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第4章 百合と外道と疾走するウロボロス
#16 杏里、悔し涙を流す
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警察官の世界は、巡査から警視総監まで、9つの階級に分かれている。
照和署でいえば、韮崎が警部補、三上がその下の巡査部長という具合である。
だが、そうした顔級とは別に、巡査としての経験を積んだ優秀な警察官には、「階級的呼称」とでもいうべき地位、「巡査長」が与えられることがある。
ここ照和署では、今、マジックミラーの向こうで零と向かい合っている山田刑事が、ちょうどその巡査長にあたっていた。
山田は寿司屋の大将といった面持ちの、韮崎と同年配の古株刑事である。
昇進試験が嫌いなので出世にこそ縁がないものの、愛知県警の刑事の中で「落としの山さん」といえば、知らぬ者はない。
まるでテレビの刑事ドラマの脇役そのもののニックネームではあるが、人情味あふれる山田巡査部長のキャラにはぴったりだと、杏里はつねづね思っていた。
しかし、その山田も、零には相当てこずっているようだった。
杏里は、韮崎、三上、高山の3人とともに、取り調べ室の隣の小部屋から、ふたりの様子を眺めていた。
境目の窓はマジックミラーになっているので、こちらから向こう側の様子は見えても、零からは杏里たちの姿は見えないようになっている。
零はテーブルに頬杖をつき、斜め下から山田の顔をじっと見つめているばかりだ。
山田はといえば、真冬というのに、首にかけたタオルでしきりに顔を拭っている。
その後ろで書記を務めているのは研修生の野崎なのだが、会話が進まず記録することがないせいだろう、すでにこっくりこっくりと舟を漕ぎ始めている始末だった。
「零が容疑者にされるなんてこと、ありませんよね?」
いても立ってもいられず、杏里はたずねた。
あの時零が言った通り、地下鉄御所駅の多機能トイレから、腹を割られた女子高生の死体が発見されていた。
神崎彩、17歳。
市内の私立高校に通う女子生徒である。
被害者は妊娠が目立たない体質だったらしく、周囲の者は誰ひとりとして彼女の妊娠に気づいていなかったらしい。
検視の結果から他の4人と同様妊娠8ヶ月と推察されたが、やはり肝心の胎児は子宮から摘出されてしまった後だったという。
死体が発見された”多機能トイレ”というのは、中で赤ん坊のおむつを替えたりできるようになっている、普通の個室の倍以上の広さのある男女共用のトイレである。
御所駅では4番出口の改札を抜けた先にあり、切符を買わなくても外から入れるようになっている。
ゆったりしたスペースを備えているため、”解剖”には最適の場所だったというわけだ。
それにしても、はらわたが煮えくり返る思いだった。
犯人は、米倉加奈を狙っていたわけではなかったのだ。
結果的に、杏里たちはまんまとあの外道少女に出し抜かれてしまったことになるのだった。
が、その犯人は、4人の妊婦の臓器を詰め込まれた血みどろの胎児の死体とともに、地底に開いた不気味な空洞に呑み込まれてしまった。
どうにかこうにか1階まで降り、外道が落下したマンションの基部を入念に調べてみたのだが、そこには打ちっ放しのコンクリートの床が広がっているばかりで、蟻の巣ほどの大きさの穴も残っていなかったのである。
「まあな。女子高生殺しの現場に零が入った形跡はなかったらしいから、この事件とあの娘を直接結び付ける物証はない。ただ、どうして神崎彩の殺害を知ってたのか、そこに合理的な説明がつかないことには、あっさり帰すわけにはいかねえんだよ」
杏里の問いかけに、紫煙をくゆらせながら韮崎が答えた。
