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第8部 妄執のハーデス
#126 悪魔の敗走
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零が、動き始めた。
杏里には目も向けず、左足を引きずりながら、歩き始めたのだ。
途中でブラウスとスカートを拾い上げ、歩きながら身に着けた。
零がめざしているのは、体育館の奥。
彼女がここに出てくるのに使ったと思われる、通用口の扉のほうだ。
全身に毒が回り始めているというのに、その足取りは意外としっかりしている。
が、彼女が苦しんでいることは、背中で蛇のようにのたうつ髪の動きからそれとわかった。
扉の前に立つなり、零の右手が一閃した。
ドンっと腹に響く音がして、鋼の扉が吹っ飛んだ。
向こう側に倒れた扉を踏みつけて、中へ姿を消していく零。
その姿を、北条も監視カメラで追っていたのだろう。
ふいにサイレンが鳴り始めた。
-Xの逃亡を確認。総員配置につけ。また、救護班は第1体育館に直行し、生き残りの確保。繰り返すー
サイレンにかぶさって流れ始めたのは、まぎれもなく北条の声だ。
零が逃走を図った以上、もう、あの事務的な女性のアナウンスで、お茶を濁してはいられないと踏んだのか。
にわかにあわただしくなった空気の中、しかし、杏里はじっと由羅を抱きしめて座っていた。
正直、今の由羅の状態を目で確かめるのは、こわかった。
でも、そんなことは言ってはいられない。
救護班とやらが到着したら最後、きっと由羅とは引き離されてしまうだろう。
その前に、少しでも自分の手で由羅を治療してやりたかった。
杏里を救うために、文字通り由羅は己の命を投げ出したのだ。
なんとしてでも、その思いに報いたい。
それが杏里の切なる願いだった。
零が脱走して、委員会の手で抹殺されようが、あるいは逆に、包囲を突破して再び人間社会に紛れ込もうが、そんなことは今はどうでもよかった。
小包のように小さくなってしまった由羅の身体を、そろえた膝の上に置く。
抱えていた両腕を外し、改めてその姿に目をやった杏里は、錐で胸を突き刺されたような鋭い痛みに呻いた。
杏里の膝の上に横たわっているのは、あまりにも変わり果てたパートナーの姿だった。
正直、これほどとは思わなかった。
それが、最初に抱いた杏里の感想だった。
続いて、爆発するように目尻に涙があふれ出してきた。
熱い涙が無残な由羅の顔に落ち、その変色した頬を濡らしていく。
全身に毒が回った由羅は、さながら腐敗し始めた肉の塊だった。
もう、どこが目で、どこが鼻かもわからない。
手足をもぎ取られているせいで、頭部と胴だけの由羅は、悲しくなるほど小さかった。
「ごめんね、由羅。痛かったよね…。苦しかったよね」
指先でぐしゃぐしゃになった顔面を触っていき、かろうじて口を探り当てると、杏里はその上に身をかがめた。
そっと口づけすると、舌を伸ばして、もはや原型をとどめない由羅の唇を、その先端で慎重に割っていく。
舌を入れてみてわかったのは、由羅の口の中がたまった血でいっぱいだということだった。
それを辛抱強く吸い出し、飲み込むと、代わりに自分の唾液を少しずつ吐き出した。
同時に、床一面に広がって水たまりを形成している己の愛液を手ですくい、丹念に由羅の裸体にすり込んでいった。
こんなことで、由羅が回復するはずがない。
心のどこかで、そのことはわかりすぎるほど、わかっていた。
由羅の惨状は、はっきり言って、杏里の治癒能力の範疇を超えている。
自分自身の身ならばともかく、他人の手足の再生はさすがの杏里にも無理だし、しかも由羅はすでに毒にも冒されているのだ。
杏里にできることといえば、この応急処置で、由羅の体内に入った毒の拡散を遅らせることくらいだった。
どのくらいの時間、そうしていたのか。
ふと気づくと、背後に人の気配がした。
「笹原杏里。約束だ。君を助けてやろう」
北条の声だった。
