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#1 夜叉姫は腹が減る
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文禄4年の秋は暑かった。
9月に入っても、いっこうに暑気は衰えようとしなかった。
まるで、先月燃えた聚楽第の炎が、目に見えぬ熱気と化して、いまだ京の空気の中に潜んでいるかのようだった。
暑い。
夜叉姫は手の甲で額に流れる汗をぬぐった。
ここは鴨川の河原。
河原とはいえ、あの忌まわしい三条河原からはかなり離れた。はるか上流である。
目の前をきらきら日差しを跳ね返しながら、清冽な水が流れていく。
夜叉姫は、年の頃16、7ばかりの、鋭い眼をした娘である。
肩のあたりまで無造作に伸ばした髪に包まれた顔はやや小ぶりで、どことなく野生の猫を思わせる。
黒地に白の文様の入った小袖が、痩せている割に妙に肉感的な肢体を包んでいる。
丈の短い裾からは、健康的に日焼けした脚がむき出しになっているのだが、いくら暑いからといって、その足の先を水に浸けるわけにはいかなかった。
なぜなら、彼女は釣りの最中だからである。
「はよう釣らぬか」
頭の後ろから声がした。
「わしは腹が減って死にそうじゃ」
「うるさい」
夜叉姫は苛立たしげにこうべを振った。
「そんなにせっつかれては、釣れる魚も釣れはしない」
「そうは言うが、おぬしがここに腰を落ちつけてから、どれほど時が流れたと思うてか」
「余計なお世話だ。だいたい姉者は、昼飯に赤子の頭ほどもある握り飯を食ったばかりじゃろ?」
「それはそれ。じきに夕刻だということを忘れるでない」
会話は続くが、河原には夜叉姫ひとり、ぽつねんと石に腰かけているだけである。
そこに、バサッと羽ばたきのような音とともに、蓑を背負い、頭に笠をがぶった男が降り立った。
「なんだ、撫佐。真っ昼間からおどかすな」
あからさまに怒りを眉間に刻んで、夜叉姫が振り向いた。
「おまえのせいで鮎が逃げた。どうしてくれる?」
「和尚が呼んでる」
ぼそぼそと低い声で、蓑の男がしゃべった。
深くかぶった笠のせいで、顏は見えない。
ただ、中肉中背のみすぼらしいなりをした男とわかるだけである。
「梟和尚が?」
夜叉姫の声が、わずかに弾んだようだった。
「てことは、久しぶりに仕事だな?」
「さあ」
撫佐と呼ばれた男が、相変わらずはっきりしない口調で答えた。
「犬丸は戻ってるのか?」
「声はかけておいたが」
「どうせ遊郭に入り浸りってとこじゃろう」
「まあ、そんなところだ」
「んもう。やつときたらほんに盛りのついた犬じゃな」
夜叉姫の声に悔しげな響きが混じった。
「なんだ。妬いておるのか」
それを耳ざとく聞きつけて、謎の声が口をはさみ、くっくと笑う。
「姉者は黙っておれ。とっとと失せろ」
「どうする? 送るか?」
撫佐が両手を広げるような仕草をして見せたが、夜叉姫はむき出しの太腿を手のひらで叩いて言った。
「いや。この脚でひとっ走りするさ」
「夜叉は高い所が怖いのじゃ」
「これ。失せろと言ったろうが!」
「ならば、俺は先に行く」
姉妹喧嘩に愛想を尽かしたのか、そう言い置いて、羽音とともに姿を消す撫佐。
「あーあ、残念じゃ。あやつに乗れば、これ以上、腹を空かせることもないだろうに」
”姉者”が心底残念そうな声を出す。
「仕事で金が入れば、いくらでも食いたいものを食わせてやる。だから姉者、頼むから黙っていてくれぬか」
後頭部を両手で押さえて謎の声を封じ込めると、夜叉姫は華奢な肩で大きくため息をついた。
9月に入っても、いっこうに暑気は衰えようとしなかった。
まるで、先月燃えた聚楽第の炎が、目に見えぬ熱気と化して、いまだ京の空気の中に潜んでいるかのようだった。
暑い。
夜叉姫は手の甲で額に流れる汗をぬぐった。
ここは鴨川の河原。
河原とはいえ、あの忌まわしい三条河原からはかなり離れた。はるか上流である。
目の前をきらきら日差しを跳ね返しながら、清冽な水が流れていく。
夜叉姫は、年の頃16、7ばかりの、鋭い眼をした娘である。
肩のあたりまで無造作に伸ばした髪に包まれた顔はやや小ぶりで、どことなく野生の猫を思わせる。
黒地に白の文様の入った小袖が、痩せている割に妙に肉感的な肢体を包んでいる。
丈の短い裾からは、健康的に日焼けした脚がむき出しになっているのだが、いくら暑いからといって、その足の先を水に浸けるわけにはいかなかった。
なぜなら、彼女は釣りの最中だからである。
「はよう釣らぬか」
頭の後ろから声がした。
「わしは腹が減って死にそうじゃ」
「うるさい」
夜叉姫は苛立たしげにこうべを振った。
「そんなにせっつかれては、釣れる魚も釣れはしない」
「そうは言うが、おぬしがここに腰を落ちつけてから、どれほど時が流れたと思うてか」
「余計なお世話だ。だいたい姉者は、昼飯に赤子の頭ほどもある握り飯を食ったばかりじゃろ?」
「それはそれ。じきに夕刻だということを忘れるでない」
会話は続くが、河原には夜叉姫ひとり、ぽつねんと石に腰かけているだけである。
そこに、バサッと羽ばたきのような音とともに、蓑を背負い、頭に笠をがぶった男が降り立った。
「なんだ、撫佐。真っ昼間からおどかすな」
あからさまに怒りを眉間に刻んで、夜叉姫が振り向いた。
「おまえのせいで鮎が逃げた。どうしてくれる?」
「和尚が呼んでる」
ぼそぼそと低い声で、蓑の男がしゃべった。
深くかぶった笠のせいで、顏は見えない。
ただ、中肉中背のみすぼらしいなりをした男とわかるだけである。
「梟和尚が?」
夜叉姫の声が、わずかに弾んだようだった。
「てことは、久しぶりに仕事だな?」
「さあ」
撫佐と呼ばれた男が、相変わらずはっきりしない口調で答えた。
「犬丸は戻ってるのか?」
「声はかけておいたが」
「どうせ遊郭に入り浸りってとこじゃろう」
「まあ、そんなところだ」
「んもう。やつときたらほんに盛りのついた犬じゃな」
夜叉姫の声に悔しげな響きが混じった。
「なんだ。妬いておるのか」
それを耳ざとく聞きつけて、謎の声が口をはさみ、くっくと笑う。
「姉者は黙っておれ。とっとと失せろ」
「どうする? 送るか?」
撫佐が両手を広げるような仕草をして見せたが、夜叉姫はむき出しの太腿を手のひらで叩いて言った。
「いや。この脚でひとっ走りするさ」
「夜叉は高い所が怖いのじゃ」
「これ。失せろと言ったろうが!」
「ならば、俺は先に行く」
姉妹喧嘩に愛想を尽かしたのか、そう言い置いて、羽音とともに姿を消す撫佐。
「あーあ、残念じゃ。あやつに乗れば、これ以上、腹を空かせることもないだろうに」
”姉者”が心底残念そうな声を出す。
「仕事で金が入れば、いくらでも食いたいものを食わせてやる。だから姉者、頼むから黙っていてくれぬか」
後頭部を両手で押さえて謎の声を封じ込めると、夜叉姫は華奢な肩で大きくため息をついた。
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