上 下
201 / 288
第8部 妄執のハーデス

#50 バトルロイヤル④

しおりを挟む
 振り向いた杏里は、初め、由羅の言葉の意味がわからなかった。

 ラウンジの入口から、こっちをのぞき込んでいるふたり組。

 ひとりは、グレーの長いコートを着込んだ、針金のように痩せた背の高い少年。

 もうひとりは、紺のブレザーにベージュの綿パンがよく似合う、色白で小柄な少年である。

「うそでしょ? ふたりとも男の子じゃないの」

 杏里はつぶやいた。

 タナトスとパトスは、10代半ばの少女と相場が決まっている。

 外来種のミトコンドリアとのシンクロ率が、最も高いのがその年代の少女だからだ。

 男のパトス、あるいはタナトスが存在するなんて、聞いたことも見たこともない。

「この建物の中で、うちらと同じくらいの年恰好のふたり組っていったら、パトスとタナトスのカップルしかないだろう? それにさ、考えてもみろよ。ヒュプノスのくせに、うちらのパートナーの重人は男だ。なら、男のパトスやタナトスがいたっておかしくはないはずさ」

 由羅は警戒するように、ソファから半ば腰を浮かせかけている。

「あ、そうか」

 言われてみれば、その通りだった。

 重人以外のヒュプノスに会ったことがないからこれまでさして疑問にも思わなかったのだが、パトスやタナトスと同じ製法でつくり出されたからには、本来、ヒュプノスも性別は女であるはずだ。

「おまえら、何か文句あんのかよ、じろじろこっちを見やがって」

 左右に身体を揺らしながら、背の高いほうが近づいてくる。

 緑と紫に染めた頭髪を逆立てた、異様な風体の少年である。

 だらしなく半開きになったタラコのように分厚い唇。

 ぎょろりとした目は左右が逆を向き、今にも眼窩からこぼれ出しそうだ。

 左手を脇にだらりと下げ、なぜか右手はコートの懐に突っ込んだままだった。

 コートの下に穿いているジーンズは、あちこちに穴が開いていて、そこここから青白い肌が覗いている。

「おまえらも俺っちとおんなじ、パトスとタナトスなんだろ? ちょっとかわいい顔してるからって、いい気になるんじゃねえよ」

 少年は、なぜだか由羅ではなく、杏里を凝視しているようだ。

 血走った眼に、狂気じみた光が宿っているのに気づき、杏里はぞっとなった。

「マコト、やめなよ。こんなところで」

 小柄な少年が駆け寄って、後ろから相棒のコートの裾を引っ張った。

 この子がタナトス?

 杏里は一瞬、恐怖を忘れて少年に見入ってしまった。

 整った顔立ちの、人形のように美しい少年である。

 背丈は重人と同じくらい。

 小柄で華奢なその身体は、小学生かせいぜい中学1年生くらいにしか見えない。

 が、重人と決定的に違うのは、その淫靡な雰囲気だった。

 どこがどうとは言えないのだが、声、しゃべり方、しぐさのひとつひとつが、そう、妙に艶っぽいのである。

 この少年なら、あり得る。

 直観的に杏里は悟った。

 男のタナトスというものが存在するとしたら、まさにこの子みたいな感じだろう。

「だからよお、ユウはうざいんだって」

 マコトと呼ばれたパトスは、相当に気が短いようだ。

 肩のひと振りで少年を振り払うと、杏里の前にぬうっと仁王立ちになった。

「ふうむ。近くで見ると、ますます可愛いな。おまえ、名前、なんて言うんだ? 俺っちは沖誠。あれは、相棒の田宮悠。御覧の通り、世にも珍しい、男同士のカップルだよ。あは、だからって誤解すんな。俺っち、別にホモってわけじゃないからさ」

 躁鬱気質なのか、ついさっきまでの怒りはどこへやら、今度は機嫌よさそうにへらへら笑っている。

「それにしてもおまえ、ムチャいい身体してんな。どれ、ちょっちマッサージしてやろっか」

 そう言うなり、杏里の胸元めがけ、無遠慮にマコトが左手を伸ばしてきた。
 
 よける前に、由羅が動いた。

「杏里に触るな」

 目にも止まらぬ素早い動作でテーブルを飛び越えると、杏里とマコトの間に割って入ったのだ。

 マコトの針金のような手首を握り、由羅が逆手にひねり上げる。

「なんだあ、てめえ」

 少年のひょろ長い顔が怒りで醜く歪んだ。

「ゆ、由羅、やめて」

 杏里は由羅の革ジャンの裾をつかんで引いた。

 少年の右手が、コートの懐から出ようとしている。

 拳銃かナイフでも持っているのか、コートの内側は不自然に大きく膨らんでいる。

「だめだよ、マコト、それだけは」

 マコトの右手の動きに気づいて、怯えたようにユウが叫ぶ。

 その時だった。

「やめたほうがいいよ。そいつ、マコトは有名なキ印だから」

 この場にそぐわぬ、変に爽やかな声がした。

 見ると、いつの間にか、観葉植物で仕切られたラウンジの向こうに、ふたりの男女が佇んでいる。

 詰襟とセーラー服という、絵に描いたような中学生のカップルだ。

 話しかけてきたのは、いかにも秀才然としたムードの男子のほうだった。

「マコトはね、僕らの地域では、タナトス殺しで有名なんだ。気に入ったパートナーを、次から次へと犯して、挙句の果ては殺して食べてしまう。いくらタナトスがヒトじゃないからって、それはいくらなんでも、あんまりってものだろう? だからまあ、こんなところに召喚されちゃったんだけどね」

しおりを挟む

処理中です...