運んで。この広い街で防衛戦は難しいです。見張り台はありますか?」
 マナカも光介も不在でこの足並みだ。あの二人はずば抜けて強いが、ほかが育っていないのが浮き彫りになった。竜次が指示を出すと、早速動き出した。
 落ち着いたところで、竜次はキッドに向き直った。まずは詫びる。
「遅れてすみません。傷を見せてください……」
 キッドは怪我をした手を見せながら苦笑した。
「街の人に慕われてますね。お役人さんの上に立つ仕事も向いてそう……」
「そういうのはいいかな。だったら静かに診療所でもしていたい」
 手際よく包帯が巻かれ、キッドの右手の平腕まで包帯になって、大怪我をしたみたいになってしまった。実際、手は動くし、切り傷だが深くはない。
 お手製の傷薬も広げたし、割と早く塞がるかもしれない。
「しかし、朝方は大きなグリズリーが出たと言っていましたが、今回はイノシシ。自然豊かとは言え、急すぎやしませんかね」
 幸いにも砕けた金属は傷口に残っておらず、切り裂いただけではあった。竜次は手当てを完了し、ため息をついた。
「まだ対人じゃないだけ、いいのですけれど」
 対人と聞いて、キッドが昨日の出来事を思い出した。感傷に浸るわけにはいかないと、かぶりを振っている。
「あたしも動物ならまだ……」
「休んでてくださいと言いたいところですが……」
「いえ、いいんです。あたしにもできることがあるはずなので!」
 キッドは立ち上がってスカートを払った。
 ただ、丸腰とはいかないだろう。竜次は荷物を減らした。
「これ、使って……」
 腰から赤い紐を解いた。紅椿の柄が鞘に入った小太刀だ。
「え、これ、竜次さんのじゃ……」
「正確には私のものではありません。荷物が減りますし、ちょうどいいです。それに、私がきちんと手入れをしているので、力を入れなくてもよく斬れますよ」
 受け取ったキッドは、小太刀が脚に隠せずに困惑した。ただ、腰に下げても重さによるストレスを感じない。
 早速手に取って軽く振る。
「えっ、軽い! 大丈夫ですかこれ」
「あんまり持つと傷に障りますよ。いざってときだけにしなさい」
 注意を受け、キッドはすぐ鞘にしまった。彼女が戦うのはしばらく避けさせたい。竜次は意識するように心がけた。そうなると、一緒に行動をせざるを得ない。
「防衛戦は、私たちのガラではないですが、知恵を貸してくれませんか?」
「知恵……高いところがあるのならそれに越したことはないですが、その見張りにも簡単な武器が使えたらいいと思います」
「ふむ……」
 遠くで呼子笛が鳴った。今度は何が出たのだろうか。
 外壁があるのだから、門を閉鎖すればある程度は防げる。お決まりだが、高台か見張り台があればずいぶんと違って来るだろう。

 竜次とキッドは詰所がある北殿に戻った。役人とギルドから雇った人たちが会議を行っていた。会議に参加しないが、土埃と返り血を拭きながら離れて耳を傾ける。
 沙蘭だけに限らず、全国的におかしいようだ。幸い、この国は海に面している。全国共通して、今のところ海からは何もないと聞いた。
 出した指示の通り、門は閉鎖し、外部から人が来る場合は見張り台が受けて通達する流れを組んでいる。ここまでは順調だ。このまま安定した防衛線が張れると理想的なのだが。
 竜次とキッドのさらにうしろから血についた長刀を持った正姫が帰って来た。動きやすいように着物を着崩し、中に肌着に似たシャツを着込んでいる。
「門は全て閉鎖しました。お兄様、的確なご指示をありがとうございました」
 正姫は深々と礼をするが、竜次は素直には喜べない。
「姫子まで参加することはないのですよ?」
「ですが、人手が足りないのも事実。先日の黒い龍のせいで、役人は半分ほどになってしまいましたし、動ける人間に限りがあります」
 未熟さもそうだが、人数が少ない理由が納得した。
「要塞のような造りで助かりましたけど、ほかの街はこうはいかないでしょうね」
 フィラノスは兵力がある。平原の中の街なので、きちんとした防衛を脹れれば、襲われても収拾がつくであろう。騎士団も真面目に動けばだが。
 フィリップスはマナカと光介が向かっているが、兵力で賄えそうだ。
 問題は山道と街道、森や遺跡と環境が最悪の貿易都市ノアだ。マリーの孤児院が心配でならない。あくまで、竜次が個人的に思っている範囲なのだが。
「被害が出ているのはここだけではないのでしょう? 外部から情報は入って来ませんか?」
「ノアに強者がいるとお聞きしました。あと、マーチンが壊滅したと……」
 マーチンは竜次が働いていた診療所がある街だ。忘れていたが、近くには広い森も、山道もある。環境は最悪だ。
「剣術学校もあったのに……」
 多少は逃げ延びた者がいるかもしれないが、壊滅と聞いていい気はしない。
 黙って聞いていたキッドが、暗い表情をしながら外に出て行ってしまった。竜次は止めようとする。
「あっ、クレア、どうしたんですか?」
 すれ違った正姫も辛辣な表情だ。
「これからわたくしも加わって、情報の整理と防衛に徹します。お兄様は、お友だちを大切になさってください」
「お友だち、ねぇ……」
 そうかもしれない。難しい立場の彼女に、自分は気の利いた言葉もかけてあげられない。もどかしくて、情けなくて。上手く言葉に出来ないが今はキッドの力も必要だ。竜次は深く頷いて正姫に手を振ると、キッドを追った。
 キッドは足が速い。遠くに行かれると厄介だ。だが、竜次が必死になって探したのもあっという間だった。足跡は北殿の裏手に続いていた。
 キッドは人目を避けるようにしゃがみ込んでいた。堀に対して思い耽るように、暗い表情を沈めていた。目の前の雑草でも眺め、蟻でも見ているかのようにぼうっとしている。
 竜次は心配になって、追って来たはいいが、かける言葉に詰まってしまった。特に、キッドは気難しい点が多い。怒られもした。下手をしたら友だち以下かもしれない。正直、励ます自信がなかった。
 黙って竜次もしゃがみ込んだ。不器用ながら気にし、キッドの顔を覗く。それでもキッドは顔を合わせようともしないし、黙ったままだ。
 言葉もなく、チラチラと何度も顔を覗かれるのに苛立ったのか、キッドは急に立ち上がって、避けるように数歩進んで足を止めた。
 竜次は避けられてしまったと小さく唸りを上げ、項垂れてしまう。妙に子どもじみて、励ます仕草ではない。
「うーん……」
 竜次がこの行動をとったのは、同じ目線だったら、心を開いてくれるのではないかという甘い考えから来ていた。学ばない医者だ。そうではないと気がつかない。
「はぁ……」
 キッドが大きなため息と共に、肩を落とした。
「話、聞いてもらってもいいですか? ほとんど愚痴ですけど」
 諦めるような声質だった。仕方がない、ほかにいない。
 信用のない医者だった竜次が、信用を得るのがどんなに難しいかは知っている。それでも、キッドに信用してもらえないのは残念だ。
「聞くだけかもしれないですが……」
 キッドは足を戻し、立ったままで竜次を見下ろした。自信がなさそうに身を縮める彼が頼りない。本当に年上で、先ほど見事な戦いぶりをした者と同一なのかと疑いたくなる。
 キッドは首の後ろを掻きながら、深呼吸をした。
