激甚のタナトス ～世界でおまえが生きる意味について～【官能編】

第8部 妄執のハーデス

#110 最終決戦⑲

　舌を噛みちぎられ、上唇を引き剥がされた杏里の顔は、見るも無残な有様だった。
　アイドルを髣髴とさせる愛くるしいマスク。
　それが今や、血みどろの肉塊になり果てようとしている。
　そして、杏里の心も、ひびの入ったガラス細工のように、壊れる寸前にまで追い詰められていた。
　本来、再生能力の高いタナトスは、舌や唇を失ったくらいでは死にはしない。
　が、肉体の損傷よりも、自分の目の前でそれが行われたことのほうが、ショックだった。
　女性にとり、顔は命。
　極めつけのナルシストである杏里にとっては、尚更だ。
　杏里の胸の奥から、どす黒い怒りが込み上げてきた。
　どうして…。
　どうして私、こんなにひどいことまで、されなきゃいけないの…？
　壁に背中を押しつけ、ともすれば倒れそうになる身体を支えると、杏里は血でかすんだ目を零に向けた。
　殺してやる。
　心底から、そう思った。
　死ねないなら、せめておまえを、殺してやる…。
　しゅんっ。
　零の手首に巻きついていた触手がほどけ、宙で弧を描くと、後ろから首に巻きついた。
　元から絡みついていた触手と合わせ、二本になった触手が、ぐいぐいと零の細い首を締めあげにかかった。
　精神を集中して、その二本にありったけの力をこめる。
　もう、頼りはこれだけなのだ。
　タナトスの本分が、攻撃でないことくらい、重々承知している。
　でも、そんなことにこだわっている場合ではなかった。
　気が狂わないように自我を維持するには、もうこれしかないのだ。
　たとえ殺せなくとも、それで零が怒り狂ってこっちを殺してくれるなら、それはそれで正解だ。
　が、杏里の必死の応戦も空しく、零はフッと嗤っただけだった。
 　零が杏里の下腹から右腕を引き抜いた。
　その拍子に、傷口から節くれだったホースのような腸が、ずるずると引き出された。
　血まみれの小腸の絡みついたその手を、零が自分の首へと持っていく。
「何のつもり？」
　触手を両手でつかむと、やにわにべりべりと首から引き剥がした。
　すごい力だった。
　鎌首をつかまれた蛇のように、零の手の中で触手がのたうった。
「こんなもの」
　零が、腕を交互に引いた。
　ぶちっ。
　鈍い音がした。
　零が、いとも簡単に触手を引きちぎったのだった。
　二本の触手が、ちぎれたゴムのように丸まって、零のそれぞれの腕に絡みつく。
　触手の生えていた背中に鋭い痛みを覚え、杏里は小さくうめいた。
　絶望で、目の前が真っ暗になるのがわかった。
　やっぱり、だめだ。
　触手でも、この悪魔には対抗できないのだ…。
「これ、どんな味なのかしら？」
　零が右手に絡みついた触手を、口に頬張った。
　つぶれた触手からにじみ出る体液が、その口元からだらだらと滴り落ちる。
「不思議ね。これ、あなたの愛液の味がする」
　一本を食べ終えると、首をかしげて零が言った。
　そして、二本目を口に放り込むなり、杏里のほうにぐっと顔を近づけてきた。
「嘘だと思う？　ほんとだよ？　試してみる？」
　血だらけの杏里の口を、指で無理やりこじ開ける。
　そこに、咀嚼して唾液と混じり、ゼリー状になった触手のなれの果てを吐き出した。
　そもそも、内部が空洞の触手の中身は、媚薬成分と杏里の体液である。
　それが、一気に口の中いっぱいに広がり、どろどろと食道を流れ落ちた。
　その時だった。
　杏里の身体の芯で、何かに火がついた。
　ひどく弱々しい炎。
　でもそれが、神経を通って、少しずつ全身に広がっていく。
　杏里の目蓋が、おもむろに開いた。
　長い睫毛が、二、三度、瞬いた。
　ほんのわずかにだが、変化がある。
　そのことに、気づいたのだ。