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#2 地獄極楽寺

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 荒涼とした三条河原を見下ろす丘の上に、鬱蒼たる樹木に囲まれ、その廃寺は建っていた。
 知る人ぞ知る、その名を地獄極楽寺という。
 百段以上ある苔むした石の階を登り、猫の額ほどの境内を突っ切ると、正面が本堂だ。
 濡れ縁に飛び移り、雨戸を開けると、夜叉姫は身体を斜めにして中に滑り込んだ。
 蝋燭の明かりに浮かび上がる、壁一面に描かれた不気味な曼陀羅図。
 その前にずらりと並ぶ奇怪な仏像群。
 それらを背にして、僧形の老人が結跏趺坐している。
 老人の右手には、作務衣を身にまとった若者がだらしなく寝そべり、左手には蓑をまとった撫佐が座っていた。
「姫か。遅かったな」
 ちらりと目線を上げ、若者が言った。
「その様子じゃ、また坊主だろう」
「余計なお世話じゃ。犬のくせに」
 釣り竿とびくを投げ出し、夜叉姫は若者から距離を置いたところに胡坐をかいた。
「相変わらず威勢だけはいいな。どうだ、もそっと近こう寄れ。俺の隣が空いておる」
「おしろいの臭いは嫌いじゃ。商売女の臭いがぷんぷんする」
「子どもだな、姫は。せっかくの熟れた身体が台無しだ」
 夜叉姫のむき出しの太腿を見て、若者がにたりと笑う。
 どことなく薄汚れてはいるが、よく見ると、なかなかに苦み走ったいい男である。
「女体に貴賤はない。商売女のどこが悪い」
 犬丸の挑発に、夜叉姫ははらわたの煮えくり返る思いだった。
 夜空にかかる月が肥え始めると、犬丸は必ず好色になる。
 ここは無視するに限る。
 今優先すべきなのは、仕事なのだ。
「みんなを集めたってことは、仕事なんだろ? 梟和尚」
 詰め寄る夜叉姫の声に、中央に座った老人がやおら目を開いた。
 その名の通り、大きなどんぐりまなこを半眼にしたまま、ゆっくりとまぶたをしばたたく。
「そうじゃ。だが、受けるかどうかは、おぬしらで決めるがいい」
 和尚が座ったまま身体をずらすと、その陰から水をたたえた曲げわっぱが現れた。
「どんな仕事だ。依頼人は誰じゃ」
「そう焦るでない。撫佐、準備を」
「おう」
 和尚の命に、撫佐がのっそりと立ち上がり、雨戸をわずかに開ける。
 と、差し込む西日が和尚の前の桶の水面に反射し、背後の曼陀羅図にぼんやりと像を映し出した。
「昨晩の、丑三つ時の映像じゃ」
 しわがれた声で、和尚が注釈を加えた。
 聞き慣れぬ映像という言葉が、曼陀羅に映った”動く絵”を指すということぐらい、夜叉姫にもわかっている。
 それにしても、不思議な術だった。
 依頼人は、境内の”聞かずの井戸”に向かって、丑三つ時に願をかける。
 そうすると、井戸の水がその時の画像を記録し、和尚の望む時に、このようにして曼陀羅図を銀幕代わりに再生されるのである。
 梟和尚が、伊賀の忍者衆の数少ない生き残りとうわさされるゆえんだった。
 曼陀羅図には、星空を背景にして、丸い影が大写しになっている。
 顏の輪郭からして、年端も行かない女児のようだ。
「依頼主は、餓鬼なのか?」
 犬丸が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「こいつ、金はあるんだろうな?」
「静かにせい」
 和尚が制止すると同時に、画像の少女がしゃべり始めた。
「仕留屋さま、お願いです。太助の仇を討ってください」
 どうやら泣いているらしく、落ちた涙で水面、すなわち画面が揺れた。
「私は、三軒長屋のさちと申します。太助を殺したのは、胸に月の輪の模様のある黒犬です」
「黒犬だと?」
 犬丸が不快そうに顔をしかめ、半身を起こした。
「だったら、殺された太助ってのは…?」
 その疑問に答えるように、画像の中の少女が言った。
「太助は、我が家の家族だった、大切な柴犬です。その太助の命を、あの悪魔のような犬が…」
「え?」
 夜叉姫は絶句した。
 この子は、うちらに飼い犬の仇を取れと、そう言っているらしい。
 よくやくそのことに気づいたのである。

 


 
 
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