「世界中で変なことが起きているのって、あたしのせいかもしれないですね」
「……」
「あの、聞いてますか?」
 キッドは竜次の無反応に対し、呆れながら腰に手を当てた。
 竜次は立ち上がってゆっくりと顔を上げた。
「どうして、クレアはそう思うんだろうって考えていました」
 キッドは泣きそうな表情だ。顔を真っ赤にし、気持ちを暴露した。
「す、好きな人に裏切られた気持ちがわかりますか!? 今のこの状態だって、あたしが殺さないでって止めちゃったせいで……なのかもしれない。みんなが苦しんでいるのは自分のせいなんじゃないかって!!」
「裏切られる気持ちはわかりません。ですが、ずっと好きだった人が、自分から離れていく苦しみならわかります」
 キッドは悲痛な表情を浮かべる。竜次が言う言葉がズシリと重く、胸の奥が苦しい。
「あ、あたしは弱いから……現実から逃げたかった!!」
「逃げないで向き合って。あなたは一人じゃない」
 境遇も、立場も違う。
 キッドは竜次に対し、自分にはないものを持っていると思った。
「当時の私には、失った彼女以外何もなかった。でも、あなたは違う。気持ちを理解してくれる弟も仲間も親友も……私という友人だっています。だから一人なんかじゃない。早くそれに気がついてほしい」
 勝手に友人だと自称した。少なくとも、味方だと理解してほしかった。
 その先の、もっと良き理解者になれたのかはわからない。きっと、知恵の輪を解くよりも、キッドの気持ちを理解するのは難しい。
「あたし、今度ルッシェナさんに会ったら、また騙されちゃうかもしれない。気持ちが揺らいで、みんなを危険な目に遭わせちゃうかもしれない」
 キッドは首を振って俯いた。だが、すぐに顔を上げた。
「次、あたしが取り乱したら、腕や足の一本もへし折ってもかまいません。あたしを止めてくれませんか?」
「私にするお願いではありません。ジェフなら厳しくしてくれますよ?」
 竜次は自信がないせいか、逃げ腰だ。励ましもできなければ、元気づけることもできない。偉そうに説いたが、いざキッドに頼られるとどうもすり抜けようとしてしまう。ジェフリーの気持ちを理解した。
 キッドはそれでも竜次を頼った。
「あたしは、竜次さんに止めてもらいたい……です」
「え、えぇ……?」
「あいつはミティアを任せてあげなきゃ……でしょ?」
「責任重大だなぁ……」
 この話は竜次の苦笑いで締めくくった。
 キッドは自身の中のモヤモヤがある程度解消されたらしく、迷いはあるものの笑顔を見せた。
 ようやく気持ちが上向いたのに、竜次は蒸し返すように言う。
「でも、こんなに思い悩むなんて、クレアらしくない」
「あ、あたしだって、悩みます!! 過去じゃなくて、今ですし!」
 キッドはむきになって強めに言う。だが、その表情は先ほどよりずっと明るい。
「私たち、似てますね。お互い不器用なところが」
 風が吹き抜けた。向かい合ってその風が憎いほどの寂しげな演出をする。お互いの髪が吹き揺れ、笑顔を運んだ。
 その空気で竜次はため息をつき、告白にも似た誘いをした。
「このまま私と沙蘭に残りますか?」
 風に吹かれた勢いで言った。やや意味深に思われたかもしれない。竜次は何を言っているのだろうと我に返った。
 キッドはこれに対し、はにかみ笑いをする。この笑い方は、サキに似ていた。きちんとした返事をする。
「なーんもやることがなくなったら、それもいいですね。でも、腰を据えちゃったら、意外とつまらないかも」
 よき友人。でも、お互いどこか似ていて、心の奥底を理解できない。感じる距離、微妙な関係、これもこの二人らしさかもしれない。
「でも、まだまだこれからも、みんなと一緒ですよ。もちろん竜次さんも。いなくなったら、あいつが調子に乗りますから! ここに残るなんて言わないでくださいね!!」
 キッドは竜次も一人じゃないと言いたそうだ。確かにジェフリーが調子に乗るのは、由々しい。
 訪れる夜の足音、夕暮れから逃げるように北殿に戻る。
 ここはいったん払ったようだ。拠点にするならここよりも、城の方が見晴らしはよく視界もいい。その後呼子笛は鳴らず、平和な夜が訪れた。

 守りを固めたのは正解だったようだ。
 いつでも動けるようにと軽いお弁当を二人で食す。なぜか、竜次の自室で。
「城の客間に用意があると思うのですが、なぜ私の部屋で?」
 竜次が質問をすると、キッドは何も抵抗なく答えた。そう、何も抵抗なく。
「えっ、あたしの主治医さんじゃないの?」
 キッドの返事に、竜次は梅干しの種をガリッと噛み砕いて歯茎を痛めた。怪我をしている口実で、竜次と一緒にいるつもりのようだ。
 ほかの部屋に移ってもいいのだが、そうなるとキッドを一人にしてしまう。それはそれでいいのだが、果たして最善だろうか。
 いや、今はきちんと言わなくてはいけない。竜次は箸を置き、厳しめの注意をする。
「あのっ、だから、ここは男性の部屋ですよ」
「あ、そっか。ふぅーん……?」
 昼間も竜次は注意をした。だが、キッドはそれを逆手に取るような発言をした。
 スカートのスリットを捲り上げ、脚をチラリと見せた。
「えいっ!!」
「こ、こらっ!」
 色仕掛けのつもりなのだろうか。キッドは竜次の反応を楽しんでいるようだ。
「好きな人にしてあげなさい! まったく……」
「えぇ!? つまんないですね。ここは襲うところじゃないですか?」
「怪我人という自覚を持ちなさい」
 キッドは前々から自分に魅力がないと気にしていた。もちろんそんな思いは竜次に通じていない。すれ違いと勘違いが多くて、まず男女のラインに立てていない。
 女として見られていないのかと、キッドも勘違いを増した。
「じゃあ、怪我をしていなかったら、あたしの相手……します?」
 悪巧みでもするような、不敵な笑みを浮かべるキッド。緊張の続いた中で、ちょっとしたからかいを試みている。弄ぶのが正しいかもしれない。
 竜次はキッドの言動以外にも気になることがあった。きれいな生足よりも、スカートが上がった勢いで見えてしまった左足の傷の跡が気になった。指摘をするとかえって誤解が生じそうだったことからこれを黙った。もっと別の指摘をしなくてはならない。
「友人として忠告しますけど、体は大切にすべきですよ」
「あ、いえ、確かに体は大切ですけど」
 思い違いしているにも限らず、キッドは楽しくなっていた。本当に鈍い。気持ちの核心に迫ろうとするとお互いにすり抜けてしまう状況だ。
 お弁当を片付けながら、竜次がお茶を出した。最近は寒さを感じ、こういった暖かいものが身に染みる。キッドはお茶を飲みながら訊ねた。
「このお茶おいしい。何のお茶ですか?」
「玄米茶ですよ。ノックスより北の寒い地域、レーチェン地方のお米と沙蘭の抹茶とのブレンドですけれど」
 竜次はお茶に関する情報を述べる。レーチェン地方とは聞き慣れないだろう。実は名前だけで、どんな場所なのかを知る者が少ない謎の地方だ。ノアで購入した世界地図にも載っていなかった。もしかしたら、この地方に別のヒントでもあるのだろうか。
 竜次はぼんやりと考えていたが、この場で話す相手はキッドしかいない。いったん頭の片隅に置いておくことにした。
