地獄極楽仕留屋稼業 ~聚楽第異聞~

戸影絵麻

文字の大きさ
1 / 36

#1 夜叉姫は腹が減る

しおりを挟む
 文禄4年の秋は暑かった。
 9月に入っても、いっこうに暑気は衰えようとしなかった。
 まるで、先月燃えた聚楽第の炎が、目に見えぬ熱気と化して、いまだ京の空気の中に潜んでいるかのようだった。
 
 暑い。
 夜叉姫は手の甲で額に流れる汗をぬぐった。
 ここは鴨川の河原。
 河原とはいえ、あの忌まわしい三条河原からはかなり離れた。はるか上流である。
 目の前をきらきら日差しを跳ね返しながら、清冽な水が流れていく。
 夜叉姫は、年の頃16、7ばかりの、鋭い眼をした娘である。
 肩のあたりまで無造作に伸ばした髪に包まれた顔はやや小ぶりで、どことなく野生の猫を思わせる。
 黒地に白の文様の入った小袖が、痩せている割に妙に肉感的な肢体を包んでいる。
 丈の短い裾からは、健康的に日焼けした脚がむき出しになっているのだが、いくら暑いからといって、その足の先を水に浸けるわけにはいかなかった。
 なぜなら、彼女は釣りの最中だからである。
「はよう釣らぬか」
 頭の後ろから声がした。
「わしは腹が減って死にそうじゃ」
「うるさい」
 夜叉姫は苛立たしげにこうべを振った。
「そんなにせっつかれては、釣れる魚も釣れはしない」
「そうは言うが、おぬしがここに腰を落ちつけてから、どれほど時が流れたと思うてか」
「余計なお世話だ。だいたい姉者は、昼飯に赤子の頭ほどもある握り飯を食ったばかりじゃろ?」
「それはそれ。じきに夕刻だということを忘れるでない」
 会話は続くが、河原には夜叉姫ひとり、ぽつねんと石に腰かけているだけである。
 そこに、バサッと羽ばたきのような音とともに、蓑を背負い、頭に笠をがぶった男が降り立った。
「なんだ、撫佐。真っ昼間からおどかすな」
 あからさまに怒りを眉間に刻んで、夜叉姫が振り向いた。
「おまえのせいで鮎が逃げた。どうしてくれる?」
「和尚が呼んでる」
 ぼそぼそと低い声で、蓑の男がしゃべった。
 深くかぶった笠のせいで、顏は見えない。
 ただ、中肉中背のみすぼらしいなりをした男とわかるだけである。
「梟和尚が?」
 夜叉姫の声が、わずかに弾んだようだった。
「てことは、久しぶりに仕事だな?」
「さあ」
 撫佐と呼ばれた男が、相変わらずはっきりしない口調で答えた。
「犬丸は戻ってるのか?」
「声はかけておいたが」
「どうせ遊郭に入り浸りってとこじゃろう」
「まあ、そんなところだ」
「んもう。やつときたらほんに盛りのついた犬じゃな」
 夜叉姫の声に悔しげな響きが混じった。
「なんだ。妬いておるのか」
 それを耳ざとく聞きつけて、謎の声が口をはさみ、くっくと笑う。
「姉者は黙っておれ。とっとと失せろ」
「どうする? 送るか?」
 撫佐が両手を広げるような仕草をして見せたが、夜叉姫はむき出しの太腿を手のひらで叩いて言った。
「いや。この脚でひとっ走りするさ」
「夜叉は高い所が怖いのじゃ」
「これ。失せろと言ったろうが!」
「ならば、俺は先に行く」
 姉妹喧嘩に愛想を尽かしたのか、そう言い置いて、羽音とともに姿を消す撫佐。
「あーあ、残念じゃ。あやつに乗れば、これ以上、腹を空かせることもないだろうに」
 ”姉者”が心底残念そうな声を出す。
「仕事で金が入れば、いくらでも食いたいものを食わせてやる。だから姉者、頼むから黙っていてくれぬか」
 後頭部を両手で押さえて謎の声を封じ込めると、夜叉姫は華奢な肩で大きくため息をついた。






 

 
 
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...