夜空のラムネ

佐藤強也

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夜空のラムネ

〈嘘の下〉

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 まさに最高のプール日和と言わんばかりの天気。

 気温は三十七度を超えると言われ、真水を浴びでも丁度だった。

 川澄はまるで子供にものを言うように「お前らちゃんと準備体操しろよー」などと、いつもよりご機嫌で朝の会を終わらせた。

 それくらい久々に今年の夏はプールが使えたのだ。

 女子は更衣室へ、男子は教室で着替えが始まる。

 男子達は、筋肉や腹の脂肪を見せ合い、教室内はお祭りのようだった。

 だから、誰も僕が教室を出た事なんて気づいて無いだろう。

 僕は他のみんなより先にプールへと向かった。念の為、怒られてもいい覚悟をして。

 プールサイドでは、富山先生が岩のような腕をタンクトップから出し、熱々のプールサイドにホースで水をかけていた。

 僕が制服のまま近づくと、そのでかい体で振り向くなり、喉から直接出ているかのような太い声で僕の前に壁を作った。

「何だ」

 その短く重たい言葉に、勇気を振り絞り告げる。

「具合が悪いので、見学してもいいですか?」

 僕の勇気なんか簡単に押しつぶしてしまうほど重い沈黙が、天から押し付けるように降り注いだ。

 黙って立っている事しかできない僕に、富山は目と眉だけを動かし返事をすると、見学用のテント下をホースで濡らし命令した。

「そこで休んでろ。それでも具合が悪かったら保健室に行け」

 富山の言い方は、本当に具合が悪くなるほど心臓を圧縮する。

 一応、嫌がらせではなく、見学スペースの足元も冷やしてくれたらしい。生ぬるくなったテントの日陰に入ると、ようやくクラスの声が近づいて来た。

 急に嵐のような雨でも降らないかな。

 そう願い見上げた空は、目が開かないほど青くまぶしかった。

「冷てぇーーーっ!」

 突然聞こえた男子の声に目を向けると、クラスのみんなが虫のように散っていた。

「誰が触って良いって言った? お前は見学な」

 富山の声が拳のように飛んでいく。

「うわマジかよ。やだ、ごめんなさい」

 クラスの中心人物の一人。手塚が土下座をしていた。もちろんふざけて。

 どうやら手塚が勝手にプールの水に触れたらしい。

「次はないと思え」

 はい。と元気な返事をして手塚が立ち上がると、散った生徒達が、逆再生するように列を戻していく。

 やがて列が完成すると、ゆらりと富山が口を開いた。

「プールが使えなくなったせいで、授業が大幅に減るので、今日はそうだな。自由形で足をついてもいいから、全員二十五メートル泳ぎきるように」

「え、マジかよ自由時間じゃないのかよ」

 手塚がイチャモンをつけると、みんな同じ事を思っていたのか、黙って富山を見ていた。

「体育は立派な授業だ。まぁ行いが良ければ考えてやる」

 生徒の姿勢が、なぜが少しだけ良くなったのがわかった。

「よしみんな、しっかり泳ぐぞ。泳げない奴は俺が沈めてやる」

 手塚が立ち上がり胸を張ると、それを押さえつけるように富山も声を張った。

「もう一度言う、体育は授業だからな」

 きっと僕に言っているのだろう。

「全員シャワーを浴びて、出席番号順から順番に泳ぐように」

「よし。いけよ、はやく」

 手塚がクラスを押し、主席番号一番の新井くんからシャワー室にぞろぞろと押し込むように入っていく。

 出席番号順。相変わらずいつ聞いても嫌な言葉だ。

 学校で聞く主席番号順という単語は、聞いただけで心拍数が上がり、追い詰められている気分になるのは、僕だけなのだろうか。

 シャワー室から悲鳴のような声が聞こえている中、迷い込んだかのように一人の生徒がプールにやってきた。

 富山の授業でも平気で遅刻するのは一人しかいない。渡辺さんだ。

「遅れてごめんなさい」

