汚れちまった悲しみに、きょうも血潮が降り注ぐ

戸影絵麻

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#29 忘却 

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 部屋に戻ると、乃亜が台所から振り返って、不機嫌そうに言った。
「この家、包丁くらいないのかな? これじゃ、ケーキが切れないじゃない」
 巧はローテーブルの上に置かれたバースディケーキを見下ろした。
 きょうは、巧の20歳の誕生日である。
 それにかこつけて、妹の乃亜が、ケーキ持参で押しかけてきたのだ。
「包丁?」
 頭の隅で何かが蠢いた気がした。
「あるだろ? この前買ったばかりのが」
「だから、ないんだってば。ま、いいか、こっちの果物ナイフで」
 紙皿と果物ナイフを手に、乃亜が戻ってきた。
 乃亜は高校2年生。
 同じ市内に、両親と一緒に住んでいる。
 近いにもかかわらず、巧がいっこうに実家によりつかないので、何かと口実を設けてはこのアパートに押しかけてくる。
 今晩のネタは、巧の20歳の誕生日というわけだ。
「ほんと、お兄ちゃんったら、物忘れが激しいんだから」
 テーブルの向かい側に正座して、恨めしそうに乃亜が言った。
「きょうのことだってさ、ほんとは先週LINEで約束してあったのに」
 台所で口をすすぎ、マウスウォッシュでたばこの匂いを消すと、巧は乃亜の前に座った。
 白いセーターにダメージジーンズといったラフな服装だが、乃亜はどちらかといえば美少女の類いに入る。
 その切れ長の瞳がじっと巧をにらみつけているのは、今日の昼、一緒に映画を見るという約束を巧がすっぽかしたからだった。
 といっても、巧にはその自覚はなく、だいたいそんなLINEメッセージが来ていたことすら忘れてしまっていた。
「だから、悪かったって言ってるだろ。全然記憶にないんだから、しょうがないじゃないか」
 乃亜が淹れた紅茶をひと口すすり、巧は言い返した。
「なによ、楽しみにしてるって、返事までよこしたくせに。だから安心してたのに」
 俺が、返事を?
 何の話だ?
 そうは思ったが、ここは下手につつかないほうがいい気がした。
 どうせまた、健忘症扱いされるに決まっている。
「それより、ケーキ食ったらすぐ帰れよな。バス、なくなっちゃうぞ」
 話題を変えようと、何げなくそう口にしたとたん、乃亜の形のいい眉毛が吊り上がった。
「えー? 泊めてくれないの? 鬼! 鬼畜! まさか、この夜中に可愛い妹を追い返すつもり?」
「はあ? こんな汚い所に泊まってくつもりかよ?」
 巧が呆れた声で言った時、乃亜の眼がさっと窓のほうを見た。
 サイレンの音が聞こえてくる。
 だんだん近くなってくるようだ。
 乃亜がすっと息を吸い込んだ。
「パトカーだよ。何かあったのかな。なんだか、すぐそこに止まったみたい」

 
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