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第4章 百合と外道と疾走するウロボロス
#14 杏里、高所に登る
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梯子でなくて助かった。
うねうねと続く非常階段を、手すりにつかまって登りながら、杏里はそう何度も思った。
鉄骨の枠組みしかない建築途上のマンションはとにかく風通しが良すぎて、油断するとともすれば風に煽られて吹き飛ばされそうになる。
コートの裾がひっきりなしにばたつき、スカートの中に寒風が吹きこんできた。
杏里のきょうの服装は、聞き込み用のスーツとタイトスカートだ。
タイとスカートだから風でめくれるということはなかったが、はるか下方から蝸牛のごとき速度で登ってくる韮崎が見上げれば、下着が見えてしまうかもしれないと少し不安になった。
そんなわけで、ようやく10階まで登り切った時、杏里は汗びっしょりだった。
汗といっても暑いからではなく、当然のことながら100%冷や汗である。
非常階段の登り口から出て鉄柱にしがみつくと、足元の隙間から豆粒みたいな作業員たちの姿が見えた。
韮崎と来たらまだ5階あたりで手すりにしがみついている。
どうやら高所恐怖症というのは本当らしい。
視線を前方に転じると、こちらに背を向けて立っている零の後ろ姿が見えた。
風がただでさえ短い着物の裾をめくりあげるため、下半身にフィットしたショートパンツと、カモシカのそれのように細くしなやかな脚がすっかり露わになってしまっている。
零ったら、あんな格好で寒くないのかな。
ふと思ったが、零が無性の暑がりだったことを思い出して、幾分ほっとした。
冬でも下着姿で過ごすことも多い零には、このくらいの気温がちょうどいいのかもしれない。
零の立つ鉄骨の延長線上、もう片方の端に目をやると、まず赤いランドセルが眼に入ってきた。
黒いセーラー服姿の女子小学生が、なぜか背中ではなく、胸の側にランドセルをつけているせいだった。
チンドン屋の太鼓みたいな感じで、ランドセルを両腕で抱えこんでいるのである。
小学生にしては背の高い子どもだった。
おそらく身長155㎝の杏里と同じくらいはあるだろう。
こちらに向けた顔は、杏里にはもうお馴染みのものだった。
つるりとした卵のような顔面には眼も鼻も口なく、ただ水面に墨を流したような模様だけが、その表面でゆっくりと渦巻いている。
予想通りだった。
だから驚きはなかったが、気味悪さは相変わらずだ。
「零…」
迷った末、声をかけた。
風にかき消されそうな小さな声だったが、五感の鋭敏な零の耳には十分届いたようだ。
「杏里か」
背中を向けたまま、零が言った。
零は両手を広げ、着物の袂を風にはためかせている。
着物の文様は、すでにすべて瞼を開いた”眼”に変わっており、外道を金縛りにしているようだ。
「遅かったよ。地下鉄四番ホームにある多機能トイレを調べてみるがいい。五番目の被害者が死んでいる。妊娠8ヶ月の女子高生だ」
「え」
杏里は固まった。
背筋を悪寒が、胸の底を絶望が上下した。
米倉加奈は、はずれだったのだ。
5番目の殺人は、もう行われてしまった後なのだ…。
その証拠は、外道のランドセルから滴る血のしずくだった。
ランドセル自体が赤いので、よく見ないとわからない。
が、その底部から滲み出し、風に飛ばされていく赤い液体は、まさしく血液に違いない。
「ふう、死ぬかと思ったぜ」
背後で韮崎のしわがれた声がした。
ようやく登り切ったということなのだろう。
声にそこはかとなき満足感が込められている。
その韮崎に、振り向きもせず、杏里は言った。
「ニラさん、手遅れでしたよ。5番目の被害者、出ちゃいました」
「なんだと?」
韮崎が呻いた。
その呻きが合図になったかのように、突然外道が動いた。
金縛りを断ち切るようにランドセルの蓋をはね上げると、中に両手を突っ込んで何かを取り出したのだ。
「ひ」
それをひと目見るなり、杏里は小さく悲鳴を上げた。
