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第6部 淫蕩のナルシス

#16 洋館にて

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 どれほどそうして泣いていたのだろう。
 ふと気がつくと、周りに人だかりができていた。
「あなた、大丈夫?」
 年配の婦人が、腰をかがめて杏里の顔を覗き込んでいる、
「どこか痛いの? 救急車、呼ぶ?」
 杏里はかぶりを振り、よろめきながら立ち上がった。
「ありがとうございます」
 頭を下げた。
「でも、平気です。ちょっとめまいがしただけですから・・・」
「そう? それならいいんだけど」
 なおも不審そうな老婦人を振り切るようにして、歩き出した。
 人垣が二つに分かれ、杏里を通す。
 足元がおぼつかない。
 心の中に、ぽっかりと空洞ができたような気分だった。
 おまえを守る。
 そういってくれたのは、嘘だったの?
 心の中ではその思いがエンドレスで渦巻いていた。
 ひょっとして、楽屋には先に由羅が来ていて、どこかに隠れていたのかもしれない、と思った。
 それで、見られてしまったのだ。
 ヤチカとの一部始終を。
 でも、と思う。
 それくらいで、なぜ怒るの?
 私の体が愛撫に弱いのは、由羅がいちばんよく知ってるはず。
 それなのに、たったあれだけのことで、私を捨てるの?
 私たちって、そんなもろい関係だったの?
 通路に出たところで、壁に手をついた。
 悲しみがこみ上げてきて、歩けない。
 そのときだった。
 ふいに、肩の上に何かあたたかいものが触れた。
 視線を上げる。
 ヤチカが立っていた。
 形のいい眉を、心配そうにひそめている。
「何かあったの?」
 やわらかい、絹の手触りを連想させる声で、訊いた。
 杏里の瞳に涙が盛り上がる。
 今度は怒りの涙だった。
「なんでもないです」
 いいながら、心の中では別のことをつぶやいていた。
 あなたのせいだ。
 あなたがあんなこと、するから。
 それでも、怒りを抑えてたずねてみることにした。
「あの、さっき、私が出て行った後、私と同じくらいの年頃の女の子、見かけませんでした?」
 もし由羅が楽屋のどこかに身を潜めていたなら、あのあとヤチカに会ったのではないかと思ったからである。
「あなたと同じくらい? 中学生か高校生くらいの女の子ってことかしら?」
 ヤチカがいった。
 うなずく杏里。
「目の周りにシャドウを塗った、ちょっとエキセントリックな感じの子なんですけど・・・」
「うーん、見なかったわねえ。あのあと、楽屋の他の部屋も一通り見て回ったけど、誰も居なかったし」
 ヤチカは嘘をいっているようには見えなかった。
 そもそも、初対面の彼女が、杏里に嘘をつかねばならぬ理由がないのだ。
 杏里は先ほど覚えた怒りが、潮が引くように薄らいでいくのを感じた。
 由羅はいなかった?
 ということは、あのLINEは、ヤチカさんとのこととは無関係?
 つまりは、またいつもの由羅の気まぐれが始まったということなのだろうか。
 そう考えると、今度は少しずつ、由羅に対して腹が立ってきた。
 どうしていつもそうなんだろう?
 なぜ私の心を弄ぶの?
 こっちは真剣なのに。
 由羅のことがいつもいちばんなのに・・・。
「杏里ちゃん、なんだか知らないけど、すごくショックを受けてるみたい」
 ヤチカが気遣わしげにいった。
「ね、モデル云々は別として、ちょっとわたしの家で休んでいかない? サイン会も終わって、これから帰るところなの。車で来てるし、ここから比較的近いのよ」
 けっこうです。
 そう断りかけたときだった。
 杏里の胸の奥に、意地の悪い考えが浮かんできた。
 由羅がそんなひどいことするなら、私だって・・・。
「いいんですか?」
 わざと媚を含ませた声で、杏里は訊いた。
「もちろんよ」
 ヤチカがうれしそうに微笑んだ。
 この人、本当に私を歓迎してくれてるんだ。
 杏里はヤチカの大輪の花のような笑顔を目の当たりにして、思った。
 くすぐったいような、恥ずかしいような妙な気分だった。
 誰かさんとは、大違い。
 ヤチカに肩を抱かれながら、杏里は由羅の面影を、無理矢理心の片隅に追いやった。

 ヤチカは赤い新車同然の車に杏里を乗せると、地下駐車場から車道にゆっくりと進み出た。
 ヤチカの運転は非常に慎重で、杏里はそこにもこの女性の性格の片鱗を垣間見る思いだった。
 車で5分ほど走った。
 ヤチカの家は、こんもりとした森に囲まれた小さな洋館だった。
 赤煉瓦色の2階建てで、2階の窓の下から白い手摺のバルコニーが張り出している。
 建物を囲む庭には天然の芝生が敷き詰められ、真っ白なテーブルと椅子が置かれていた。
「きれい・・・」
 車を降りるなり、洋館を見上げて杏里はつぶやいた。
 オランダの家々に、全体の雰囲気が似ている。
 近くに風車でもあれば、きっと似合うのに、と思う。
「狭いところだけれど、どうぞ、遠慮なく」
 ガレージに車を入れて戻ってくると、ヤチカがにっこり笑って杏里の手をとった。
 オーク材の扉に金属製の大きな鍵穴があり、そこに太い鉄の鍵を差し込んで回す。
「すっごくレトロな感じでしょ」
 扉を開けながら、くすりと笑う。
「これじゃ、セキュリティも何もないわよね」
 玄関を入ると、中はひんやりとしていて、汗ばんだ肌にとても気持ちよかった。
 1階は複雑な模様の絨毯と壁紙に囲まれた、不思議な雰囲気の空間だった。
 アラビアあたりの魔術師の家みたい。
 杏里は好奇の眼であたりを見渡した。
 正面の壁の大きな暖炉。
 アンティークなテーブル、椅子。そして壁際の家具。
 照明も無機質な蛍光灯ではなく、ガラスのアクセサリを組み合わせて作ったような複雑な形のものだ。
「あまりに古色蒼然としてて、驚いたでしょ。元は母方の祖父の家なのよね。係累がみんないなくなっちゃってね、それでわたしに回ってきたってわけ。古いから維持費が大変で、いっそのこと売っちゃおうかとも思ってるんだけど」
「そんな・・・」
 杏里は眉を釣り上げた、
「私、ここ、好きです。売るなんて、そんなもったいない・・・」
「気に入ってくれてうれしいわ」
 ヤチカが目を細め、微笑んだ。
「わたしの部屋とアトリエは2階なの。ここは主に来客用の空間ね。杏里ちゃん、疲れてるでしょう? おやつの準備しておくから、シャワー浴びて来なさいよ。バスはその通路をまっすぐ行った左手の扉。新しいバスタオルも脱衣場に用意してあるわ。あ、右手の扉は厨房だから、間違えないでね」
「は、はい。ありがとうございます」
 礼をいったときだった。
 杏里は広い部屋の奥に、奇妙なものを見つけてふと目を凝らした。
 ひと際立派な肘掛椅子が、奥の壁際に置かれている。
 そこに、フリルのいっぱいついたドレスを着た、等身大の人形が坐っているのだ。
「あれはリリー」
 杏里の視線を追って、ヤチカがいった。
「リリーは、いわばこのお屋敷の女主人みたいなものね。祖父の代からここに住んでるのよ」



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