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第8部 妄執のハーデス

#111 最終決戦⑳

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 変化は、ごくわずかだった。
 痛みの一部が、嘘のように消えたのだ。
 それは、最初に傷つけられた会陰部で生じていた。
 大陰唇と陰核をえぐり取られた後の鈍痛が消え、その代わりに現れたのは…。
 まぎれもなく、性的な快感である。
 不思議な現象だった。
 杏里が嚥下した触手の構成物は、まだ消化吸収を行う小腸に届いていない。
 いや、そもそも小腸自体が、零に体外へと引きずり出され、機能を停止してしまっている状況である。
 それなのに、杏里自身の体液に混じる媚薬成分が、痛みの一部を快感に変えたのだ。
 が、改めて考えてみれば、十分あり得ることだった。
 触手は相手の性感帯に潜り込み、直接相手の肉体に媚薬成分を注入する。
 つまり、その作用に消化吸収という過程は必要ない。
 とにかく、ターゲットに触手を打ち込めばいい。
 そういうことなのだ。
 これが、”還元”…。
 痛みが薄れると同時に、再び正常な思考が戻ってきた。
 サイコジェニーは、このことを言っていたんだわ…。
 杏里は、今更のように納得する思いだった。
 触手は消えるべき運命にあったのだ。
 もともと、タナトスに備わっている機能ではないのだから。
 ならば、あとは、実行するのみ。
 もちろん、今度のターゲットは…。
 杏里は猫のように身体を丸めた。
 頭の中で、新たな触手をイメージする。
 2本だけということはないはずだ。
 美里は無数の触手を持っていた。
 ならば、その能力をラーニングした、私にだって…。
 身体中の筋肉に力を籠める。
 子宮の中心にマグマが沸き上がる。
 全身の皮膚がざわざわ蠢き始めた。
「どうしたの?」
 零が近づいてくる。
 手を伸ばして、杏里の下顎をつかもうとする。
 薄目を開けると、床の上にだらしなく伸びた己の小腸が見えた。
 零の裸足がその端を踏んでいる。
 まるでミミズでも踏み殺すように、足の裏で無造作に踏みにじっているのだ。
 その光景が、杏里の怒りに火を注いだ。
「うわああああああああっ!」
 次の瞬間、杏里は獣のように咆哮していた。
 ざわり。
 杏里の裸身が一瞬、振動するようにぶれ…。
 そして一斉に、おびただしい触手が立ち上がった。
 肌という肌から半透明の触手が伸び上がり、イトミミズの群生のように杏里をすっぽり包み込んだのだ。
「な、なんなの?」
 零が後じさった。
 驚愕で瞳孔がまん丸く見開かれている。
「まだ懲りないの? またそれで私を攻撃するつもり?」
 無数の触手を揺らしながら、杏里はほくそ笑んだ。
 何という勘違い。
 同じ過ちを犯すほど、私は馬鹿ではない。
 触手の今度のターゲットは、あなたなんかじゃない。
 それは、この私。
 行け!
 杏里の心の声に呼応するように、触手の群れが回遊する小魚の大群よろしく一度に頭を返した。
 そのまま先端を向けたのは、傷だらけの杏里の股間である。
 大陰唇を2枚とも失ったそこにあるのは、ぱっくりと開きっぱなしになった淫らな膣口だ。
 その赤い穴めがけて、怒涛のように触手が押し寄せる。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
 ずぶずぶと触手を飲み込みながら、杏里の腰がリズミカルに跳ね上がった。
 触手の群れは膣の中に潜り込み、更に子宮にまで達すると、奥の壁にぶつかって次々にクラッシュする。
 そのたびに”攻撃”用に純化された媚薬成分があふれ出し、細胞膜の中へと猛スピードで染み渡っていく。
 杏里の膣がすべての触手を飲み込むのに、1分とかからなかった。
 すべてが終わると、杏里はゆっくりと身を起こした。
 その口元には、妖艶な笑みが浮かんでいる。
 乳房をえぐりとられた右胸。
 乳房を握りつぶされた左胸。
 縦に引き裂かれ、臓物の一部を引きずり出された下腹。
 そして、舌と上唇を食いちぎられた口。
 そのすべての部位で、痛みが止まっている。
 代わりに杏里が感じつつあるのは、さざ波のように押し寄せる性的な愉悦である。
 触手が消え、タナトスの機能が戻った証拠だった。
 後じさる零の肩を、杏里はつかんだ。
 そして、口だけ動かして、ねだった。
『ねえ、零。もっと…もっと…痛くして』

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