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第8部 妄執のハーデス

#112 流出①

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「何なの? 何が起こってるの?」
 零が歯ぎしりするように言い、迫る杏里を振り払った。
 バランスを崩して、床に倒れ伏す杏里。
 だが、その口元にはまだ笑みが刻まれたままだ。
 痛みが消え、快感に転換されただけではなかった。
 変化は、杏里の肉体にも生じ始めていた。
 肉の爆ぜたクレーターだった右胸に、薄桃色のふくらみが生まれ始めている。
 左胸のつぶれた肉塊がいつのまにか元の形を取り戻し、今にも乳首を形成しようとしていた。
 上唇にもすでに痛みはない。
 それどころか、喉のあたりでちぎれた舌から肉の芽が芽生え、短いながらもその機能を取り戻しつつあった。
 杏里は床に伸びた己の小腸をかき集めると、腹の傷口に戻し始めた。
 傷口が塞がる前に収納しておかないと、面倒なことになる。
 そう気づいたからだった。
 収納を終え、裂けた皮膚をぴったり合わせると、傷口からじわじわと透明な液体がにじみ出してきた。
 その液体が糊のような役目を果たし、裂けていた腹の傷が見る間に元の一枚の皮膚に戻っていく。
 これまでにない、修復の速さだった。
 ふつう、ここまで肉体を破壊されてしまっては、いくらタナトスといえども、すべてが再生するのに数日はかかるところである。
 それが、見ている目の前で、治癒が進んでいくのだ。
 -流出が、始まったねー
 ふいに、頭の芯で”声”がした。
 サイコジェニーの思念に間違いない。
 が、今回は”眼”の映像はなかった。
 -流出だよ…霊智ソフィアがおまえの…ー
 感心したような”声”。
 それが一瞬聞こえて、またすぐ消えた。
「気が狂うにはまだ早いわ。あなたはもっと苦しむの!」
 不機嫌になった零が、倒れた杏里の右腕をつかんだ。
 そのまま背中のほうに、思いっきり捻じ曲げる。
 杏里の肩がギリッと軋んだ。
 異様な響きとともに、関節がはずれるのがわかった。
「あう」
 杏里の喉から、甘い喘ぎが漏れる。
 痛いのではない。
 気持ちいいのだ。
「何感じてるのよ!」
 それが零に伝わったらしい。
 左腕を同じく背中側に折り曲げると、枯れ木をへし折るように肩の関節を外してしまった。
「はう…」
 床に頬を押しつけ、高々と尻を突き出した姿勢で、杏里が喘ぐ。
「まだ足りないの!」
 零は半狂乱になっている。
 杏里の両足首を握ると、ずるずると逆さに持ち上げていく。
 背の高い零に吊り下げられ、逆立ちしたような格好になる杏里。
 そのふくらはぎを両手に持って、零が力いっぱい脚を左右に開いた。
 グギッ。
 杏里の太腿のつけ根が、不気味な軋みを発した。
 股関節が、外れたのだ。
 四肢の関節をすべて外された杏里は、さながら糸の切れたマリオネットだった。
 だが、痛くはない。
 むしろ、疼くような快感が全身を支配してしまっている。
「いいよ…零」
 文字通り、舌っ足らずな口調で、杏里は言った。
「すごく、気持ち、いい…」
「この化け物!」
 零が杏里の裸体を頭上に持ち上げ、力任せに床にたたきつけた。
 肉がひしゃげる音がして、杏里の白い裸身が大きくバウンドする。
 その首に両手をかけると、零がまたぞろ杏里を引きずり起こした。
 今度は首吊りの要領で、杏里の身体を頭上高く吊り上げていく。
 零の手の中で、杏里の首が伸びる。
 零は狂ったようにすさまじい力で締めつけてくる。
 つま先が床を離れ、体が完全に宙に浮く。
 気管が塞がれ、息ができない。
 このまま、死ねたら…。
 恍惚の波にひたりながら、杏里は思った。
 タナトスなんて、もうどうでもいい。
 死ねない躰なんて、もう嫌だ…。
 酸素の供給が完全に止まり、意識がふうっと遠のいた、その時だった。
 突然、零の力が緩んだ。
 え…?
 驚いて、杏里は薄目を開けた。
 目と鼻の先で、奇妙なことが起こっていた。
 零の首に、何かが突き刺さっている。
 銀色に輝く、長い金属の槍のようなもの。
 それが真横から、零の頸を貫通しているのだ。
「いい加減にしろ」
 意外なほど近くで、由羅の声がした。
「零、化け物は、お前だろ?」

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