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第502話 冥府の王(53)
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「ちょっと早いけど」
そう言って浴室から現れた母は、これまで見たこともないような妖艶な姿をしていた。
肌が透けて見えるごく薄い肌襦袢をしどけなく豊満な躰に巻き付け、唇には濃い紅をさしている。
僕はといえば、香澄が寝息を立て始めたのを確認して、子ども部屋から出てきたところだった。
先にシャワーを済ませ、着脱のしやすいパジャマに着替えてあるから、こちらも準備完了である。
「奥へ行きましょ。香澄が起きると面倒だから」
僕の手を取り、母が廊下に出た。
庭に面した側は雨戸がしまっているので、廊下はほぼ闇に近い。
それでも母は、ひるむことなくすり足で一直線に進んでいく。
僕の頼りは、母の熱く柔らかい手のひらの感触と、その体から漂ってくる麝香のような香りだけ。
「奥って?」
少し怖くなって、僕は訊いた。
典型的な古い農家である我が家は、平屋ながら無駄にだだっ広い。
使われていない部屋。
ふすまが板で打ちつけてあって、開かないようになっている部屋。
この家に生まれて12年にもなるのに、信じられないことに、入ったことのない部屋さえある始末だった。
「奥にはね、おじいちゃんすら知らない部屋があるの。私だけの秘密のお部屋」
滑るように歩きながら、母はいくつもの角を曲がり、がらんとした和室を横切っていく。
母の白い手がふすまを開くたびに、目の前に未知の空間が現れる。
まるでおとぎ話の中の迷宮にでも迷い込んだ気分だった。
「ここよ」
たどり着いたのは、黒い和紙を貼られた2枚のふすまの前である。
ふすまの表面には、黒の地に赤い筆で何か絵のようなものが描かれている。
その図柄が頭の中で意味を取り結ぶなり、僕は小さく悲鳴を上げて、母の腕にしがみついた。
群がる鬼たち。
その輪の中で、裸の人間が何人も引き裂かれている。
鬼たちが人間を八つ裂きにする様子を楽しそう眺めているのは、やせ細り、骸骨のような手足をしているくせに、ぽっこりと腹だけ突き出た餓鬼たちである。
「教えてくれたのは、死んだひいおばあちゃん。ひいおばあちゃんはね、今でいう不倫に溺れて、怒ったおじいちゃんに家を追い出されて、山の中でのたれ死にしたのだけれど、家を出る前にね、私にだけ、そっと教えてくれたのよ。この家の結界の破り方と、この部屋の意味を」
「ひいおばあちゃん?」
かあさんの、おばあちゃんということか。
当然、会ったことはない。
でも、暗い話だということは理解できた。
「こうなるような予感はしてたのよね。源蔵さんが殺されたあの時から」
ふすまに手をかけて、母が自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「今になってわかるの。あの悪魔は、過ちを犯した私たちを罰するために来たんじゃなくて、私とおまえがこうなるように仕向けるために、彼を殺したんじゃないかって」
母の言うことは、さっぱりわけがわからなかった。
ハンザキのターゲットは、刻印の刻まれた香澄ではなかったのか?
祖父はその香澄の身代わりになって、死んだのではなかったのか?
混乱する僕をよそに、母がふすまを開いた。
漆黒の闇が、質量をもつ生き物のようにねっとりとあふれ出してきて、僕と母を押し包んだ。
「江戸時代まではね、この家の花嫁は、ここで初夜を迎えたんだって」
闇の底で、艶めかしく母が笑った。
「そして、今夜の花嫁は、この私。だいぶ、歳取ってるけどね」
そう言って浴室から現れた母は、これまで見たこともないような妖艶な姿をしていた。
肌が透けて見えるごく薄い肌襦袢をしどけなく豊満な躰に巻き付け、唇には濃い紅をさしている。
僕はといえば、香澄が寝息を立て始めたのを確認して、子ども部屋から出てきたところだった。
先にシャワーを済ませ、着脱のしやすいパジャマに着替えてあるから、こちらも準備完了である。
「奥へ行きましょ。香澄が起きると面倒だから」
僕の手を取り、母が廊下に出た。
庭に面した側は雨戸がしまっているので、廊下はほぼ闇に近い。
それでも母は、ひるむことなくすり足で一直線に進んでいく。
僕の頼りは、母の熱く柔らかい手のひらの感触と、その体から漂ってくる麝香のような香りだけ。
「奥って?」
少し怖くなって、僕は訊いた。
典型的な古い農家である我が家は、平屋ながら無駄にだだっ広い。
使われていない部屋。
ふすまが板で打ちつけてあって、開かないようになっている部屋。
この家に生まれて12年にもなるのに、信じられないことに、入ったことのない部屋さえある始末だった。
「奥にはね、おじいちゃんすら知らない部屋があるの。私だけの秘密のお部屋」
滑るように歩きながら、母はいくつもの角を曲がり、がらんとした和室を横切っていく。
母の白い手がふすまを開くたびに、目の前に未知の空間が現れる。
まるでおとぎ話の中の迷宮にでも迷い込んだ気分だった。
「ここよ」
たどり着いたのは、黒い和紙を貼られた2枚のふすまの前である。
ふすまの表面には、黒の地に赤い筆で何か絵のようなものが描かれている。
その図柄が頭の中で意味を取り結ぶなり、僕は小さく悲鳴を上げて、母の腕にしがみついた。
群がる鬼たち。
その輪の中で、裸の人間が何人も引き裂かれている。
鬼たちが人間を八つ裂きにする様子を楽しそう眺めているのは、やせ細り、骸骨のような手足をしているくせに、ぽっこりと腹だけ突き出た餓鬼たちである。
「教えてくれたのは、死んだひいおばあちゃん。ひいおばあちゃんはね、今でいう不倫に溺れて、怒ったおじいちゃんに家を追い出されて、山の中でのたれ死にしたのだけれど、家を出る前にね、私にだけ、そっと教えてくれたのよ。この家の結界の破り方と、この部屋の意味を」
「ひいおばあちゃん?」
かあさんの、おばあちゃんということか。
当然、会ったことはない。
でも、暗い話だということは理解できた。
「こうなるような予感はしてたのよね。源蔵さんが殺されたあの時から」
ふすまに手をかけて、母が自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「今になってわかるの。あの悪魔は、過ちを犯した私たちを罰するために来たんじゃなくて、私とおまえがこうなるように仕向けるために、彼を殺したんじゃないかって」
母の言うことは、さっぱりわけがわからなかった。
ハンザキのターゲットは、刻印の刻まれた香澄ではなかったのか?
祖父はその香澄の身代わりになって、死んだのではなかったのか?
混乱する僕をよそに、母がふすまを開いた。
漆黒の闇が、質量をもつ生き物のようにねっとりとあふれ出してきて、僕と母を押し包んだ。
「江戸時代まではね、この家の花嫁は、ここで初夜を迎えたんだって」
闇の底で、艶めかしく母が笑った。
「そして、今夜の花嫁は、この私。だいぶ、歳取ってるけどね」
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