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第6部 淫蕩のナルシス

#30 人形の館

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 少女たちを収めたガラスケースの間を通り、ヤチカの後に続いて地下室の奥へ行く。
 そこはドアのない別の部屋になっていて、衣装箪笥やベッドに囲まれ、背もたれの高い椅子に、あのしゃべる人形、リリーが坐っていた。
 リリーの前には丸いテーブルと藤椅子が2脚、置かれている。
 部屋には本棚やぬいぐるみ、そしてテレビや冷蔵庫まであった。
「ごめんなさい。あなたを驚かせるつもりはなかったんだけど」
 入り口で金縛りに遭ったように立ち竦んでしまった杏里を振り返り、ヤチカがすまなさそうな口調でいった。
「ここが本来の、リリーのお部屋だから」
 杏里がシャワーを浴びている間に、1階からヤチカが移動させたのだろう。
 まさか人形がひとりで歩いてここまで帰ってきた、なんてことは・・・。
 うす気味悪げに杏里はリリーを見つめた。
 白いフリルのいっぱいついた、水色のふわふわしたドレス。
 ピンクのリボンで結んだブロンドの髪に、ぱっちり見開いた真っ青な瞳。
 典型的なビスクドールである。
 アンティーク感が半端ないが、それなりに高級品であろうことは、その分野に疎い杏里にもなんとなくわかる。
 ヤチカはさっき、『人形生命体』と呼んでいた。
 本当に生きているのだろうか。
 近寄って確かめたかったが、杏里にはこわくてできなかった。
「母方の祖父は職人でね。人形のパーツをつくってたの」
 杏里に藤椅子を勧めて、ヤチカがいった。
「たとえば、ほら」
 箪笥の引き出しを開けて、杏里に中を見るように促した。
 おそるおそる覗くと、黒と白の球体がぎっしり詰まっていた。
 杏里は思わず、喉の奥でひっと小さく悲鳴を上げた。
 引き出しの中を埋め尽くしているビー玉のようなもの・・・。
 その正体に気づいたからだった。
 眼球である。
 おびただしい数の眼球が、引き出しの底に整然と並んでいるのだ。
「ドールアイよ。ここにあるのは完成前の試作品。お人形のパーツづくりだけでこんな豪勢な屋敷まで建てちゃうんだから、祖父はその道では相当に名の通った職人だったらしいわ」
 杏里の斜め横の藤椅子に腰かけ、ヤチカがいう。
「人形というと、小さな女の子のおもちゃって思うでしょう? ところが意外に大人向きのものが多いのよ。フィギュアもそうだけど、球体関節人形とか、ラブドールとか、お人形市場には大人の熱狂的なマニアがたくさんいるの。だからけっこう儲かるみたい」
「でも、しゃべる人形なんて、私初めてです」
 横目でリリーのほうを窺いながら杏里がいうと、
「実はわたしにも、どうやってリリーが発声するのか、いまだにわかってないの。ただ、子どもの頃母に連れられてここに遊びに来てた頃からそうだったから、ぜんぜん違和感がなくって」
 いいながら、ヤチカはお香を焚き始めている。
 杏里が臭いを気にしていることに、前から気づいていたのだろう。
「本当に、生きてるんですか?」
「人間みたいに食べたり排泄したりはしないけど、意志があるのは確かなようね。さっきみたいに突然しゃべり出すから。1ヶ月くらいずっと黙ってることもあるし、向こうから急に話しかけてくることもある。あなたの存在を教えてくれたのも、実はリリーなの。ほら、そこにテレビ置いてあるでしょ。ときどきつけてほしいっていうから、いろいろな番組を見せてあげるんだけど、あるときニュースを見てたリリーがいったのよ。『おまえの伴侶にふさわしいのは、この娘だ』って。実をいうとそのとき、わたし恋人だった女の子を死なせちゃった直後で、すごく落ち込んでたの。だから、彼女の言葉にすぐに飛びついて、杏里ちゃん、あなたに興味を抱いたってわけ」
「でも、リリーは、どうしてそんなことを・・・」
