汚れちまった悲しみに、きょうも血潮が降り注ぐ

戸影絵麻

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#2 兆候

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 カップラーメンを作ろうと台所に立ち、相原巧はふと眉をひそめた。
 食器入れから、見慣れぬものが突き出ている。
「なんだろ、これ?」
 柄を持って引き抜くと、真新しいステンレス製の包丁だった。
「ん? こんなもの、うちにあったっけ?」
 刃先にまだ値段シールが貼ってあるところを見ると、どうやら買ったばかりらしい。
 値段の下には、近所のショッピングモールの店名が印刷されている。
 が、頭をひねってみても、最近そこへ行った記憶はない。
 大学の後期試験、家庭教師の教え子の受験指導で、とてもそれどころではなかったはずだからである。
 巧は、ここN市にある国立大学の2回生だ。
 ついさきほど、家庭教師先から帰宅したばかりである。
 といってもきょうは授業ではなく、教え子の斎藤ユイカの合格祝いみたいなものだった。
 本来なら先週で契約は切れていたのだが、念願の私立大学に合格したユイカの両親から、先生もぜひ、と呼ばれていたのである。
 一時はあれほど神経質になってとんがっていたユイカだったが、今夜は始終上機嫌だった。
 綺麗に着飾り、ほとんど恋人気取りでべたべたくっついてくるのには、心底閉口した。
 高校3年生ながら、ユイカはそこそこの美人である。
 友人たちに話したら、さぞうらやましがられるに違いない。
 が、巧はここ半年ほどで妙に色気づいてきたユイカが、正直苦手だった。
 仕事と割り切って週2回、英語と数学を教えてきたが、はっきりいって、限界だったと思う。
 だから合格の知らせを聞いた時、何より喜んだのは巧のほうだった。
 これであの女から解放される。
 そんな爽快感で、天にも昇る心地だったのだ。
 ともあれ、ユイカの合格パーティという最後の大仕事が終わり、しばらくはゆっくりできるはずだった。
 春休みも近い。
 久しぶりに旅行に出てみるのも、いいかもしれない。
 包丁を食器ケースに戻し、そんなことを考えながら、窓際のデッキチェアに座った時である。
 巧はふと、さっき帰り際に目撃した光景を思い出し、びくりと身を震わせた。
 この真下の105号室。
 ベランダにうずくまるピンクのパジャマ。
 思い出すと居ても立ってもいられなくなり、サッシ窓を開けて、そっと外に首を出した。
 下に目をやると、ピンクの塊はまだそこにあった。
 小学校低学年ぐらいの女児である。
 エアコンの室外機の陰にうずくまり、両手で膝を抱えて頭を落としている。
  ありえないことだが、少女は裸足だった。
 来ているのも、イチゴの模様のついた薄いパジャマだけのようだ。
 巧がベランダの前を通ってから、すでに1時間は経っている。
 その間、あの子はずっとあそこに居たのだろうか。
 今は2月半ばで、外はかなり寒い。
 このままでは、凍死してしまうのではないか。
 ふとそんな考えが脳裏をかすめた。
 いったい親は何をしてるんだ?
 冷たい怒りがこみあげてくる。
 105号室の住人には、ほとんど会ったことがない。
 最近転居してきたばかりらしく、引っ越しの際にちらと姿を見かけただけだ。
 眼鏡をかけた神経質そうな若い父親。
 大柄で美人だが、能面のような表情の母親。
 父親が小さな男の子を抱き、母親があの少女の手を引いていたように思う。
 目のくりくりした、可愛らしい顔立ちの少女だった。
 それ以来、姿を見かけたことはない。
 ただ、時折、声がした。
 母親らしき女性の叱咤の声。
 泣きながらあやまる少女の声。
 そこに時々低い男の声が混じった。
 何かが壁にぶつかる音。
 少女の悲鳴。
 児童虐待。
 その可能性は、高い。
 少女が夜、ベランダにいる姿を見かけたのも、今晩が初めてではなかった。
 2週間ほど前も、そんなことがあったように思う。
 けど、だからといって、大学生の巧にはどうしていいのかわからない。
 警察に通報?
 それとも児童相談所?
 あれこれ考えていると、コツコツとアスファルトを踏む足音が近づいてきた。
 角を回って現れたのは、ベージュのコートにマフラーの、小柄な女性だった。
 年のころは20代半ばくらいだろうか。
 髪型はボブカットで、全体的に地味な印象の女性である。
 アパートの前を通りかかったところで、その女性が雷にでも打たれたように突然立ち止まるのが見えた。
 このアパートの各部屋のベランダは道路に面していて、鉄柵の間から中を覗き込むことができる。
 おそらく巧がさっき気づいたように、あの女性もベランダの少女に気づいたに違いない。
「行くか」
 煙草とライター、それに部屋の鍵をコットンパンツのポケットに突っ込むと、巧は椅子から腰を上げた。
 ひとりで対処する勇気はないが、ふたりならなんとかなる。
 そんな気がしたからだった。

 
 
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