 実は竜次、旅の道中で力不足を痛感し、このまま沙蘭に残ろうと本気で考えていた。自分は当初、禁忌の魔法に邪な思いを抱いて同行した。目的は転々とした。自分には剣しかない。医者であるのも中途半端。魔法は使えない。劣等感を抱いていた。
 キッドは竜次が悪い考えを持たないよう、見張りとしての意味もあって残ったと言っていた。その考えが竜次にはありがたかった。もう少し前を向けるだろうかと希望を抱いた。
 両手に湯飲みを持ってほっこりと暖まっているキッドに対し、竜次は座布団に座って向かい合う。食事は終えたので、落ち着いた時間を過ごす。
 キッドは敵襲や集合に呼ばれない限りはここでおとなしくしているつもりだった。しかしここは竜次の部屋だ。
 男性の部屋。しかも二人きり。竜次はキッドを追い出す意識を強めた。
「さ、食事も済んだし、客室に行きなさい」
「え、あたしだけどうして?」
「ここで休むつもり!?」
「だって、竜次さんの部屋、広いし、温かそうだし……」
 キッドは移動するつもりがないようだ。座り直し、ここにいるのが当然のような振る舞いだった。
 竜次は諦めて戸締りをした。解いてしまった武器を持ち、カバンの中身をチェックしている。
「……?」
 キッドは、なぜ移動の支度をしているのかわかっていない。そんな彼女の態度に、竜次はため息をこぼした。
「城に行きます。これからどうするつもりなのか、姫子に聞いておかないと」
「そ、それならあたしも行きます!」
 もちろんその理由は半分だけ。残りはキッドをこの部屋から出させるためだ。竜次の部屋にはいろいろあって面白いかもしれないが、先ほどのように、キッドが変な気を起こすようでは困る。
 手際よく片付けをし、部屋を出て城へ赴いた。
 あれから落ち着いたようだ。大きな騒ぎは起きていない。通りかかった詰め所では、見張り番を組んでいるところだった。これはしばらく続きそうだ。
 今は正姫が指揮を執っているらしく、見張り台の増設を提案しているところだった。会議が終わったらしく、解散して持ち場に散った。
 二人の姿に気付いた正姫は駆け寄って一礼する。
「その節はありがとうございました。お兄様の助言もあって、大きく崩れる前で本当によかった」
「個々の能力が高くては意味がありません。こういうのは一致団結が必要ですからね?」
「あとは、マナカたちが帰って来るのを待てば……」
 慣れていないが、指揮は間違っていないようだ。皆が実行に移すのが早く、大きく混乱はしていない。
「遅くても明日の夕方までには戻るはずです。それまで持ち堪えませんと」
 正姫は危機感を持っている。だが、どうも今は一緒のキッドが気になっているようだ。
 キッドも竜次と親しくしている件で何か言われるのかと身構えた。だが正姫は背筋を伸ばし、胸の前で手を組んだ。
「申し上げにくいのですが、弓矢が使えるのでしたら、その技術を学ばせていただきたいです。ご指導願えませんでしょうか?」
 キッドは意外な申し出に目を丸くし、驚いた。そこへ竜次が割って入った。
「彼女は怪我をしているんですよ!? 何も弓矢ではなくとも、マスケットがあったはずです。本当に飛び道具は備えていないのですか?」
 今の沙蘭では、光介しかマスケットを持っていない。他国の方が扱われている。撃ったときの反動も火薬も懸念事項だが、まず当たらない。当たれば威力は大きいが、改良を重ねないと使い物にならない。竜次もローズにメンテナンスと改良をしてもらってやっとなのだ。一般の者には難しい。
 だからといって、キッドに弓矢の扱いに関しての手ほどきを乞うのはどういうつもりだろうか。
 キッドは驚いたが、嫌な顔をしていない。むしろ、うれしそうだ。
「先生、ちょっと待ってください。弓矢なら、あたしにも教えることができるかも。狩猟を教えるのは無理ですが……」
 弓矢なら危険はぐっと下がる。
 いい返事を聞き、正姫は渋っている竜次にも頭を下げる。
「実はお兄様にもお願いがあります。街の者に剣術の手解きをしていただきたく思います。難しいでしょうか?」
 役人の上に立つ仕事だ。気が進まない。だが、正姫は頭を深く下げている。現行の国の頭に、こんなことをさせている罪悪感が勝った。
「姫子、やめなさい。確かに個々が育っていないとは察せました。私が誰かに教えるなど不本意ですが、やりましょう……」
「竜次さん!!」
 キッドの表情も明るくなった。扱う物は違うが、要は素人に講習をするのだ。これはうれしくもなる。
「よ、よかった。さ、さっそくですが、明日にでも場を設けます!!」
 正姫は緊張の表情を和らげ、安堵に胸を撫で下ろした。そして大切なことを思い出し、慌てている。
「あぁ、大浴場を解放しております。客間もご用意しておりますので、ゆるりとお過ごしください。日が昇ったら皆にも収集をかけます。ご指導、よろしくお願いします」
 バタバタと正姫が城の奥へ消えて行った。そそっかしいが、言っている内容はきちんとしていた。
 あまりいい余韻ではない。キッドが竜次を見上げる。
「だ、大丈夫ですよ。あたしに教えるのと同じですって」
「得意ではないですが、あぁ言われては仕方ないです。とりあえず休めるときに休んでおきましょうか……」
 仲間ではなく第三者に武術を教えるなど、想像もしていなかった。今までも旅の道中で仲間や身内に教えることはあった。稽古もあったくらいだ。

 竜次は移動をしながらぼんやりと考えていた。
 不本意な『先生』だ。だが、キッドも一緒なら悪くはない。何より正姫の願いでもある。今回は受けたが、自分は何をしているのだろうという気持ちにはなった。
 ここに長居をするつもりはないのに、きっと長居をしたくなるだろう。なぜなら、指導するというのは誰かの上に立つのだ。継続的でなければ効果はない。マナカや光介に指導ができるだろうか。それも教えないといけない。
 自分が、医者以外でこんなに頼りにされるとは思わなかった。
 頻繁でなければこれも経験のうちだろう。
 こうして人生の経験値が積み重なっていくのかと、その身に受け止めて大人になるしかない。
 

「――リー、ジェフリー!!」
 懐かしい声、心地よくて温かい声だ。落ちる感覚と微睡みに呑まれそうになりながらジェフリーは重い瞼を上げる。
 心配そうに顔を覗き込むミティアとコーディが見えた。そうだ、魔界の歪みへ足を入れた途端に少しずつ意識が薄れてしまったのを思い出した。
 ジェフリーは体を起こすと、鈍い頭痛、胸焼けのような気持ち悪さがあった。動くには問題はないが、異変はある。
 ジェフリーの無事を確認し、圭馬が声をかけた。
「やっぱり『人間』にはしんどいよね。モヤモヤして圧迫されて、もしかしたら頭が痛かったり、気分が悪かったりするでしょ?」
 圭馬の元気な声がジェフリーの頭に響いた。二日酔いか、風邪でもひいたような響きようだ。ジェフリーは頭を押さえながら何とか立ち上がる。圭馬を確認し、下を向いた。この魔界の空気に呑まれたら吐きそうだ。
「今のところ、気持ちが悪いで済むけど、ここはこんなものなのか?」
「モロ受けしてる魔導士もいるよ?」
 圭馬に言われてジェフリーは『魔導士』の姿を探す。少し先で蹲っている緑のコートのサキが視界に入った。
 ローズが背中をさすり、アイラはいい処置がないかと圭白に相談している。
 ジェフリーは声をかけた。
