278 / 288
第8部 妄執のハーデス
#127 人形少女①
しおりを挟む
「驚いたな」
由羅を抱え、立ち上がった杏里の全身をしげしげと眺めて、北条が言った。
「もう、そこまで回復しているのか。見たところ、どこも悪くない。聞きしに勝る生命力だな」
「私のことはいいの。それより、由羅を」
杏里の頬を滂沱の涙が伝った。
「正直、そのパトスは、もう手遅れという気がするが…いいだろう。約束だ。施設のラボに運ばせることにしよう」
それからのことは、あまり細かく覚えていない。
体育館になだれ込んできた白衣の男たちが杏里の腕から由羅をもぎ取り、担架に乗せる様子をただ茫然と眺めていたように思う。
担架の上の由羅は、杏里の体液に包まれて、なんだか大きな昆虫の繭のように光っていた。
その光景だけが、妙にくっきりと瞼の裏に焼きついている。
奇妙な非現実感に苛まれているうちに、自分も担架に乗せられ、長い廊下を運ばれていった。
世界と自分の間にいつのまにか透明なベールが生まれ、それを通して外界を眺めているような、ひどく心もとない感覚だった。
廊下は怒声を上げて右往左往する警備員や警官たちで、大混乱に陥っていた。
逃げた零を追うべく、武装した男たちが杏里の横をすり抜けて、我先にと体育館に突入していった。
その蜂の巣をつついたような喧噪のただ中を、流れに逆らって担架で運ばれていくうちに、杏里は抗し難い疲労に襲われ、いつのまにか眠ってしまったようだ。
次に目覚めたのは、学校の保健室を連想させる小奇麗な部屋だった。
トーナメント戦の間あてがわれていた、あの独房のような殺風景な部屋に比べると、照明も明るく、ずいぶんと快適な印象だ。
ベッドの上の布団も柔らかく、清潔な匂いがする。
杏里自身、新品の病衣に着替えさせられていて、なぜか風呂から上がったばかりのように、身体中がさっぱりしている。
「目が覚めた?」
声がしたので振り向くと、衝立の陰から白衣の女性が現れた。
肩まで髪を垂らした、スタイルのいい、彫りの深い顔立ちをした女である。
「冬美さん…」
意外な出会いに、杏里は小さくつぶやいた。
冬美は由羅と重人のトレーナー兼後見人である。
いわば、杏里にとっての小田切のような存在だ。
小田切の話では、上司に昇格した冬美も、緊急会議の準備のために、先にここへ来ているとのことだった。
それが、まさかこんなところで再会することになろうとは…。
「大変だったわね」
無表情に杏里を見下ろして、水谷冬美が言った。
「でも、よかった。あなたが生き残ってくれて。あなたが負けてたら、私たちのタナトス計画は、根底から覆ってしまうもの」
「そんなことより、由羅は…由羅は助かるんですか?」
身体ごと冬美に向き直ると、杏里はつっかかるようにたずねた。
「どうかしら」
白衣のポケットに両手をつっこんだまま、さほど感情のこもらない声音で、冬美が答えた。
「一応ここには、最先端の医療設備が揃ってはいるけれど、あの状態ではね…。極めて厳しいとしか言えないわ」
「そ、そんな…」
肩を震わせ、シーツの上にぽたぽた涙を落とし始める杏里。
由羅が死んでしまったら、私は、どうすればいいの…?
由羅の命と引き換えに生き永らえる価値なんて、私にはないのに…。
「由羅はよくやったと思う。彼女にしては上出来だった。正直、あそこまでやってくれるとは思わなかったから、私も”保護者”として鼻が高いわ。たとえそれで命を落としたとしても、本人もきっと満足なはずよ」
冬美は、相変わらずクールだった。
杏里は怒りを通り越して、悲しくなった。
冬美の下で管理され、由羅は孤独だったのではないだろうか。
今になって、痛いほどそう思う。
冬美は初期の頃、由羅をコントロールするために、SMプレイで調教していたほどだ。
そこに愛はなく、冬美にとって、由羅はいつでも代わりの利く人形のような存在に過ぎなかった…。
私が、もっと、しっかりしていれば。
シーツの端を両手で握りしめ、杏里は泣いた。
その杏里に、事務的な口調で、冬美が言った。
「さ、目が覚めたのなら、早く支度をして。”彼女”があなたに会いたがってるわ。なんでも、とっても大事な話があるそうよ」
え…。
杏里の肩の震えが止まった。
どういうこと…?
もう、帰れるんじゃ、なかったの?
