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第8部 妄執のハーデス

#125 逆襲⑤

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 だが。
 いくら待っても、何も起きなかった。
 杏里は、止めていた息をふうっと吐き出した。
 薄目を開ける。
 目と鼻の先に、零の足があった。
 由羅に噛まれた、血まみれの左の足首だ。
 そこに生じている異変に気づいて、杏里は驚きに目を見開いた。
 零の左足首は、由羅の強力な顎の力のせいで、皮膚が破れ、その下の肉が裂け、白い骨の一部が覗いている。
 が、それだけではなかった。
 傷口から紫色の部分が広がり、足首からふくらはぎへと、網の目のような模様を描いているのだ。
 おそるおそる、視線でそれを追ってみた。
 網の目状の変色部位は、零のしなやかな太腿を覆い尽し、無毛の股間にまで達しかけていた。
 これは…毒?
 杏里は心の中で首をかしげた。
 どういうことなのだろう?
 零はリストバンドから漏れ出した毒を、左腕を自ら引き抜くという驚天動地の方法で無効にしてみせたはずである。
 なのに今、明らかに零の身体はその毒に冒されかけている…。
 あ。
 杏里の目が床の一点に釘付けになった。
 由羅の血と杏里の愛液が溶け合い、体育館の床にピンク色の海を形成している。
 その中に、浮木さながらに、由羅の手足が散乱していた。
 無残な光景だった。
 断末魔をそのまま形にしたかのようにねじ曲がった、2本の腕と2本の脚。
 そのどれもに、零が一部を食べた跡がある。
 杏里の目を引いたのは、その中の左の腕だった。
 リストバンドが、ない。
 それだけでなく、腕全体が、醜い赤紫色に変色してしまってる。
 その意味するところに思い至った瞬間、杏里の胸に刺すような悲しみがこみ上げてきた。
 おそらく、リスバンドを壊したのは、由羅自身に違いない。
 由羅は、死を覚悟で自分の身体に毒を注入したのだ。
 目的はひとつ。
 零の身体に、もう一度毒を注入すること。
 毒に冒された由羅の身体の一部を捕食したからなのか、噛みついた由羅の歯から毒素が伝わったのか、どちらかはわからない。
 だが、言えるのは、どうやら由羅の目論見は成功したらしいというそのことだった。
 胴体にまで汚染が進んだ以上、左腕と同様に左足を引きちぎったところで、もう手遅れである。
 足元から仰ぎ見ると、とほうに暮れて突っ立つ零の上半身が視界に入ってきた。
 今になって、ようやく身体中に現れた紫色の模様の意味に気づいたのだろう。
 信じられないといった表情で、己の全身を眺め渡している。
 やがて、その鬼女めいた貌に変化が現れた。
 それは苦痛の表情だった。
 ここまで汚染が広がって、ようやく毒が効いてきたのか、零の顔が苦しげに歪み始めた。
 杏里はその隙を逃さなかった。
 ずいぶんと小さくなってしまった由羅の身体を胸に抱きしめると、転がるように零の足元から抜け出した。
「ぐううううう! うわああああっ!」
 残った右腕で頭を抱え、零が咆哮した。
 髪の毛をかきむしり、大きくのけぞると、声を限りに叫び始める。
「痛い! 痛い! 痛い!」
 その声に、空気がびりびりと振動した。
「やったね…。由羅」
 断末魔の零を眺めながら、杏里はそっとつぶやいた。
 が。
 もはや、由羅は答えなかった。






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