上 下
277 / 288
第8部 妄執のハーデス

#126 悪魔の敗走

しおりを挟む
 零が、動き始めた。
 杏里には目も向けず、左足を引きずりながら、歩き始めたのだ。
 途中でブラウスとスカートを拾い上げ、歩きながら身に着けた。
 零がめざしているのは、体育館の奥。
 彼女がここに出てくるのに使ったと思われる、通用口の扉のほうだ。
 全身に毒が回り始めているというのに、その足取りは意外としっかりしている。
 が、彼女が苦しんでいることは、背中で蛇のようにのたうつ髪の動きからそれとわかった。
 扉の前に立つなり、零の右手が一閃した。
 ドンっと腹に響く音がして、鋼の扉が吹っ飛んだ。
 向こう側に倒れた扉を踏みつけて、中へ姿を消していく零。
 その姿を、北条も監視カメラで追っていたのだろう。
 ふいにサイレンが鳴り始めた。
 -Xの逃亡を確認。総員配置につけ。また、救護班は第1体育館に直行し、生き残りの確保。繰り返すー
 サイレンにかぶさって流れ始めたのは、まぎれもなく北条の声だ。
 零が逃走を図った以上、もう、あの事務的な女性のアナウンスで、お茶を濁してはいられないと踏んだのか。
 にわかにあわただしくなった空気の中、しかし、杏里はじっと由羅を抱きしめて座っていた。
 正直、今の由羅の状態を目で確かめるのは、こわかった。
 でも、そんなことは言ってはいられない。
 救護班とやらが到着したら最後、きっと由羅とは引き離されてしまうだろう。
 その前に、少しでも自分の手で由羅を治療してやりたかった。
 杏里を救うために、文字通り由羅は己の命を投げ出したのだ。
 なんとしてでも、その思いに報いたい。
 それが杏里の切なる願いだった。
 零が脱走して、委員会の手で抹殺されようが、あるいは逆に、包囲を突破して再び人間社会に紛れ込もうが、そんなことは今はどうでもよかった。
 小包のように小さくなってしまった由羅の身体を、そろえた膝の上に置く。
 抱えていた両腕を外し、改めてその姿に目をやった杏里は、錐で胸を突き刺されたような鋭い痛みに呻いた。
 杏里の膝の上に横たわっているのは、あまりにも変わり果てたパートナーの姿だった。
 正直、これほどとは思わなかった。
 それが、最初に抱いた杏里の感想だった。
 続いて、爆発するように目尻に涙があふれ出してきた。
 熱い涙が無残な由羅の顔に落ち、その変色した頬を濡らしていく。
 全身に毒が回った由羅は、さながら腐敗し始めた肉の塊だった。
 もう、どこが目で、どこが鼻かもわからない。
 手足をもぎ取られているせいで、頭部と胴だけの由羅は、悲しくなるほど小さかった。
「ごめんね、由羅。痛かったよね…。苦しかったよね」
 指先でぐしゃぐしゃになった顔面を触っていき、かろうじて口を探り当てると、杏里はその上に身をかがめた。
 そっと口づけすると、舌を伸ばして、もはや原型をとどめない由羅の唇を、その先端で慎重に割っていく。
 舌を入れてみてわかったのは、由羅の口の中がたまった血でいっぱいだということだった。
 それを辛抱強く吸い出し、飲み込むと、代わりに自分の唾液を少しずつ吐き出した。
 同時に、床一面に広がって水たまりを形成している己の愛液を手ですくい、丹念に由羅の裸体にすり込んでいった。
 こんなことで、由羅が回復するはずがない。
 心のどこかで、そのことはわかりすぎるほど、わかっていた。
 由羅の惨状は、はっきり言って、杏里の治癒能力の範疇を超えている。
 自分自身の身ならばともかく、他人の手足の再生はさすがの杏里にも無理だし、しかも由羅はすでに毒にも冒されているのだ。
 杏里にできることといえば、この応急処置で、由羅の体内に入った毒の拡散を遅らせることくらいだった。
 どのくらいの時間、そうしていたのか。
 ふと気づくと、背後に人の気配がした。
「笹原杏里。約束だ。君を助けてやろう」
 北条の声だった。
 その声に振り向くと、杏里は由羅を抱きしめて叫んだ。
「見てわからない? 助けてほしいのは、私じゃない!」

しおりを挟む

処理中です...