ぽとぽとと血の滴るそれは、まぎれもなくまだ未成熟の、人間の胎児だったからである。
うねうねと続く非常階段を、手すりにつかまって登りながら、杏里はそう何度も思った。
鉄骨の枠組みしかない建築途上のマンションはとにかく風通しが良すぎて、油断するとともすれば風に煽られて吹き飛ばされそうになる。
コートの裾がひっきりなしにばたつき、スカートの中に寒風が吹きこんできた。
杏里のきょうの服装は、聞き込み用のスーツとタイトスカートだ。
タイとスカートだから風でめくれるということはなかったが、はるか下方から蝸牛のごとき速度で登ってくる韮崎が見上げれば、下着が見えてしまうかもしれないと少し不安になった。
そんなわけで、ようやく10階まで登り切った時、杏里は汗びっしょりだった。
汗といっても暑いからではなく、当然のことながら100%冷や汗である。
非常階段の登り口から出て鉄柱にしがみつくと、足元の隙間から豆粒みたいな作業員たちの姿が見えた。
韮崎と来たらまだ5階あたりで手すりにしがみついている。
どうやら高所恐怖症というのは本当らしい。
視線を前方に転じると、こちらに背を向けて立っている零の後ろ姿が見えた。
風がただでさえ短い着物の裾をめくりあげるため、下半身にフィットしたショートパンツと、カモシカのそれのように細くしなやかな脚がすっかり露わになってしまっている。
零ったら、あんな格好で寒くないのかな。
ふと思ったが、零が無性の暑がりだったことを思い出して、幾分ほっとした。
冬でも下着姿で過ごすことも多い零には、このくらいの気温がちょうどいいのかもしれない。
零の立つ鉄骨の延長線上、もう片方の端に目をやると、まず赤いランドセルが眼に入ってきた。
黒いセーラー服姿の女子小学生が、なぜか背中ではなく、胸の側にランドセルをつけているせいだった。
チンドン屋の太鼓みたいな感じで、ランドセルを両腕で抱えこんでいるのである。
小学生にしては背の高い子どもだった。
おそらく身長155㎝の杏里と同じくらいはあるだろう。
こちらに向けた顔は、杏里にはもうお馴染みのものだった。
つるりとした卵のような顔面には眼も鼻も口なく、ただ水面に墨を流したような模様だけが、その表面でゆっくりと渦巻いている。
予想通りだった。
だから驚きはなかったが、気味悪さは相変わらずだ。
「零…」
迷った末、声をかけた。
風にかき消されそうな小さな声だったが、五感の鋭敏な零の耳には十分届いたようだ。
「杏里か」
背中を向けたまま、零が言った。
零は両手を広げ、着物の袂を風にはためかせている。
着物の文様は、すでにすべて瞼を開いた”眼”に変わっており、外道を金縛りにしているようだ。
「遅かったよ。地下鉄四番ホームにある多機能トイレを調べてみるがいい。五番目の被害者が死んでいる。妊娠8ヶ月の女子高生だ」
「え」
杏里は固まった。
背筋を悪寒が、胸の底を絶望が上下した。
米倉加奈は、はずれだったのだ。
5番目の殺人は、もう行われてしまった後なのだ…。
その証拠は、外道のランドセルから滴る血のしずくだった。
ランドセル自体が赤いので、よく見ないとわからない。
が、その底部から滲み出し、風に飛ばされていく赤い液体は、まさしく血液に違いない。
「ふう、死ぬかと思ったぜ」
背後で韮崎のしわがれた声がした。
ようやく登り切ったということなのだろう。
声にそこはかとなき満足感が込められている。
その韮崎に、振り向きもせず、杏里は言った。
「ニラさん、手遅れでしたよ。5番目の被害者、出ちゃいました」
「なんだと?」
韮崎が呻いた。
その呻きが合図になったかのように、突然外道が動いた。
金縛りを断ち切るようにランドセルの蓋をはね上げると、中に両手を突っ込んで何かを取り出したのだ。
「ひ」
それをひと目見るなり、杏里は小さく悲鳴を上げた。
ぽとぽとと血の滴るそれは、まぎれもなくまだ未成熟の、人間の胎児だったからである。
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