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第8部 妄執のハーデス

#65 1回戦②

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「では、さっそく始めてくれたまえ。時間制限はないが、なるべく早くカタをつけてほしい。なんせ、このあと、まだ3試合も控えているのでね。君らの戦いは、別室から見守らせてもらうことにするよ。健闘を祈る」

 気のない口調でそう言い終えて去っていく北条の後ろ姿を、杏里は憎しみをこめてにらみつけた。

 何それ?

 言うべきことはそれだけなの?

 こっちに命がけの死闘を強要しておいて…。

 何のパフォーマンスなのか、あの軍服っぽい服装にもむかついた。

 杏里とて、平和主義を標榜する現在の日本に、軍人が存在しないことくらいは知っている。

 なぜって、憲法上、自衛隊は軍隊ではないからだ。

 なのにあの、旧日本軍みたいな、時代錯誤な格好は何?

 ひょっとして、この国には国民の眼から隠された裏の軍事組織が存在していて、この研修が、その組織に関係があるとでも言いたいの?

 が、今はそんな非現実的なことに思考を割くべき時ではなかった。

「行くぞ」

 由羅の低い声が、杏里を現実に引き戻す。
 
 我に返ると、由羅はすでに走り出していた。

 短いスカートの裾をひるがえし、すさまじいスピードでマコトめがけて突進していく。

「気の短けえやつだな」

 不敵に笑うマコトは、突進してくる由羅を見つめたまま、一歩たりとも動こうとしない。

 駆けながら、由羅の体が回転した。

 全力疾走の加速度を乗せて、右の回し蹴りを放ったのだ。

 スカートが腰のあたりまでめくれあがり、しなやかな筋肉で覆われた脚が太腿の付け根まであらわになる。

 由羅は身長150センチ後半と小柄だが、骨密度が異様に高いため、体重は90キロを超えている。

 その重くて速い一撃が、避ける暇も与えずマコトのこめかみに炸裂した。

「ぐはっ!」

 血反吐を吐き、マコトのひょろ長い頭部が大きく揺れた。

 着地するなり軸を右足に移して、間髪を入れず、由羅が左の蹴りを放つ。

 つま先が横腹を正確にとらえ、口から鮮血をほとばしらせながら、マコトが身体をくの字に折った。

 間合いを詰め、コートの襟をつかんで相手を引きずり起こす由羅。

 よける暇を与えず頭突きでマコトの青白い額を割ると、その鳩尾に左右のこぶしを連続で叩きこむ。

「ぐえええっ!」

 前のめりになったそのうなじに右肘をぶち込んで、倒れかけたマコトの腹を膝蹴りで更に突き上げた。
 
 身体が半ば水平に宙に浮いたところへ、左足をバレリーナよろしく高々と振り上げ、垂直に振り下ろす。

「うぐはあっ!」

 強烈な踵落としを後頭部に食らい、マコトが床にぶっ倒れて海老のように飛び跳ねた。

 目の覚めるような早業だった。

 杏里は由羅の圧倒的な強さを目の当たりにして、ぽかんと口を開けた。

 杏里とて、由羅のパートナーである。

 この半年のつきあいで、由羅の力には全幅の信頼を置いている。

 杏里自身、殺されそうになった時、何度彼女に助けてもらったか、わからない。

 でも、まさか、これほどとは…。

 由羅がマコトを雑魚扱いしたのも、むべなるかなだった。

 ふたりの力の差は明らかだ。

 まず、スピードからして、全然違う。

 マコトは、コートの懐から右手を出すことすら、できなかったのだ。

 この調子なら、案外、楽に勝ち進むことができるかもしれない。

 杏里の胸に、由羅への熱い思いが再燃した。

 由羅の恐れるあの”X”とやらの存在が、少し気にはなるけれど…。

 でも、由羅と一緒なら、なんとかなる…。

「すごいね、彼女」

 ふと気がつくと、いつのまにそこにいたのか、すぐ隣に立って、ユウが感心したようにつぶやいていた。

「サカキユラ、ササハラアンリ…。そうか。君たちがそうだったのか。中部地方に、優秀なユニットがいるって、僕らの間でも話題になったことがあるよ」

 杏里はゆっくりこうべをめぐらせ、傍らの少年に眼をやった。

 ユウは瞳をいっぱいに見開いて、由羅のほうを見つめている。

 由羅は今、マコトにとどめを刺そうとしているところだった。

 彼女が履いているのは、底に鋼鉄の鋲をびっしり植えつけた、米軍払い下げの軍用ブーツである。

 それで気絶したマコトの頭を踏み潰そうというのだろう、右足を高く掲げ、今にも振り下ろそうとしている。

「でも、マコトと僕を、あまり見くびらないほうがいいと思う、僕らもある意味、一流だからね」

 ふいに、ユウの声音が不穏な響きを帯びた。

「見ててごらん」

 ユウがくすくす笑いながら、そう言った瞬間だった。

 気を失っているかに見えたマコトが、だしぬけに半身を起こして、コートの懐から右腕を引き抜いた。

「なに?」

 由羅が、驚愕に眼を見開いた。

 杏里も同様だった。

 声を失い、マコトの右腕を凝視した。

 そこにあるのは、杏里の予想したような、ナイフでもピストルでもなかった。

「ね? 言った通りでしょ?」

 ユウがそっと、杏里の手のひらに自分の手を入れてきた。

 とたんに、ぞくりとした快感が、杏里の背筋を走る。

「今度は僕たちの番だね。気の毒だけど、たぶん、君たちの負けだと思う」


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