「そんなのひどいですよ! だってニラさんも見たじゃないですか。零は私たちに代わって、犯人と戦ってくれたんですよ。それなのに、みんなでよってたかって、零を犯人扱いするなんて!」
どこにもぶつけられない悔しさが、激しい言葉となって杏里の口からほとばしった。
涙で視界がぼやけてきていた。
「まあ待て。だれも犯人扱いなんてしてねえよ。ただ話を聞きたいだけなのに、あいつがしゃべってくれないから、それでみんな困ってるんじゃねえか」
韮崎が苦虫を噛み潰したような顔で言う。
最初に零の事情徴収を受け持ったのは、韮崎だったのだ。
が、零のだんまりに30分もしないうちに音を上げて、すぐさま山田巡査長にバトンタッチしたのである。
「匂いでわかったなんて、信じられると思うか? 警察犬じゃあるまいし」
韮崎が吐き捨てるように言った時、廊下に面したドアが開いて山田巡査長が入ってきた。
茹蛸のような赤ら顔に、びっしりと玉の汗を浮かべている。
「いやあ、参りましたねえ。なんですか? あの色気というか妖しい雰囲気は? 雪女みたいに美人だし、あの真ん中んとこだけ赤い眼でじいっと見つめられたら、いくらあたしだって5分ともちませんぜ」
「美人とか、そういう問題じゃないだろう? で、どうだ、何かわかったのか?」
「いえ。ただ『匂いがしたから』って言い張るだけで」
「しょうがねえな。まあいい、もう少し続けてみろ。俺は笹原と話がある。来い、笹原」
韮崎が杏里を廊下に押し出した。
連れていかれたのは、1階の隅の自販機コーナーである。
「何か飲め」
100円玉をくれたので、ホットココアをカップに注ぎ、両手で包みこんで暖を取る。
「おまえの情報漏洩の件だが」
韮崎に睨まれ、杏里は首をすくめた。
キタ、と思った。
首だろうか。
それならそれで仕方がない。
でも、このまま刑事をやめてしまうのは、なんだかすっきりしない。
今後も外道による犯罪は続くだろう。
それがわかっているのに、こんな中途半端なところで。身を引かなければならないなんて。
だが、韮崎の次のひと言は、想定外のものだった。
「なんなら、忘れてやってもいい」
「え?」
眼をまん丸にする杏里。
「ただし、俺だけに教えろ。黒野零。あいつはいったい何者なんだ?」
照和署でいえば、韮崎が警部補、三上がその下の巡査部長という具合である。
だが、そうした顔級とは別に、巡査としての経験を積んだ優秀な警察官には、「階級的呼称」とでもいうべき地位、「巡査長」が与えられることがある。
ここ照和署では、今、マジックミラーの向こうで零と向かい合っている山田刑事が、ちょうどその巡査長にあたっていた。
山田は寿司屋の大将といった面持ちの、韮崎と同年配の古株刑事である。
昇進試験が嫌いなので出世にこそ縁がないものの、愛知県警の刑事の中で「落としの山さん」といえば、知らぬ者はない。
まるでテレビの刑事ドラマの脇役そのもののニックネームではあるが、人情味あふれる山田巡査部長のキャラにはぴったりだと、杏里はつねづね思っていた。
しかし、その山田も、零には相当てこずっているようだった。
杏里は、韮崎、三上、高山の3人とともに、取り調べ室の隣の小部屋から、ふたりの様子を眺めていた。
境目の窓はマジックミラーになっているので、こちらから向こう側の様子は見えても、零からは杏里たちの姿は見えないようになっている。
零はテーブルに頬杖をつき、斜め下から山田の顔をじっと見つめているばかりだ。
山田はといえば、真冬というのに、首にかけたタオルでしきりに顔を拭っている。
その後ろで書記を務めているのは研修生の野崎なのだが、会話が進まず記録することがないせいだろう、すでにこっくりこっくりと舟を漕ぎ始めている始末だった。
「零が容疑者にされるなんてこと、ありませんよね?」
いても立ってもいられず、杏里はたずねた。
あの時零が言った通り、地下鉄御所駅の多機能トイレから、腹を割られた女子高生の死体が発見されていた。
神崎彩、17歳。