「お前は帰った方がいいんじゃないか?」
 サキは立ち上がってぶんぶんと首を振っている。
「絶っっ対に嫌です!!」
 強気の割には顔色が悪い。この性格はキッドそっくりだ。
 あたりを見渡すと、泥とも言えず、地面と言ってもいいのかわからないが、とりあえず足は着いている。
 ゆっくりと何かが流れているような模様だが、足を取られる様子はない。色は紫、赤、黒、他にも混ざりきっておらずに不規則に流れるようにドロドロしている。溶岩のような、コンクリが混ざるような異空間らしさを感じた。
 皆の確認は取っておくべきだ。気を配っておかないと、いざというときにフォローしきれないのは困る。ジェフリーはミティアにも声をかけた。
「ミティアは大丈夫か?」
「う、うん、ちょっと平衡感覚がなくなるようで気持ち悪いけど大丈夫だよ」
 ミティアは受け答えがはっきりしていた。もしかしたら、ジェフリーやサキよりも元気なのかもしれない。
 全員の無事を確認し、圭馬が進行方向へ立つ。
「ようこそ魔界へ。生身の人間が来るなんて、普通は信じられないけどね」
 圭馬と圭白が先導した。未だに化身の姿から戻らないのが気になったが、ここに魔力が満ちていないのだろう。
 長居する場所ではないのは承知だ。案内に従ってしばらく進むと、黒い壁が見えた。異様な空間に異様な壁。こんな世界にも壁が存在するらしい。黒くはっきりと認識ができる。まるで重要な存在であることを主張しているようだった。
 ティアマラントたちはこの壁を知っているようだ。圭白から説明を始める。
「ここから先は死者の場所。手前は最近亡くなった人、奥地が古き人です。奥地は位が高い……が、人間界の説法みたいなものでしょうか。目的はその奥地、水鏡の見える場所に誰とも言えない『硝子の魂』の集う場所があります。そこにミティア様の魂があれば、完結する簡単なお仕事です」
 圭白の説明はわかりやすく、どこか趣も感じる。ゆったりとした口調なので聞きやすい。圭馬は注意を促した。
「瘴気とか、長年居座りすぎて自分の姿を見失った怨霊といった毒素のようなものがいっぱい渦巻いてるから、黙っていても弱っていくよ。生身の人間がこんなところに来るなんて、まずないからね。体、乗っ取られないように注意してね。特にお姉ちゃん?」
 ミティアは特に気をつけろと注意された。
 覚悟は決まった。だが、この壁、どうやって越えるのだろうか。ジェフリーは幻獣たちに案を聞く。
「しかしこの壁ってどうやって越えるんだ? どこかに扉とか壁がなくなっているところはないのか?」
 壁を見つめ上げるティアマラントの兄弟。ウサギの姿で見上げるものだから、哀愁が漂う。
「白兄ちゃん、どうやって越えるのか知ってる?」
「いいえ。いつも呼び出しで屋敷から転送陣を使うでしょう? 正規でこの壁を超える方法はわかりませんねぇ」
「まぁ、壊すか、無理して越えるしかないよね。もうどうなってもいいや……」
 壁は見える限り、が五・六メートルほどだ。圭馬は壊すとも言ったが、そもそもこの高さで乗り越えるのは厳しそうだ。それだけガードされている。よく考えたら、魂が逃げ出してはいけない。
 壁を目の前にしてコーディが提案をした。
「私は平気だけど、竜に変身する?」
 コーディの提案は魅力的だ。まだ彼女の変身した姿を見たことがない。だが、コーディの変身は大騒ぎになるし、目立つのは確実だ。背に人が乗せられると話していたのを思い出した。
 流れに乗って、サキも提案をする。
「本来この行為は内緒ですよね。でしたら、魔法で飛んで乗り越えますか?」
 サキの提案を耳にして、アイラも思い出したように頷いた。
「あぁ、ハイジャンプの魔法か。それなら目立たなくていいだろうね」
 皆の同意も得ないまま、アイラは魔石、サキは杖を取り出した。息がぴったりだ。
「ちょっとフワッとしますが、上手くバランスを取ってくださいね」
 サキが短い詠唱と共に杖を振った。足元に緑色の控えめな光が漂う。
 次いでアイラも魔石を弾いた。
 サキがコーディとローズ、アイラがミティアとジェフリーの手を取った。
「いくよ、せぇの!」
「はいっ!」
 軽くジャンプするような感覚だったが、本当にフワッとした。
 一瞬の無重力は難なく壁を乗り越えた。着地にも負担がなかったため、もともと空を飛ぶコーディは感心していた。
「魔法って凄いね。攻撃する魔法だけじゃなく便利な魔法だらけだったら、争いは起きないんだろうなぁ」
 種族戦争について触れていたコーディらしい発言だ。だが、純粋に魔法には関心がある様子。最近魔法にも手につけたという彼女だが、放つ機会はあるのだろうか。
 圭白と圭馬の案内で奥を目指した。道と言えるものは不明だ。そこに空間があり、光る玉がたくさん見受けられた。貿易都市ノアとその街道で見た人魂に似たものが多い。だが、殺意もない淡い色のものが多かった。
 聞くところによると、あれが人間の魂のようだ。ぼんやりとお化けのように実体を持った人もいたが、いつの時代に生き、どこの人かもわからない。
 だが、その複数の中からとある人物が目に入った。その人物は女の子で、ずっとこちらを見ている。まるで待ちかまえていたかのようだ。その女の子は歩み寄った。
 コーディ以外はこの女の子に見覚えがあった。
「お前は……」
 ジェフリーはミティアを庇って前に出た。
 女の子はほのかに青みを帯びた銀の長い髪、細い腕、綺麗な緑色をした瞳だが、白っぽいドレスのようなワンピース姿だ。この人物は邪神龍を引き連れ、ヒューリの村、水の街マーチン、そして沙蘭を襲った女の子だ。
 なぜ、ここにいるのだろうか。
「お待ちしておりました。必ずやここに来るはずだと」
 警戒どころではない。襲って来るのかと身構えた。だが、様子が違う。
 ジェフリーは殺意がないと思った。
「久しいね、セティ・オールフィ・ヒアノス王女。あ、王女でよかったのかね」
 アイラは警戒する一同よりも前に出た。セティと呼んだ女の子と親しげに話している。
「アイシャ・ドルール・アリューン様……ここでお会いしたくありませんでした」
「いやはや、まったくだね……」
「生前の無礼をお詫びします……」
「いんや、あんたが悪いわけじゃないだろう。知ってるさ、それくらい」
 この二人は知り合いのようだ。会話の内容から、何かの因縁があるようにも思える。殺意を向けるほどの仲ではないようだ。
 アイラとセティの会話を耳にし、コーディはあることに気が付いた。
「あ、おじさんが言ってた王女様……?」
 コーディの言う『おじさん』とは、クディフを指す。コーディもアイラも、邪神龍と一緒だった女の子を目撃してはいない。初対面なのに、あまり抵抗がないようだ。
 話の流れからミティアははっとした。
「もしかして、わたしの中にいた人ですか? 最後の禁忌の魔法を使ったのは……」
「ふふっ、あなたはいい仲間をお持ちですね」
「セティさん……」
 セティはミティアに歩み寄った。ジェフリーは身を引き、場所を譲る。セティが何を言うのか、注目をする。
「わたくしは最後の力をあなたに使い、未来を託しました。限られたその命は助かるかもしれない。ずっとあなたの中で見ていたのですが、この世界はまだ捨てたものではありませんね」
