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第6部 淫蕩のナルシス

プロローグ ~萌え~

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「ったく、やっかいだな、タナトスってやつは」
 ぶっきらぼうな口調で、小田切がつぶやいた。
 杏里から目を反らし、新聞に顔をうずめている。
 ふたりの前には冷えたスイカとアイスティー。
 狂乱状態が去り、杏里は小田切と差し向かいでテーブルの前に坐っていた。
「平和な日々が続くと、体がもたなくなるのか」
「だって・・・」
 杏里は正座した膝に両手を置いたまま、頬をふくらませた。
「自分では、どうにもできないんだもの。体が勝手に疼いちゃって」
「俺が不能でよかったよ。正常な男だったら、おまえのために精気を根こそぎ吸い取られてるところだな」
 杏里の親代わり、小田切勇次は少年期のある出来事が元で、男性器を失ってしまっている。
 杏里の痴態を目の当たりにしても平気なのは、そのせいだった。
「由羅に相手を頼むか」
 小田切のつぶやきに、
「それだけはやめて!」
 杏里は腰を浮かせて叫んだ。
「またあの子に馬鹿にされちゃうじやない! 淫乱女って」
 榊由羅(さかきゆら)は、同い年の、杏里にとってはいわばパートナー的存在だ。
 杏里は彼女に二律背反的な思いを抱いており、どうしようもなく好きなときもあれば、顔も見たくないと思うときもある。
 今は後者だった。
 呉秀樹(くれひでき)の一件が、後を引いているのかもしれなかった。
「本当のことだから、仕様がないだろ?」
 小田切が新聞を置き、煙草に火をつける。
 ふだん、杏里の前では禁煙しているのだが、さすがにきょうは腹に据えかねているようだ。
「はっきりいっておくが、俺はおまえのオナニーを手伝ってやるつもりはないし。そんな趣味もない」
 吐き捨てるようにいった。
「それは・・・イキそうになってるときに、勇次が急に入ってくるから・・・。つい、はずみでつい口走っちゃっただけ。本心からそう思ってるわけじゃないよ。だいたいさ、女の子の部屋に入るときはノックくらいしてよね」
 真っ赤になって、杏里は言い返した。
「へんな声がするから、食中毒で苦しんでるのかと思ったんだ。おまえこそ、昼間っから紛らわしい声、出すんじゃない」
「どうせ私はインランですよ。でも、そういう体につくったのは、あなたたちニンゲンじゃない」
「そ、それは・・・」
 小田切がきまり悪そうに咳払いした。
「仕方ないでしょ。これが私の唯一の武器なんだから」
 アイスティーの残りを一気に飲み干すと、杏里は立ち上がった。
「あーあ、早く次の外来種、現れないかなあ」
「おい、滅多なこと、いうもんじゃない」
 小田切が苦りきった表情になる。
「とにかくもう少し辛抱しろ。どうせ2学期になれば、修羅場が待ってるんだ」
「ああ、あれ」
 杏里は思い出した。
 今度通うことになる、あの中学校。
 一度見に行ったことがあるが、相当に悲惨なところのようだった。
 小田切はそのことをいっているのだ。
「自慰にふけるのはおまえの勝手だ。おれはもう何もいわん。その代わり、無茶するのだけはやめてくれ」
「どうして? 私なんか、掃除機やテレビと同じただの”モノ”なんでしょ? 買い換えると高くつくから心配なの?」
 杏里は感情が激してくるのを感じていた。
 タナトスは人間ではない。
 対ストレス吸収装置。
 あるいは外来種探知機。
 つまりはモノに過ぎないのだ。
 肉の体を備え、感情を持ち、五感がちゃんとあっても・・・。
「馬鹿」
 小田切が鋭くいった。
「俺はおまえを、妹だと思ってる。だから少しは自重しろ」
「妹・・・?」
 杏里は振り向いた。
「娘じゃなくって?」
「俺はまだ20代だ。14歳のおまえをわが子として認識するのは不可能だよ」
 小田切が、憮然とした顔つきでいう。
 確かにそうだろう。
 しかし、戸籍上は、杏里は小田切の養子ということになっている。
「妹か・・・。それ、いいかもね」
 杏里はほほえんだ。
 少し、機嫌が直っていた。
「じゃ、これからオナニーは、兄さんが寝てからにするね」
「勝手にしろ」
 小田切の不機嫌そうな顔を見て、杏里は声を立てて笑った。
 こんな会話を交わす兄弟が世の中に存在するだろうか。
 そう思うと、なんだかおかしくなってきたのだった。
  
  

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