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第8部 妄執のハーデス

#119 最後の一撃①

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 犬のように四つん這いになり、愛液で濡れ光る形のいい尻を高く掲げた杏里。
 その杏里の裸体を押しのけて、床から身をもたげたのは、水から上がったばかりのように、全身をぐっしょり濡らした由羅だった。
 杏里は子宮を引き抜かれたショックも忘れ、立ち上がる由羅の姿を凝視した。
 由羅の胴着もミニスカートも、透明な粘液に覆われて、ぬめぬめした光沢を帯びている。
 どうして…?
 胸に湧き上がる安堵の念とともに、杏里は思った。
 零の怪力であんなに殴られて、もうダメかと思ったのに…。
 が、床一面に広がった水たまりを見るにつけ、杏里にも由羅復活の理由がわかってきた。
 床を覆いつくしているのは、ただの水などではない。
 零に弄ばれるだけ弄ばれ、何度も達した杏里の放出した愛液である。
 杏里の体液は、唾液にしろ汗にしろ、すべて治癒能力を秘めているが、なかでも最も性能が高いのは、膣から分泌される愛液だ。
 現に、マコト戦の後も、三姉妹戦の後も、それで杏里は由羅の傷を癒してきた。
 奇しくも今回、全くの偶然の成り行きから、その愛液の海の中に、由羅は長時間漬かることができたというわけだ。
 避雷針で開けられた鳩尾の穴が塞がりかけているのが、その何よりの証左だった。
 倍以上の大きさに膨れ上がっていた顔も、今はほとんど元に戻り、持ち前の精悍さをすっかり取り戻している。
「あんた、まだ懲りないの?」
 由羅に左手首をつかまれ、途中で動きを止めたままの姿勢で、零が言った。
「もう、とっくにわかったはずでしょう? 虫けらの力じゃ、私に勝てないって」
「そいつはどうかな」
 右手で零の手首をつかみ、左手で顔をガードしながら、由羅が言い返す。
 由羅…逃げて。
 己の愛液の海の中に半身を起こし、杏里は祈るような思いで由羅を見つめている。
 せっかく生き返ったんだもの…。
 ここは私に任せて、早く逃げて。
 私なら、永遠に近い時間、零の相手をしていられる。
 それがいたちごっこの千日手だということは、わかりすぎるほど、わかっている。
 でも、少なくともこの身体の再生機能が許す限り、零をこの場に足止めしておける。
 だけど、あなたにそれは無理。
 抵抗しても、さっきみたいにまたボロボロにされちゃうだけだよ…。
 私、そんなあなたの姿、もう、見たくない…。
 その思いが届いたのか。
 ガードのために上げた腕の陰から、由羅がちらりと杏里のほうを一瞥した。
 わかってる。
 まるでそう答えるかのように、小さくうなずいた。
「まだ邪魔する気なら、今度こそ殺すよ」
 まなじりを吊り上げて凶悪な鬼女に変貌した零が、大きく右腕を振り上げた。
「その頭、脳味噌ごと、ぶっ潰す」
「やれるなら、やってみろ」
 由羅がにたりと笑って挑発した。
「零、おまえは所詮、無抵抗な杏里をいじめることでしか快楽を得られないド変態だ。生態系の頂点に立つ雌外来種? 人類の天敵? 地球最強の生物? へ、笑わせるぜ。ただの馬鹿力の、変態痴女のくせに」
「きさま!」
 零が怒りに任せて腕を振り下ろす。
 が、よけるかと思いきや、由羅はほんの少し、右に体をずらしただけだった。
 その左肩を、振り下ろされた零のこぶしが打ち砕く。
「由羅!」
 杏里が叫んで飛び起きた時である。
「馬鹿め」
 肩を砕かれたにもかかわらず、余裕の表情で、由羅がまた笑った。
 見ると、今は両手で零の左手首をつかんでいる。
「この左手首に、何が仕掛けられてるか、忘れたのか」
 あ。
 杏里は、はっとなった。
 由羅の狙いに気づいたのだ。
「地獄に帰れ。この悪魔」
 由羅が両手に力を込めた。
 めりっと金属の軋む音が響いた。
「くうっ!」
 零の顔から血の気が引いていく。
 由羅が、猛毒を仕込んだリストバンドを、零の左手首ごと、一気に押しつぶしたのだった。







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