 優しくも悲しい笑みだ。もっと悲しく、もっと冷たい笑みなら知っている。
「本来でしたら、わたくしたちが皆さんを住みよい世界にするべきだった。そうですよね、アイシャ様……」
「……」
 セティは今の世界について触れた。そして自身がミティアの中で見た人としての歩みを照らし合わせる。これが、今の世界を救い、いい方へ変えてくれるかもしれない望みに思えた。
 アイラは悲痛な表情を浮かべている。心当たりがあるようだが、自分にはできない。その行動には移せなかった。などとでも思っているのだろうか。
 コーディがセティの志を知り、クディフから聞いた情報を話す。
「おじさんが言ってた。この王女様は、遺体が何百年と発見されずに、その……ミイラみたいになって、氷のように冷たい地下牢で発見されたのを種の研究所が拾ったって」
 想像が可能な程度にはリアルな話だった。クディフが伝えようとしているのは、思ったよりも衝撃的なものだ。
 どうでもいい命、誰からも愛されなかった命。世界の生贄になったのは、創られたセティの抜け殻だった。何となく話が読めて来たが、セティは一行に何を伝えたいのだろうか。それがまだ見えない。
「だいたいの話はクディフがお持ちのはずです。わたくしがお待ちしていた理由はただ一つ……」
 セティは深々と頭を下げた。
「人が変える世界をわたくしにも手伝わせてください」
 セティは顔を上げ、サキに手を差し出した。差し出した手の中には金色のブローチが輝いている。花の形、ユリだ。
「勇敢な魔導士よ、わたくしと契約を結んでいただけませんか」
「えっ、ぼ、僕ですか?」
「朽ちた肉体、二度も生まれ、生贄として汚れました。ゆえに、魂のみの存在です。そこな幻獣様のように自由には動けませんが、お呼びいただければ、お力になりましょう」
 サキは、突然の申し出にどうしたものかと圭馬に確認を求める。
「問題はないんじゃない? つか、ブローチって、ずいぶんとシャレてるね」
 こんな契約は聞いたことがない。と、いうか、他の魔導士もこういった契約があるのだろうか。
 セティがサキの左胸にブローチをつける。彼女はサキの左手を取った。
 交わす言葉こそ少なかったが、セティは皆の顔を見てほっとしたような笑顔を見せると魂だけの存在になり、ふわりと泳ぐように去って行った。
「気を遣ってくれたのでしょう。早く奥地に行けと仰せでした」
 ぼんやりとしている中、圭白が彼女の心を読み取ったようだ。
 死者としての気回しだ。先に進むことを再開した。
「ユリの花ってどういう意味なんだろう……」
 サキはブローチを気にしていた。その疑問に対し、今まで喋らなかったローズが解説をしてくれた。
「フィラノスは鈴蘭、沙蘭は桜、フィリップスはひまわり、ヒアノスはユリ、デス。もうあまり見ないのでレア物デス。ワタシの実家のどこかに似たようなものがあった気がしますヨ」
 ローズが言うにはレア物のようだ。滅びた国のものだ。確かにそうかもしれない。
 この世界には各国にシンボルフラワーが存在するが、ユリは知らなかった。フィラノスとなる以前の話は、都合の悪い人間によって歴史や情報はぼかされ、埋もれてしまっている。学生の教科書にだって詳しくは記されていないくらいだ。今を生きる人たちが過ちを繰り返さないためにも、この事実は明らかにしなくてはいけない。
 この目的は主目的ではないが、道中で得られつつある問題だ。

 魔界に漂う魂の数はわからない。見る人によっては、この魂の数をイルミネーションのように綺麗と言う人がいるかもしれない。
 ここで誰かを待ち続けるのは、もしかしたら苦痛かもしれない。愛し合う者同士が、死しても一緒だと約束するだろう。案外、ここで待ち続けるのは退屈なのかもしれない。待っていても来るとは限らない。いつ来るのかもわからない。もしかしたら残された者は別の幸せを見つけているのかもわからない。この何もない空間に何を望むのか。
 時間が潰せる趣味でもない限り、感覚が麻痺しそうだ。

 ジェフリーの足が止まった。
「ジェフリー? どうしたの?」
 ミティアが声をかけるが、ジェフリーは答えない。
 ジェフリーの足がなぜ止まったのか、見ないように逃げてきた過去がそこに存在したからだ。視線の先には、昔の魔法学校の制服、ケープまで身に着けた女の子がいた。なぜかこの一帯は魂の数も人の存在も多い。十年ほど前、そうだろう。
 もしかしたら覚えていないだけで、ここにぼんやりと存在する人や魂は、知っている人かもしれない。同じクラスの人だったかもしれない。当時の先生だったかもしれない。ある日すれ違った子どもかもしれない。
 急いでいるが、きっとこれを逃したら一生後悔する。
「ごめん、俺に少しだけ時間をくれ。先に行ってほしい……」
 ジェフリーは、言うのも詰まりそうになった。これは自分だけの問題。言うなれば、自分勝手だ。
 歩調を乱す行為に、コーディが憤慨した。
「何言ってるの!? 奥地まであと少し、水鏡っていうのが見えてるよ?」
 コーディが前方を指さす。
 水鏡。遠くに湖のようなものが見える。魔界に水が存在しているのかわからないが何かの手がかりになりそうな場所だ。
 どちらにしても、長居は体によくない。気分が悪いのもそうだが、このままだと思考が鈍りそうだ。正確な判断が難しくなると厄介である。
 それでも、ジェフリーにとっては譲れなかった。頑なに譲らない意思。この場に留まろうとする様子を見て、サキが気を利かせる。
「ジェフリーさん、あんまり遅くならないでくださいね」
 サキは気まずい雰囲気を脱するように先頭へ立った。
「ミティアさん、皆さんも先に行きましょう!」
 サキが率先してミティアの手を取った。
 ジェフリーは葛藤に苛まれて頷くしかできなかった。よくできた友人だ。サキは場の空気を悪くしないように牽引した。
 戸惑いながら、皆が先へ進む。行き先は見えているのだ。最後に通ったコーディが涼しい顔をしながら、捨てるように一言、ジェフリーに声をかけた。
「ちゃんと現実を見てね」
 コーディらしい言葉だった。
 夢を見ているわけではないが、ずっとここにいたくなるかもしれない。
 圭馬は言っていた。本当に死ぬかもしれない、と。ジェフリーは今、二重の意味で危険を冒している。
 仲間から離脱したのを確認し、魔法学校の制服を着た女の子が少しずつ歩み寄った。

 茶色の綺麗に揃えられたショートヘア。いつも帽子を被っていたが、今もそうだった。水面に映る月のように、落ち着いた雰囲気をまとっている。
「ジェフ君……?」
 呼ばれて確信した。やはりそうだった。
 彼女はカサハ・クライヴェーテ。フィラノスでは名の知れた、資産家の令嬢だった。
 美しいだけではなく、仕草にも気品があり、何事もがさつなジェフリーとは大違いだった。当然頭もいい。昔の腐っていた魔法学校だったら、金を積めばどうとでもなったものだが、博識な彼女はどこまでも真面目だった。この絵に描いたような貴族の令嬢がなぜジェフリーを気に入ったのかは、また別の話になる。
 魔導士狩りが起きたのは学校の帰り道、下級生と教職員が年一回行う、合唱会へ向かう途中だった。