市内の私立高校に通う女子生徒である。
被害者は妊娠が目立たない体質だったらしく、周囲の者は誰ひとりとして彼女の妊娠に気づいていなかったらしい。
検視の結果から他の4人と同様妊娠8ヶ月と推察されたが、やはり肝心の胎児は子宮から摘出されてしまった後だったという。
死体が発見された”多機能トイレ”というのは、中で赤ん坊のおむつを替えたりできるようになっている、普通の個室の倍以上の広さのある男女共用のトイレである。
御所駅では4番出口の改札を抜けた先にあり、切符を買わなくても外から入れるようになっている。
ゆったりしたスペースを備えているため、”解剖”には最適の場所だったというわけだ。
それにしても、はらわたが煮えくり返る思いだった。
犯人は、米倉加奈を狙っていたわけではなかったのだ。
結果的に、杏里たちはまんまとあの外道少女に出し抜かれてしまったことになるのだった。
が、その犯人は、4人の妊婦の臓器を詰め込まれた血みどろの胎児の死体とともに、地底に開いた不気味な空洞に呑み込まれてしまった。
どうにかこうにか1階まで降り、外道が落下したマンションの基部を入念に調べてみたのだが、そこには打ちっ放しのコンクリートの床が広がっているばかりで、蟻の巣ほどの大きさの穴も残っていなかったのである。
「まあな。女子高生殺しの現場に零が入った形跡はなかったらしいから、この事件とあの娘を直接結び付ける物証はない。ただ、どうして神崎彩の殺害を知ってたのか、そこに合理的な説明がつかないことには、あっさり帰すわけにはいかねえんだよ」
杏里の問いかけに、紫煙をくゆらせながら韮崎が答えた。
「そんなのひどいですよ! だってニラさんも見たじゃないですか。零は私たちに代わって、犯人と戦ってくれたんですよ。それなのに、みんなでよってたかって、零を犯人扱いするなんて!」
どこにもぶつけられない悔しさが、激しい言葉となって杏里の口からほとばしった。
涙で視界がぼやけてきていた。
「まあ待て。だれも犯人扱いなんてしてねえよ。ただ話を聞きたいだけなのに、あいつがしゃべってくれないから、それでみんな困ってるんじゃねえか」
韮崎が苦虫を噛み潰したような顔で言う。
最初に零の事情徴収を受け持ったのは、韮崎だったのだ。
が、零のだんまりに30分もしないうちに音を上げて、すぐさま山田巡査長にバトンタッチしたのである。
「匂いでわかったなんて、信じられると思うか? 警察犬じゃあるまいし」
韮崎が吐き捨てるように言った時、廊下に面したドアが開いて山田巡査長が入ってきた。
茹蛸のような赤ら顔に、びっしりと玉の汗を浮かべている。
「いやあ、参りましたねえ。なんですか? あの色気というか妖しい雰囲気は? 雪女みたいに美人だし、あの真ん中んとこだけ赤い眼でじいっと見つめられたら、いくらあたしだって5分ともちませんぜ」
「美人とか、そういう問題じゃないだろう? で、どうだ、何かわかったのか?」
「いえ。ただ『匂いがしたから』って言い張るだけで」
「しょうがねえな。まあいい、もう少し続けてみろ。俺は笹原と話がある。来い、笹原」
韮崎が杏里を廊下に押し出した。
連れていかれたのは、1階の隅の自販機コーナーである。
「何か飲め」
100円玉をくれたので、ホットココアをカップに注ぎ、両手で包みこんで暖を取る。
「おまえの情報漏洩の件だが」
韮崎に睨まれ、杏里は首をすくめた。
キタ、と思った。
首だろうか。
それならそれで仕方がない。
でも、このまま刑事をやめてしまうのは、なんだかすっきりしない。
今後も外道による犯罪は続くだろう。
それがわかっているのに、こんな中途半端なところで。身を引かなければならないなんて。
だが、韮崎の次のひと言は、想定外のものだった。
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