その声に振り向くと、杏里は由羅を抱きしめて叫んだ。
「見てわからない? 助けてほしいのは、私じゃない!」
杏里には目も向けず、左足を引きずりながら、歩き始めたのだ。
途中でブラウスとスカートを拾い上げ、歩きながら身に着けた。
零がめざしているのは、体育館の奥。
彼女がここに出てくるのに使ったと思われる、通用口の扉のほうだ。
全身に毒が回り始めているというのに、その足取りは意外としっかりしている。
が、彼女が苦しんでいることは、背中で蛇のようにのたうつ髪の動きからそれとわかった。
扉の前に立つなり、零の右手が一閃した。
ドンっと腹に響く音がして、鋼の扉が吹っ飛んだ。
向こう側に倒れた扉を踏みつけて、中へ姿を消していく零。
その姿を、北条も監視カメラで追っていたのだろう。
ふいにサイレンが鳴り始めた。
-Xの逃亡を確認。総員配置につけ。また、救護班は第1体育館に直行し、生き残りの確保。繰り返すー
サイレンにかぶさって流れ始めたのは、まぎれもなく北条の声だ。
零が逃走を図った以上、もう、あの事務的な女性のアナウンスで、お茶を濁してはいられないと踏んだのか。
にわかにあわただしくなった空気の中、しかし、杏里はじっと由羅を抱きしめて座っていた。
正直、今の由羅の状態を目で確かめるのは、こわかった。
でも、そんなことは言ってはいられない。
救護班とやらが到着したら最後、きっと由羅とは引き離されてしまうだろう。
その前に、少しでも自分の手で由羅を治療してやりたかった。
杏里を救うために、文字通り由羅は己の命を投げ出したのだ。
なんとしてでも、その思いに報いたい。
それが杏里の切なる願いだった。
零が脱走して、委員会の手で抹殺されようが、あるいは逆に、包囲を突破して再び人間社会に紛れ込もうが、そんなことは今はどうでもよかった。
小包のように小さくなってしまった由羅の身体を、そろえた膝の上に置く。
抱えていた両腕を外し、改めてその姿に目をやった杏里は、錐で胸を突き刺されたような鋭い痛みに呻いた。
杏里の膝の上に横たわっているのは、あまりにも変わり果てたパートナーの姿だった。
正直、これほどとは思わなかった。
それが、最初に抱いた杏里の感想だった。
続いて、爆発するように目尻に涙があふれ出してきた。
熱い涙が無残な由羅の顔に落ち、その変色した頬を濡らしていく。
全身に毒が回った由羅は、さながら腐敗し始めた肉の塊だった。
もう、どこが目で、どこが鼻かもわからない。
手足をもぎ取られているせいで、頭部と胴だけの由羅は、悲しくなるほど小さかった。
「ごめんね、由羅。痛かったよね…。苦しかったよね」
指先でぐしゃぐしゃになった顔面を触っていき、かろうじて口を探り当てると、杏里はその上に身をかがめた。
そっと口づけすると、舌を伸ばして、もはや原型をとどめない由羅の唇を、その先端で慎重に割っていく。
舌を入れてみてわかったのは、由羅の口の中がたまった血でいっぱいだということだった。
それを辛抱強く吸い出し、飲み込むと、代わりに自分の唾液を少しずつ吐き出した。
同時に、床一面に広がって水たまりを形成している己の愛液を手ですくい、丹念に由羅の裸体にすり込んでいった。
こんなことで、由羅が回復するはずがない。
心のどこかで、そのことはわかりすぎるほど、わかっていた。
由羅の惨状は、はっきり言って、杏里の治癒能力の範疇を超えている。
自分自身の身ならばともかく、他人の手足の再生はさすがの杏里にも無理だし、しかも由羅はすでに毒にも冒されているのだ。
杏里にできることといえば、この応急処置で、由羅の体内に入った毒の拡散を遅らせることくらいだった。
どのくらいの時間、そうしていたのか。
ふと気づくと、背後に人の気配がした。
「笹原杏里。約束だ。君を助けてやろう」
北条の声だった。
その声に振り向くと、杏里は由羅を抱きしめて叫んだ。
「見てわからない? 助けてほしいのは、私じゃない!」
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