 混乱の中で学校へ避難しようと戻ったが魔導士狩りの暗殺者ではなく、気の狂った人間に襲われた。肉欲にまみれた大男は、カサハを襲った。彼女は泣き叫んだ。だが、それでもジェフリーに逃げるように促した。
 ジェフリーは怖かった。見捨てて逃げた。目の前で、何もできない非力だった自分をどんなに悔いただろうか。ジェフリーは頭を下げ、振り絞るように謝った。
「カサハ、ごめん……」
 生きている人間が、死者に謝る。きっとこれから先も、一生ないだろう。
 怒るか、憎まれるのか、それとも咎められるのか。
 当時の姿の十四歳、少し年上だった許嫁。徳の備わった当時の彼女、許嫁、カサハは取り乱さなかった。
「もしかしたら来るかなって、待ってた。望む形ではなかったけれど。この様子だとまだ生きているのね?」
「事情があって、な……」
「私のためじゃないくらいはわかっているよ?」
「期待させてすまない……」
 謝罪の言葉しか出て来ない。償いも、一緒にいることもできない。
 思考が鈍くなる。ここが生身の人間にとって悪影響を及ぼすせいか、それとも、ジェフリーが過去と向き合っているせいだろうか。精神が蝕まれている。
「私だってそこまで真面目に考えてはいなかった。だけど、ジェフ君は私を忘れないで、ちゃんと覚えていてくれたんだね」
 カサハが小さくなってしまった仲間の背中を見て、目を細めた。
「いっぱい友だち、できたんだね。真面目に学校に行ってなかったし、友だちなんて、いなかったくせに。積極的に人と交流して、行動に移すようになって、変わったね」
 昔話を交え、今の境遇を羨ましがっている。
 ジェフリーにとってうれしい指摘だ。だが、カサハの口から聞きたいのは違う。
「どうして、俺を責めないんだ?」
「責める必要なんてないからだよ。私が助けたあなたは、今をしっかりと生きている。それがわかってよかった。あなたは根が真面目だから、ずっと罪悪感を抱えて生きていると思っていたの」
 いっそ、罵ってくれれば諦めもついたのに。
 カサハはジェフリーを責めなかった。
「私ね、あなたを待たないで転生しようと思う。今度はジェフ君より、いい人を見つけるつもりなんだから」
 あのとき助けられなかった彼女は、こんなにも前向きだった。ジェフリーは生きて成長しているのに対し、カサハはなくなったときで時間が止まっている。ずっと見ていたと言わんばかりに優しい笑顔だった。その笑顔が、どんなに胸に痛いか。
「一緒にはなれなかったけれど、あなたと同じ時間を生きられてよかった」
 偽りのない、真っすぐな気持ちが感謝となってジェフリーへ向けられた。
「ありがとう……幸せになってね」
「カサハ、ありがとう」
「友だちを大切にしてね」
「あぁ……」
「ばいばい、ジェフ君……」
 カサハは軽く手を振り、ジェフリーを送り出した。
 ジェフリーは前に進めと思いっきり背中を押された気分だ。
 もっと話したかった。だが、これ以上はつらくなるばかりだ。そして『今』を忘れてしまうだろう。長居は感覚を狂わされる。魔界の恐ろしさをこの身をもって知った。
 カサハは自分から身を引いた。この意味をジェフリーは理解していた。
 戒めは晴らされた。ジェフリーは皆に追いつこうと走った。
「ばい、ばい……」
 ジェフリーの背中を見ながらカサハは堪えていた涙を零した。
「いいなぁ、ジェフ君の大切な人……」
 気丈に振る舞っていたが、本当はずっと待っていたのだ。カサハだってたくさん話したかったことがあった。
 待って、待ち続けて、どんなに焦がれたことか。
 死して再会とならば、一緒にいたいと告げたかった。
 カサハが転生すると言った理由は、この先を見届けるのがつらかったからだ。
 後悔、嫉妬、己の運命、彼の未来、それらがもたらした負の感情を押し殺して、感謝だけを伝えた。
 純粋に、ただ純粋に、好きだった人の幸せを祈りながら――。

 ミティアは走りながら違和感を覚えた。魔界に来てから感じる圧力と鈍い頭痛も増した。それよりも好きな人が自分から離れていく恐怖を胸に、もっと気分が悪い。
 サキは手を引きながら何かむきになっているようにも感じる。ジェフリーに気が行かないように遮っているのだろうか。ミティアはジェフリーを信じながら、不安を感じていた。
 わざとうしろを走っていたアイラが、圭白に質問をする。
「で、あの子はどうしたのさ?」
 圭白はミティアに聞こえない距離と確認をしてから応答した。
「あの一帯は十年ほど前の場所だと思います。多くを語らなくとも想像はできると思います」
「ジェフリーはそんなに女々しかないさ」
 もう少しで水鏡だというところで黒い影が走った。サキが慌てて足を止める。
「ホーリーブラスト!!」
 サキはミティアを庇うように杖を振りかざし、相殺を試みた。サキが放ったのは光の魔法だ。名前のように光が爆発する攻撃魔法であり、それなりの威力がある。黒い影が反れて止まった。闇の魔法と見て間違いない。
 目的地はすぐそこだというのに、そう簡単にはいかないようだ。攻撃魔法ということは、誰かが阻もうとしている。
「やべーじゃん、殺される!!」
 圭馬が詳細を話さず、サキのカバンの奥底に隠れた。
 爆発で立った煙の向こうに人影が三つ。やはり誰かに阻まれた。
 圭馬が早く隠れてしまったが、その考えに便乗するものがいた。圭白だ。
「あぁ……これは終わった……」
 圭白も珍しく弱気だ。怯えるようにアイラのカバンに潜り込んだ。
「えっ、ちょっと白ちゃん!?」
 アイラがカバンの中から圭白を引っ張り出そうとするも逃げてしまう。戸惑っているアイラが声をかけられた。
「ほほう、主はあなたですか?」
 気配が感じられなかった。アイラの右肩にトンと手が置かれる。
「はっ!?」
 アイラが振り返ると、銀の髪をした外はねの女性が人差し指を立てている。
「抵抗しないでいただきますよ。スペルロック!!」
 やられたという顔で、アイラが後退する。その間合いの隙に、その女性はサキの背後を取ろうとしているのが見えた。
「サキッ!!」
 アイラが双剣を引き抜く。すると眼前に大きな槍が割り込み、行動を阻まれた。
「おっと、大人しくしててもらおう」
 今度は赤紫色の跳ね毛の男性だ。鶯色の道着のような服が印象的だ。
 その男性のうしろに、銀色に赤メッシュの入った髪の女性が見えた。その人は死神のような大鎌を持っている。この武器は見るからに強そうだ。
 サキが狙われていると知り、ミティアが反応した。
「だめぇっ!!」
 剣を抜いて振りかざすも軽くあしらわれてしまった。突き飛ばされ、派手に転んだミティアを案じたサキが女性に捕まった。
「優秀な魔法使いは封じます。スペルロック!!」
 サキも魔法が制限されてしまった。まるっきり話すこともできなくなる、サイレンスよりは遥かにましだが、特技が封じられたのは痛い。このスペルロックという魔法は、相手の魔法をほぼ封じる役割を持っている。実は厄介なのが魔法を使えなくなるわけではないところだ。
 一般的に魔法使いは媒体と呼ばれる加護を受けたものを手にして魔法を施行する。それは体に負担をかけないため、自身の魔法力を高めるためとなることが多い。魔石は負担がなく、単純に魔力を増幅させるもの。
 スペルロックとは魔法を放つ際の媒体や魔石の効果がなくなる。つまり、魔法を放とうとすると貴重な体力が削られてしまう。これは魔法を使う者が一気にお荷物になる魔法だ。
