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第5章 百合はまだ世界を知らない
#16 杏里と死体安置室⑦
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杏里たちが導かれたのは、建物の地下2階。
無機質な照明の下、鈍く光ったリノリウムの床が伸びる病院の一角のようなフロアだった。
「もう解剖は終わってるから、死体はこっちなんだけど、正直迷ってるのよね。これで遺族の手に引き渡していいかどうか」
ヤチカが右手の大きな扉を顎で示してみせ、そう言った。
そこがどうやら、死体安置室ということらしい。
中は吐く息が白くなるほど寒く、薄手のコートしか来ていない杏里は襟元を掻き合わせて、思わずぶるっと身を震わせた。
不謹慎だとは思うが、匂いも嫌だ。
ホルマリンの臭気に混じって空気の底にわだかまる、そこはかとない腐敗臭。
そして、死の匂い。
寒いところが嫌いな零も思いは同じらしく、妙に白茶けた横顔をしている。
真ん中のベッドを迂回して、ヤチカは壁際に歩み寄っていく。
そこはおびただしい数の引き出しになっていて、それぞれ名前を記入したタグがついている。
ヤチカが引き出したのは、入口に近いほうにある、そのうちのひとつだった。
現れた台の上に乗せられているのは、白いビニルシートをかけられた女性の死体である。
こうして改めて近くで見ると、30歳を超えているというのに倉田静香はひどくあどけない顔立ちをしていた。
結婚して新居を持ち、幸せの絶頂だったのに…。
こんなになるなんて、ひどい。
ひどすぎる。
合掌を終えて、杏里は唇を噛み締めた。
「驚かないでね」
ヤチカが言って、シーツをめくったのはその時だ。
「う」
予想はしていたものの、目の前にあらわになった死体の身体を見て、杏里は喉の奥でくぐもった叫びを上げた。
まだ綿などをつめていないからだろう、胸郭から下が、ぺしゃんこにへこんでいる。
「中を見せて」
縫合の痕を指差して、零が言った。
「いいわよ。どうせ、そう言うだろうと思ってた」
あっさりうなずくヤチカ。
白衣のポケットから小さな鋏を取り出すと、慣れた手つきで傷口を縫い合わせた糸を切っていく。
傷口は、胸の下から下腹部にかけて、一直線に走っている。
糸を切り終わると、ヤチカが傷口に両手をつっこみ、鞄の口でも開くみたいに、左右にゆっくり開けていった。
現れたのは、何もない空間だ。
太い背骨の向こうには、もう背中側の皮が見えている。
残った肋骨が、まるで大きな鳥籠みたい。
「ひでえな。本当に、何にもない」
韮崎がハンカチで鼻を押さえてうめいた。
下がった韮崎の代わりに、零が前へ進み出る。
死体にぽっかり空いた空洞に顔を近づけると、指で内部の壁をなぞり始めた。
「何かわかったの?」
あまりに長い間零が何も言わないので、業を煮やしたのか、少しいら立ちの混じった口調でヤチカがたずねた。
「まあね」
顔を上げる零。
そして、杏里たちを見回すと、疲れたような口調でぼそりと言った。
「内臓が残ってないのは、喰われたから。たぶん、それで間違いないと思う」
無機質な照明の下、鈍く光ったリノリウムの床が伸びる病院の一角のようなフロアだった。
「もう解剖は終わってるから、死体はこっちなんだけど、正直迷ってるのよね。これで遺族の手に引き渡していいかどうか」
ヤチカが右手の大きな扉を顎で示してみせ、そう言った。
そこがどうやら、死体安置室ということらしい。
中は吐く息が白くなるほど寒く、薄手のコートしか来ていない杏里は襟元を掻き合わせて、思わずぶるっと身を震わせた。
不謹慎だとは思うが、匂いも嫌だ。
ホルマリンの臭気に混じって空気の底にわだかまる、そこはかとない腐敗臭。
そして、死の匂い。
寒いところが嫌いな零も思いは同じらしく、妙に白茶けた横顔をしている。
真ん中のベッドを迂回して、ヤチカは壁際に歩み寄っていく。
そこはおびただしい数の引き出しになっていて、それぞれ名前を記入したタグがついている。
ヤチカが引き出したのは、入口に近いほうにある、そのうちのひとつだった。
現れた台の上に乗せられているのは、白いビニルシートをかけられた女性の死体である。
こうして改めて近くで見ると、30歳を超えているというのに倉田静香はひどくあどけない顔立ちをしていた。
結婚して新居を持ち、幸せの絶頂だったのに…。
こんなになるなんて、ひどい。
ひどすぎる。
合掌を終えて、杏里は唇を噛み締めた。
「驚かないでね」
ヤチカが言って、シーツをめくったのはその時だ。
「う」
予想はしていたものの、目の前にあらわになった死体の身体を見て、杏里は喉の奥でくぐもった叫びを上げた。
まだ綿などをつめていないからだろう、胸郭から下が、ぺしゃんこにへこんでいる。
「中を見せて」
縫合の痕を指差して、零が言った。
「いいわよ。どうせ、そう言うだろうと思ってた」
あっさりうなずくヤチカ。
白衣のポケットから小さな鋏を取り出すと、慣れた手つきで傷口を縫い合わせた糸を切っていく。
傷口は、胸の下から下腹部にかけて、一直線に走っている。
糸を切り終わると、ヤチカが傷口に両手をつっこみ、鞄の口でも開くみたいに、左右にゆっくり開けていった。
現れたのは、何もない空間だ。
太い背骨の向こうには、もう背中側の皮が見えている。
残った肋骨が、まるで大きな鳥籠みたい。
「ひでえな。本当に、何にもない」
韮崎がハンカチで鼻を押さえてうめいた。
下がった韮崎の代わりに、零が前へ進み出る。
死体にぽっかり空いた空洞に顔を近づけると、指で内部の壁をなぞり始めた。
「何かわかったの?」
あまりに長い間零が何も言わないので、業を煮やしたのか、少しいら立ちの混じった口調でヤチカがたずねた。
「まあね」
顔を上げる零。
そして、杏里たちを見回すと、疲れたような口調でぼそりと言った。
「内臓が残ってないのは、喰われたから。たぶん、それで間違いないと思う」
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