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#52 集中治療室へ
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「レンゲ、手伝って。こいつをどけるから」
「あいさ」
ふたりの看護師が、「せーの」と声を合わせ、昏倒した化け物を扉の前から撤去した。
その隙に先生がベッドを押し込み、作業を終えた乙都と蓮月が飛び込んでくると、ドアが閉まった。
閉まる寸前、枯れ木みたいな何本もの腕が伸びてきて、ドアのすき間に入り込み、両側にこじ開けようとした。
それはまるで昔見たゾンビ映画のワンシーンそのもので、僕はカテーテルなしで危うく失禁するところだった。
「この! この! この!」
うねうねと動く無数の手を、蓮月が点滴スタンドで押しのける。
「死ね! 死ね! 死ね!」
乙都が注射器で加勢すると、ようやく腕たちが引っ込んでドアが閉まり、エレベーターが下降し始めた。
静寂が戻ったエレベーターの中は、磯臭いような悪臭で息も詰まりそうなほどだった。
死んだ魚の腐臭に似た臭気に、ともすれば嘔吐しそうになる。
「あ、あの、ちょっと、いいですか?」
吐き気をこらえて、誰にともなく、僕はたずねた。
「いったいここでは、何が起こってるんでしょう?」
「前に言わなかったか?」
ベッドの足元のほうに立っている先生が、僕を見下ろして言った。
「この病棟は、昼間と夜では、世界の”相”、すなわち、フェーズが変わるんだよ」
相?
フェーズ?
聞いたような気がする。
でも、なんのことかわからないのは相変わらずである。
「その、フェーズが変わるっていうのは、どういうことなんでしょう?」
「意識が連続しているというのも困りものだな」
ちらりと乙都のほうを見て、先生が続けた。
「この状況に慣れるには、彼女らのように、人格を使い分けるのが一番なんだが…。正気を保つためにね」
「ですよねー」
僕らの会話をしっかり聞いていたらしく、大げさにうなずいたのは、蓮月だった。
「夜の記憶を全部持ったまま昼間の世界に行ったら、あたしきっと、何が現実かわかんなくなっちゃいますよ」
「同感」
黒いマスクから出た大きな目を、乙都が僕に向けた。
「だから颯太も、今夜のことは早く忘れることだね」
「は、はあ…」
そんなこと言われたって、こんな悪夢のような体験、そう簡単に忘れられるとは思えないんだが…。
「まあ、これから行う手術の結果次第だな。そもそも、生体増殖血管の移植が彼にどんな影響を与えるかは、神のみぞ知るってところだからね。よくて心機能の回復、悪ければ脳死状態。ただ、こちらとしては、彼のあの器官さえ生きていればそれでいいわけだが」
「ホウジョウ部長もそれをお望みということでしたものね」
少し力のない口調で、乙都が先生の説明に同意する。
「どうしたの? オト。なんか急に元気失くしちゃったみたいだけど」
めざとくその変化に気づいた蓮月が突っ込むと、乙都がなんとなく悲しそうな眼になった。
「いや、こいつが脳死状態になったりすると、昼間のオトが悲しむと思ってさ。うちはどうでもいいんだけどね」
昼間のオト?
先生の言葉から察するに、ということは、やはりこのブラックな注射器娘は彼女の別人格ってか?
と、その時だった。
かすかに床が揺れて、エレベーターが止まった。
「さ、ふたりとも、無駄口はそこまでだ。ドアが開いたら、ICUの入口まで突っ走る。鬼が出るか、蛇が出るか。それはドアが開いてからのお楽しみってわけだ。行くぞ。用意はいいな?」
ベッドの手すりを握り直して、低く押し殺した声で、叱りつけるように、瑞季先生が言った。
「あいさ」
ふたりの看護師が、「せーの」と声を合わせ、昏倒した化け物を扉の前から撤去した。
その隙に先生がベッドを押し込み、作業を終えた乙都と蓮月が飛び込んでくると、ドアが閉まった。
閉まる寸前、枯れ木みたいな何本もの腕が伸びてきて、ドアのすき間に入り込み、両側にこじ開けようとした。
それはまるで昔見たゾンビ映画のワンシーンそのもので、僕はカテーテルなしで危うく失禁するところだった。
「この! この! この!」
うねうねと動く無数の手を、蓮月が点滴スタンドで押しのける。
「死ね! 死ね! 死ね!」
乙都が注射器で加勢すると、ようやく腕たちが引っ込んでドアが閉まり、エレベーターが下降し始めた。
静寂が戻ったエレベーターの中は、磯臭いような悪臭で息も詰まりそうなほどだった。
死んだ魚の腐臭に似た臭気に、ともすれば嘔吐しそうになる。
「あ、あの、ちょっと、いいですか?」
吐き気をこらえて、誰にともなく、僕はたずねた。
「いったいここでは、何が起こってるんでしょう?」
「前に言わなかったか?」
ベッドの足元のほうに立っている先生が、僕を見下ろして言った。
「この病棟は、昼間と夜では、世界の”相”、すなわち、フェーズが変わるんだよ」
相?
フェーズ?
聞いたような気がする。
でも、なんのことかわからないのは相変わらずである。
「その、フェーズが変わるっていうのは、どういうことなんでしょう?」
「意識が連続しているというのも困りものだな」
ちらりと乙都のほうを見て、先生が続けた。
「この状況に慣れるには、彼女らのように、人格を使い分けるのが一番なんだが…。正気を保つためにね」
「ですよねー」
僕らの会話をしっかり聞いていたらしく、大げさにうなずいたのは、蓮月だった。
「夜の記憶を全部持ったまま昼間の世界に行ったら、あたしきっと、何が現実かわかんなくなっちゃいますよ」
「同感」
黒いマスクから出た大きな目を、乙都が僕に向けた。
「だから颯太も、今夜のことは早く忘れることだね」
「は、はあ…」
そんなこと言われたって、こんな悪夢のような体験、そう簡単に忘れられるとは思えないんだが…。
「まあ、これから行う手術の結果次第だな。そもそも、生体増殖血管の移植が彼にどんな影響を与えるかは、神のみぞ知るってところだからね。よくて心機能の回復、悪ければ脳死状態。ただ、こちらとしては、彼のあの器官さえ生きていればそれでいいわけだが」
「ホウジョウ部長もそれをお望みということでしたものね」
少し力のない口調で、乙都が先生の説明に同意する。
「どうしたの? オト。なんか急に元気失くしちゃったみたいだけど」
めざとくその変化に気づいた蓮月が突っ込むと、乙都がなんとなく悲しそうな眼になった。
「いや、こいつが脳死状態になったりすると、昼間のオトが悲しむと思ってさ。うちはどうでもいいんだけどね」
昼間のオト?
先生の言葉から察するに、ということは、やはりこのブラックな注射器娘は彼女の別人格ってか?
と、その時だった。
かすかに床が揺れて、エレベーターが止まった。
「さ、ふたりとも、無駄口はそこまでだ。ドアが開いたら、ICUの入口まで突っ走る。鬼が出るか、蛇が出るか。それはドアが開いてからのお楽しみってわけだ。行くぞ。用意はいいな?」
ベッドの手すりを握り直して、低く押し殺した声で、叱りつけるように、瑞季先生が言った。
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