 一部始終を目の前に、コーディはぽかんとしていた。相手にされなかったのもそうだが、あまりの手際のよさに驚いている。
「えっ、ちょっと先制って、まずくないこれ?」
「デスネ……」
 ローズも目の前で起きた一瞬の出来事に驚いていた。臨戦態勢になると不利になるのは必至だ。
 隠れているティアマラントと違い、ショコラは平然としている。
「のぉん、あと少しだと思ったのにねぇ」
 零れ落ちるように地面に降りて挨拶をした。
「お久しいですねぇ? カルーネさん、ノアールさん、ソロルさん」
 まだ誰が誰だかわからないが、ショコラは尻尾をパタパタとさせながら三人へ向かい合った。
 鶯色の道着を着た男性が皆を睨みつける。
「魔界に生きた人間が入り込むなどなってはならない。誰が、いいや、『どっち』がやったんだぁ、ゴルァ!?」
 どうでもいい情報かもしれないが、ドスの利いた声で華麗な巻き舌である。
「さぁ白状しろ、クソ弟子ども。主人をこの場で魂だけにしちまってもいいんだぞ」
 この声と巻き舌もそうだが、迫力がある。大槍の柄が地にドスリとめり込んだ。
「圭馬チャン、カルーネさんが激おこですよぉ?」
 この男性がカルーネという名らしい。ショコラの説得で、渋々カバンから圭馬が這い出た。隠れても無駄だと早くわかってほしい。
 ピリピリした緊張の空気の中、ジェフリーがやっと合流した。行く手を遮られているのは把握したが、今すぐ争う様子ではない。
 圭馬がサキの足元でビクビクしながら訴える。
「こ、これには深い事情があって……」
「掟を破ってまでしても、かね?」
 赤いメッシュの大鎌の女性が圭馬に圧をかけた。何気にこの人が一番強そうだ。
 圭馬は震え上がった。
「ま、ママまでひどいよぉ……ちょっとくらいいいじゃないか。来ただけなんだし、まだ何もしてないよ」
 言い方からすると、本当の母親ではない。世話になった母親か、面倒を見てもらった人か、そんなところだろう。
 アイラとサキの魔法を封じた女性も圭馬を責め立てる。
「小細工を考えても無駄ですよ。魔界で魔法なんていけませんね。本当に死にたいのですか?」
 ただ争うつもりで魔法を封じたのではない。サキとアイラが魔界で命を落とさないように配所もされていた。これが正しいようだ。
 生身の人間が死者の世界へ来るのだから、事情を知りたいだろう。
 圭馬は怯えながらも文句があるようだ。
「ソロルおばさんは白兄ちゃんと同じで、読心術が使えるじゃん。話さなくてもわかるでしょ!?」
 魔法を封じた女性はソロル、メッシュで大鎌の女性はノアールとなる。
 圭馬の言うことが正しいなら、ソロルは話さなくてもある程度は汲み取ってくれそうなものだ。
 ソロルは一同の顔を眺めながら頷いて行った。情報量が多いようだ。
 隠しても無駄、隠れても無駄。アイラはカバンを軽く叩いた。
「白ちゃんも顔をお出し。別に今すぐ狩られるわけじゃないだろう?」
 アイラに言われ、圭白は渋々抱っこされた。耳を下げて、圭馬のように怯えている。
「も、申し訳ございません……」
 カルーネとノアールが圭白をじっと見ているが、言葉はない。
 ソロルがミティアを長い間じっと見ている。あまりに長く見られているものだから、ミティアは気まずくなって腕を抱えた。そしてジェフリーのうしろに隠れた。だが、それでもソロルの視線はミティアを追っていた。
「こ、怖い……」
「大丈夫だ。きっとわかってくれる」
 保証はないが、今はミティアを励ますしかできない。ジェフリーはこちらの事情をわかってくれると信じていた。
 大鎌を持ったノアールと大槍を持ったカルーネ、それに魔法を封じる上に読心術を使うソロル。怖くないのが無理である。
 ソロルはやっと読み終えたようだが、疲労の色がうかがえる。
「なるほど。確かに魔界の掟は破りましたが、情状酌量の余地はありますね」
 一行が歩んできた道から、情報量が多いのは頷ける。何より、自覚がある。
 少なくとも、一言二言でまとめられる旅路ではなかった。
「お持ちの情報が個々で異なっていたため、整理に時間がかかりました。彼女は天空都市の民、地上では貴重な生き残りです。そして地上を混沌から救う祈り子、レスフィーナ様が己の力を分けた子どもです。さまざまな事情がありますが、確かにこの者が世界を救うかもしれません」
 場の空気が変わった。ただ、生身の人間がこの世界に足を踏み入れたことや、魂だけの存在に接触した件がまずいようだ。
 カルーネとノアールが、ティアマラントの兄弟を厳しく注意した。命は取らなかったが、厳罰はあるかもしれない。
 読心術を使うソロルだけ、未読の物語を手にしたように目が輝いている。
「もう、止めても遅いところまで来てしまいました。いかがなさいますか? ここで全員を閻魔様に差し出し、裁いていただいてもいいのですけれども……?」
 ソロルはまどろっこしい言い方をする。真面目に相手をすると疲れそうな人だ。いや、正確には人ではないのかもしれない。ロングスカートの中からは、犬のような尻尾が見え隠れしている。
 カルーネは鼻で笑う。完全に一行を馬鹿にしているようだ。
「人間はどうしようもなく強欲で争いを繰り返す。それなのに、この者たちは世界を変えるとでも言うのか? 馬鹿くさい……」
 きちんとした見た目とは裏腹に、どうしても乱暴な言葉が加わるようだ。睨みつけるその目はまるで獲物をじわりと追い詰める蛇のようだ。
 ノアールも深く頷いている。
「閻魔さんに持って行く案件ではあるみたいね。許されることではないけど、説得はしてみましょ。地上の混沌を解決、諸悪の根源となった種の研究所の排除。これが果たせるなら、ね?」
 条件はついたが、ノアールもある程度は目を瞑ってくれるらしい。
 皆が心配していたほど咎められなかったが、ソロルがそんな中で冗談を交える。
「我々と戦いたのでしたらお相手しますよ? 生身の人間に悪影響のこの場では、即死すると思いますが」
 冗談に反応したのはローズだった。
「わーお……裏ボスじゃないですかネ?」
 ゲームだったら、そんなポジションになるのかもしれない。実際、この場の者だけで腕試しに反応しようにも、あっという間に魔法は封じられたのだ。相手になるはずがない。
 忠告のみで問題がないのなら、さっさと進むべきだ。ジェフリーは一同を代表して交渉する。
「騒がせてすまない。ここを通してもらう。かまわないか?」
 魔界の番人である三人はお互いに目でサインをおくる。代表してカルーネがジェフリーに言う。
「今の俺たちは忙しいんでな。気が変わらないうちにさっさと行っちまえ。どうせ、目的のモンはねぇだろうけどな」
「ありがたい。もし、問題があるようなら、追って罰は受ける。今度、俺が来たときにでも問答無用に地獄にでも落としてくれ」
 あれだけ問題がある行為をしたというのに、ここで裁きは受けなかった。
 見逃してくれた、と、でも解釈すればいいのだろうか。ジェフリーが代表して詫びた。
 カルーネは鼻で笑い飛ばした。
「俺は魔界の番人だ。魂を選定するのはそこのオババ二人だから知らん」
 理由はそれだけではないのか、ジェフリーを睨みつける。
