異世界病棟

戸影絵麻

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#73 変異②

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「立てる?」
 気づかわしげに、蓮月が言った。
 人のことなど気にしそうにないこの女大夫には、珍しいことだった。
「あ、ああ」
 うなずいたものの、手がベッドの柱に届かない。
 見ると、病衣から突き出た右手も左手も、まるで枯れ枝のように妙に短く、細くなっている。
 足も同じだった。
 躰を支えるのが難儀なほどひ弱になり、膝から下に力が入らない。
 代わって頑丈になったのは、胴だった。
 丸太みたいに太くなった胴は腹の所で大きく湾曲し、床を擦らんばかりに垂れ下がっている。
 そしてもうひとつ気に入らないのは、全身が粘液にまみれていることだ。
 初めは汗かと思っていたが、どうもそうではなさそうだ。
 毛穴からにじみ出てくるのは、ジェル状の黄色っぽい粘液なのである。
 折れそうな手でベッドの支柱をつかみ、なんとか僕は立ち上がった。
 上半身のバランスが悪いのか、頭が異様に重く、ぐらりとふらついた。
 鋼鉄の玉のように重たくなったこうべをめぐらせた僕は、何気なく右手を見た。
 蓮月の開けたカーテンの向こう。
 外が暗くなった窓に、部屋の内部が映っている。
 そこに、不気味なものが屹立していた。
 毛髪の一本もない、紡錘形の頭部。
 頭部と同じ太さの首には白い脂肪の輪のようなものが盛り上がり、そのまま猫背の背中に続いている。
 病衣からはみ出た下半身は、おびただしい円環を重ね合わせたチューブのようなものだった。
 強いて似ているモノを挙げるとすれば、短い手足の生えた等身大の蚯蚓ー。
 そんなところだろうか。
「こ、これが、僕?」
 声を発すると、鏡になった窓の中の化け物の口が、唾液の糸を引いてくわっと開いた。
「あんた、妖蛆になっちまったのさ」
 およそこの女らしからぬ怯んだような表情を濃い顔に浮かべ、蓮月が言った。
「薬が切れちゃったから、こればっかりはしようがないやね」
「ようそ、って…」
 そうか。ようそとは、妖しい”蛆”の意味だったのか。
 ”蛆”とは、蛆虫を表す漢字である。
 では、この節くれ立った環形動物のような身体は、蚯蚓ではなく、蛆虫の者というわけか…。
 これじゃ、まるで、フランツ・カフカの不条理小説、『変身』だ。
『変身』では、主人公グレゴール・ザムザは、ある朝、理由もなく毒虫に変身してしまい、その後理不尽な運命に翻弄され、やがて無意味な死を迎える。
 僕の場合は、もっとひどい。
 まさか、巨大なウジムシに変身するなんて…。
 これが、あの手術の代償なのか。
 命の代わりに、僕が得たものなのか。
 信じられなかった。
 いや、信じたくなかった。
 が、窓ガラスに映る像は消えようとしなかった。
 退化した手で、肉に埋もれた小さな眼を何度こすってみても、駄目だった。
 その直立する等身大の蛆虫は、ゆらゆら身体を揺らしながら、いつまでも僕を見つめ返していたのだ…。

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