 杏里は首をひねった。
 確かに拉致事件の際、杏里の名前や顔の情報は、テレビやインターネットに流出した。
 だが、杏里がタナトスであることまでは、表面化しなかったはずなのだ。
 タナトスの存在は、いわば国家機密である。
 そんな重要な情報が、簡単にマスコミや巷に漏れるはずがない。
「リリーは『人形の館』とつながってるから、この街で起きてることには詳しいの。テレパシーとかそういうのじゃなくって、インターネット回線でも中に入ってるんじゃないかと思うんだけど」
「人形の、館?」
「ええ。祖父がパーツを納めてた人形づくりの工房のこと。駅前のショッピングモールの裏に、昔ながらの寂れた古い商店街があってね、その中に居を構えてるわ。なんでも、何百年も前からある人形工房の老舗なんだって。今でも球体関節人形の分野でかなり有名らしいのよ」
「球体関節人形?」
「すっごくリアルなお人形のこと。フィギュアみたいなものだけど、関節があるから自由にポーズを取らせることができて、マニアは服を着せ替えて写真を撮ったり、いろいろ楽しんでるみたい。今度連れてってあげるわ。一緒に見にいきましょう」
「ひょっとして、その店でつくられた人形は、みんなリリーのような能力をもっていて、それで人間社会にもぐりこんで、情報収集に努めてるとか・・・?」
 ふと思いついて、杏里はたずねた。
「そうね。わたしもそんなところじゃないかと思う。ま、売られてる人形のすべてがそうとはいわないけど、リリーの同類が、けっこうな数、この界隈には出回ってるんじゃないかしら」
 うなずくヤチカ。
 とすると、その店の主人というのは、いったい何者なのだろう?
 杏里の正体を知っているところから見ると、絶対に只者ではない・・・。
「ところで、話を戻すけど」
 丸テーブルの上に緑色のジュースを入れたグラスをふたつ置くと、杏里の瞳を覗き込むようにして、ヤチカがいった。
「わたしの本来の伴侶であるべき、その危険すぎる相手って、いったい誰なの?」
「それは・・・」
 杏里は口ごもった。
 黒野零について説明するには、まずヤチカ自身の正体に触れる必要がある。
 ヤチカは真実を知って、傷つくに違いない。
 自分が人間でないことを知らされて、喜ぶ者などいないのだ。
 そう、かつての杏里がそうであったように。
「いいのよ。わたしのことは気にしなくっても」
 杏里の胸中を察したように、優しい口調でヤチカがいった。
「自分が普通じゃないことにはうすうす気づいてるし、それに、今更傷つくような歳でもないわ。わたし、若く見られるけど、これでももう34歳だから」
 テーブルに頬杖をつき、両の掌で顔を支えると、杏里を見つめて、ふふっと笑った。
 杏里はそんなヤチカを見つめ返しているうちに、なんだか泣きたい気分になってきた。
 どうして私たち、普通の人間同士として、めぐり合えなかったのだろう?
 そう思ったのだ。
「リリーに訊いてもある程度は教えてくれるでしょうけど」
 グラスに唇をつけて、ヤチカがいった。
「わたしは杏里ちゃん、あなたの口から直接聞きたいの。ほんというとね、わたし、かなりへこんでるんだ。わたしの相手、どうして杏里ちゃんじゃなかったんだろうって。それが、残念で残念でたまらない」
 手を伸ばし、杏里の右手に触れる。
 ヤチカの瞳は、少し潤んでいるようだ。
「だから、話して。杏里ちゃんに代わるその子は、誰? 外来種って、何? それから、タナトスって、いったい何なのかしら」
「ヤチカさん・・・」
 杏里はうなだれた。
 むき出しの太腿に、涙の雫がひと筋、落ちた。
 そこまでいわれては、もう隠し通すことは不可能だった。
「信じられないかもしれないですが」
 杏里はぽつぽつと話し始めた。
「ヤチカさん、あなたはそもそも、人間じゃないんです」




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