 目が合って、ジェフリーは身構えた。
「それに……」
「……?」
「お前のような気持ちの悪い存在は、さっさと魔界から出て行ってもらいたい」
 カルーネが意味深なことを言った。ジェフリーはただの小言と受け止めておいた。生身の人間を相手にするのは慣れず、調子が狂うのかもしれないと解釈した。
 ジェフリーとミティアを先頭に再び先へ進もうとする。
 圭馬が質問をする。
「ねぇ、先生。恵ちゃんを見なかった? 魔界への扉、開き方が下手で外に守護者が出てたんだけど?」
 恵子は外にもいなかったが、魔界でも見ていない。もうすぐ奥地だというのに、疑問を持った。
 カルーネは知らないようだが、ノアールが怪訝な表情を浮かべている。
「確かに。守護者がいないからあんたらがここまで来てんだろうけど、見てないねぇ」
「そうですか、妙ですね……」
 圭白も突っかかりを感じながらも別れた。
 武器を構え、戦いの中で答えを出せなどという男くさい展開ではなくて助かった。

 奥地に湖があった。これが水鏡なのだろうか。こんなに不安定で、長時間の滞在は具合が悪くなりそうな場所にも水が存在するようだ。
 湖の畔で誰か人が倒れている。見覚えがあり、圭馬が毛を逆立てる。
「恵ちゃん!!」
 見覚えがあった。ウサギの耳にエプロン姿、スカートにチェックのバンダナ。手には銀の鍵を握っている。
「恵子、どうしてこんな場所に?」
「誰か、さっきの誰でもいいから呼んで来て!!」
 圭白と圭馬が騒ぎ立てる。言われてサキは来た道を戻った。
 アイラは恵子に駆け寄り、体を起こす。
「何が起きたってんだい?」
 恵子には争ったと思われる痕跡がある。アイラは恵子に外傷があるのを確認した。
「学者さん、ちょいと診てもらっていいかい?」
 アイラはローズを呼びつけた。自己紹介は軽くしていた。ローズが学者であり、医者であると知っての判断だ。
 場所を代わってアイラが周辺を見渡す。
 瘴気が漂う以外には特に異常が見当たらない。この瘴気が山道の霧のように、視界を悪くする。
「おばさんもおかしいと思うか……」
 ジェフリーも異変を感じている。奥地に魂がない。人もいない。静かすぎる。
「嫌な予感がする……」
 圭白の言っていたこととは大きく異なる状態だ。ジェフリーはミティアの手を握った。少し震えている。何もない、誰も待つ者もいない。ここには倒れている恵子のみ。
 コーディは心配そうだ。
「うーん、ここに来たのは無駄だったかもしれない……?」
 何のために来たのかわからない。ただ、完全に無駄ではなかった。来たことで、得るものはあった。
 だが、ミティアを助けるために来たはずが、彼女には何もプラスにはなっていない。
 ジェフリーはなぜこのようなことが起きたのかを考え込んだ。どこかで情報を誤ったのかと思ったが、情報源はしっかりとしている。圭白が場所を示したが間違いはなさそうだし、何より恵子がここにいるのが不可解だ。
 恵子は怪我をしていた。自分たちの邪魔をする者の心当たりに行き着いた。

『ミティアを助ける手段はわたししか持っていない。選べる道は閉ざしました』

 やられた。たぶん読みはあっている。ミティアを助ける手段は後手に回った。ジェフリーが思い浮かべた人物はルッシェナだ。
「そうか。だからあいつは……こんな……」
 ジェフリーは拳を震わせ、怒りを覚えた。このままミティアを追い詰めるつもりなら、手を打たないといけない。

 サキが連れ帰ったのはソロルだった。立派な武器を持つ他の二人より、もしかしたら適任かもしれない。
 到着してすぐに異変を察知したようだ。
「硝子の魂たちがいない……」
 ソロルは恵子に視線をおくる。圭白も圭馬も恵子を心配しているが、彼女が鍵を持っていたのも気がかりだった。
「あなたたちが探しているのは、天空の民の魂ですよね。残念ですが、ここはその方の魂をはじめとする『救われない魂』があるべき場所でした。それこそ、人為的に作られ、負担をかけられて削られた魂も……」
 聞いてミティアが腕を抱え込みながら膝を着いて座り込んだ。押し寄せる絶望に耐えられない。待っているのは、死だ。
 ソロルは得意の読心術で情報を整理し、具体的に何が起こっているのかを告げた。
「なるほど。魔界が荒れているのはその者のせいでしたか。諸悪の根源がそうとなれば、我々が血眼になっても犯人が見つかるはずがありません」
 魔界に異変が起きているのは明らかだ。だがこの原因を突き止めようとしているとは知らなかった。必要以上に騒がないのは、部外者に知られたくないのか。もしくは、魔界をこれ以上混乱させないようにしているのかもしれない。
 一行が魔界に侵入した際に、遮られた本当の理由がようやく掴めた。
「あなた方の敵はむごいことをしますね。何か手助けにでもなればと思いますが、我々は生ある者たちの世界に干渉できないのです。ですが、あなた方のおかげで魔界の事態に収拾はつきそうではございます。地上の混沌はますます放置はできませんね」
 ソロルはミティアに視線をおくる。気になって仕方がないようだ。
 明日を生きたい者が死に、死にたい者が明日を生きる。こんなに、命の重さを感じただろうか。
 張りつめた空気に堪らなくなり、コーディはジェフリーに質問をした。
「ジェフリーお兄ちゃん、どうするつもりなの?」
「まだ、手はあるはずだ。絶対に諦めない……」
 ミティアへ在るべき魂との遭遇が叶わなかった。
 コーディはどうしてそこまでするのか疑問に思っていた。もちろん、ミティアに対しこんなにむごいやり方を許すつもりはない。その気持ちは誰もが一緒だろう。
 ジェフリーはかぶりを振って切り替える。ローズに声をかけた。
「その子は大丈夫なのか?」
「たぶん、薬で眠らされています。でも、意識はあるので目が覚めるかなと……」
 さすがのローズも、変な口癖を出す余裕がない。恵子は、薬で眠らされているという点が気になった。
 状況を読み取ったソロルが、皆の代表と判断したジェフリーに告げる。
「わたくしはこの件も報告しに参ります。お帰りの際は、正門をお使いください。ここより瘴気は弱く、道が明るいのですぐにわかると思います」
 解決の方法はないらしい。ソロルは状況の確認だけしてさっさと去って行った。
 きっと忙しいのだろう。そもそも忙しくしてしまったのは、自分たちのせいかもしれないが。
 圭馬が驚きの声を上げる。
「うわっ、恵ちゃん!!」
 恵子は人の姿からウサギの姿になってしまった。チェックのバンダナをしている可愛らしいウサギだ。
「マズいって、早くここを出よう」
 恵子は弱っているようだ。ローズが拾い上げる。
 ジェフリーは精神的にも参っていた。瘴気のせいだと考えるのが普通だが、実入りのないこの状況が何よりもやるせない。
「戻って動き方を考えよう。兄貴たちをほうってはおけないし、俺も気分が悪い」
 ぼうっとしているミティアの手を引いた。ジェフリーにもつらい。
 今は解決の糸口が見つからない。焦る気持ちを抑え込む。

 どうしたら、ミティアは普通の生活が送れるようになるのか。
 何も気にせずに、旅を楽しめるのだろうか。 
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