連休は今日で終わって、学校が明日から始まるはずなのに。
「彼女…って?」
おずおずとそうたずねると、冬美が射るようなまなざしで杏里を見た。
「もう知り合いなんでしょう? ここのみんなは、彼女をこう呼んでるわ。そう、”サイコジェニー”ってね」
由羅を抱え、立ち上がった杏里の全身をしげしげと眺めて、北条が言った。
「もう、そこまで回復しているのか。見たところ、どこも悪くない。聞きしに勝る生命力だな」
「私のことはいいの。それより、由羅を」
杏里の頬を滂沱の涙が伝った。
「正直、そのパトスは、もう手遅れという気がするが…いいだろう。約束だ。施設のラボに運ばせることにしよう」
それからのことは、あまり細かく覚えていない。
体育館になだれ込んできた白衣の男たちが杏里の腕から由羅をもぎ取り、担架に乗せる様子をただ茫然と眺めていたように思う。
担架の上の由羅は、杏里の体液に包まれて、なんだか大きな昆虫の繭のように光っていた。
その光景だけが、妙にくっきりと瞼の裏に焼きついている。
奇妙な非現実感に苛まれているうちに、自分も担架に乗せられ、長い廊下を運ばれていった。
世界と自分の間にいつのまにか透明なベールが生まれ、それを通して外界を眺めているような、ひどく心もとない感覚だった。
廊下は怒声を上げて右往左往する警備員や警官たちで、大混乱に陥っていた。
逃げた零を追うべく、武装した男たちが杏里の横をすり抜けて、我先にと体育館に突入していった。
その蜂の巣をつついたような喧噪のただ中を、流れに逆らって担架で運ばれていくうちに、杏里は抗し難い疲労に襲われ、いつのまにか眠ってしまったようだ。
次に目覚めたのは、学校の保健室を連想させる小奇麗な部屋だった。
トーナメント戦の間あてがわれていた、あの独房のような殺風景な部屋に比べると、照明も明るく、ずいぶんと快適な印象だ。
ベッドの上の布団も柔らかく、清潔な匂いがする。
杏里自身、新品の病衣に着替えさせられていて、なぜか風呂から上がったばかりのように、身体中がさっぱりしている。
「目が覚めた?」
声がしたので振り向くと、衝立の陰から白衣の女性が現れた。
肩まで髪を垂らした、スタイルのいい、彫りの深い顔立ちをした女である。
「冬美さん…」
意外な出会いに、杏里は小さくつぶやいた。
冬美は由羅と重人のトレーナー兼後見人である。
いわば、杏里にとっての小田切のような存在だ。
小田切の話では、上司に昇格した冬美も、緊急会議の準備のために、先にここへ来ているとのことだった。
それが、まさかこんなところで再会することになろうとは…。
「大変だったわね」
無表情に杏里を見下ろして、水谷冬美が言った。
「でも、よかった。あなたが生き残ってくれて。あなたが負けてたら、私たちのタナトス計画は、根底から覆ってしまうもの」
「そんなことより、由羅は…由羅は助かるんですか?」
身体ごと冬美に向き直ると、杏里はつっかかるようにたずねた。
「どうかしら」
白衣のポケットに両手をつっこんだまま、さほど感情のこもらない声音で、冬美が答えた。
「一応ここには、最先端の医療設備が揃ってはいるけれど、あの状態ではね…。極めて厳しいとしか言えないわ」
「そ、そんな…」
肩を震わせ、シーツの上にぽたぽた涙を落とし始める杏里。
由羅が死んでしまったら、私は、どうすればいいの…?
由羅の命と引き換えに生き永らえる価値なんて、私にはないのに…。
「由羅はよくやったと思う。彼女にしては上出来だった。正直、あそこまでやってくれるとは思わなかったから、私も”保護者”として鼻が高いわ。たとえそれで命を落としたとしても、本人もきっと満足なはずよ」
冬美は、相変わらずクールだった。
杏里は怒りを通り越して、悲しくなった。
冬美の下で管理され、由羅は孤独だったのではないだろうか。
今になって、痛いほどそう思う。
冬美は初期の頃、由羅をコントロールするために、SMプレイで調教していたほどだ。
そこに愛はなく、冬美にとって、由羅はいつでも代わりの利く人形のような存在に過ぎなかった…。
私が、もっと、しっかりしていれば。
シーツの端を両手で握りしめ、杏里は泣いた。
その杏里に、事務的な口調で、冬美が言った。
「さ、目が覚めたのなら、早く支度をして。”彼女”があなたに会いたがってるわ。なんでも、とっても大事な話があるそうよ」
え…。
杏里の肩の震えが止まった。
どういうこと…?
もう、帰れるんじゃ、なかったの?
連休は今日で終わって、学校が明日から始まるはずなのに。
「彼女…って?」
おずおずとそうたずねると、冬美が射るようなまなざしで杏里を見た。
「もう知り合いなんでしょう? ここのみんなは、彼女をこう呼んでるわ。そう、”サイコジェニー”ってね」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
51
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる