散らない桜

戸影絵麻

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#2 肉の味

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 飢餓状態にある彼には、それが美味いのかどうかすら、わからなかった。
 
 ただ言えるのは、栄養状態の劣悪な日本兵たちの肉は、酷く筋張っていて食べられる部位がひどく少ないということだ。

 柔らかくて滋養に富んでいるのは臓物だが、湿度が高い熱帯雨林の中である。

 その部分は死体の中でも腐敗が早く、よほど新鮮な兵隊の死体でないと食すことは不可能だった。

 それでも、密林を這い進みながら、彼は食べて食べて食べまくった。

 贅沢を言わなければ、食料に事欠くことはなかった。

 移動しやすい海岸線は、とうの昔に、すべて連合国軍に押さえられてしまっている。

 だから、日本兵は全員密林か山岳地帯に逃げ込んでおり、そこで大半が息絶えていたのだ。

 そのうち、彼は気づいた。

 死体の部位で、ひとつだけ、腐敗しにくく、腹持ちのする器官がある。

 大きさも携帯できるほどで、なんならそこだけを切り取って、非常食として持っていくことも可能である。

 初めはゴムを噛んでいるようで不味かったが、慣れてくるとホルモンみたいに噛めば噛むほど味わいが増すことがわかってきた。

 まさに、もし本土に生還できたとしたら、そのあとも続けて食したいほどの、癖になりそうな味だった。


 そうして今、彼は畳の上に敷かれた布団に横たわり、ぼんやりと天井を眺めている。

 あれから5年が経とうとしていた。

 うつろな表情の中、狂った彼の脳髄は、今ぼんやりと思っている。

 そろそろ、動くべき時かもしれない、と。 
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