 渡辺さんはぺこりと頭を下げ、臆することなく富山に視線を向けている。

「もう授業は始まってる。制服に着替えて見学しとけ」

 富山の顎が僕の横を指した。

 渡辺さんは一度その場所を確認してから、また頭を下げてお願いを続けた。

「楽しみにしてたんです。お願いします」

「……いけ」

 富山はその二文字だけ吐き出し、今度は顎でシャワー室を指した。

「やった」

 数秒前の空気を忘れたのか、渡辺さんは顔から笑みをこぼし、走ってシャワー室に向かって行った。

 すると渡辺さんとすれ違うように、隣の出口からびっしょりと濡れたクラスのみんなが、ぞろぞろとプールサイドへ出て来た。

 相変わらず悲鳴のような声を上げている女子達。

 スタート台は六番まである為、男子が三人。女子が三人。出席番号順にプールに浸かっていく。

「前の奴が半分まで行ったら次が泳ぐように」

 そう告げると、富山はボロボロに錆びたパイプ椅子に腰をかけ、授業の監視を始めた。

 まるで大きな岩が置いてあるかのような圧力が、僕の所まで押し寄せる。

 富山の態度はきっとほかの生徒からしたら、そんなにおかしくは見えていないのだろう。現に堅物な先生だが人気はある。

 どっかの先生が、高校の先生によくいる。と言っていたのを思い出した。

 こんな先生がゴロゴロと学校中に居るのなら、僕はますます高校には行きたくなくなった。

 きっと。絶対に行かなければいけないのだろうけど。

 そんな事を思いながら、次から次へと泳いでいくクラスを、まるで近くを通りがかった子供のように見ていると、あっという間に一週目が終わりに近づいていた。

 男子の最後は山土井くん。

 女子の最後は。渡辺さんだ。

 ひとり、またひとりと前に出ていく後ろを、準備体操をしながら間を詰めていく渡辺さんは、すでに水中眼鏡を装着している。

 順番的に渡辺さんは一番奥のレーンだ。

 ほっとした。

 一か六なら、どちらか左右がプールの淵なので、捕まれば溺れることが無いからだ。

 ついに前の子が泳ぎ出し、渡辺さんがプールに浸かった。

 身長の低い渡辺さんは、一番浅い場所でも肩まで水が押し寄せている。

 前を泳ぐ子が真ん中のラインを超えると、渡辺さんは大きく息を吸い、頭を水面に沈めてスタートした。

 男子の最後、山土井くんはすでに泳ぎきり、渡辺さんの前を泳ぐ女子も軽々とゴールした。

 渡辺さんは練習した通り腕を大きく回し、足で一生懸命水を叩くが、一向に進まず、どこからか、歩いた方が早いんじゃね。なんて聞こえるほどだ。

 泳いでいるのか、溺れているのかわからない渡辺さんは、あっという間に体力を使い果たし足を付いてしまった。

 距離は十メートルも行ってないだろう。

 そこからまた、地面を蹴り再開するが、またすぐに足をついてしまう。そんな事をしている間に、待ちきれなくなった後ろの生徒達が二週目を泳ぎだした。

 次々と渡辺さんを追い越していく。

 何度も足をつき、半分跳ねて進む渡辺さんは、プールの半分。木のラインを超えるのでやっとだった。

「もー無理。限界」

 ギリギリ余る体力でプールから上がると、泳ぎ終わった女子達が渡辺さんの横をクスクス笑いながら通過していく。

 その理由は、渡辺さんが列に戻った時にわかった。


「うわぁ。お前きたねえな」

 一番見つかってはいけない奴、手塚がそれを見つけた。

「へ?」

「お前それでプール入るなよ」

「なんで? なにかおかしい?」

 何の事かわからない渡辺さんは、近くに居た女子達にその顔を向けると、まるで苦手な虫が迫ってきたかのように、身を震わせながら渡辺さんから逃げていった。

 遠くからでも皆の動きと反応で解る。鼻水だろう。

 すると手塚がさっきまで富山が使っていたホースを壁から手に取り、勢いよく渡辺さんの顔に放水した。

 まっすぐに伸びた水の棒は、渡辺の顔面。鼻へと突き刺さった。

「うわばば」 

 ゲホゲホと水を吐き出す渡辺さんを周りが笑う。ハイタッチする奴らも見えた。

「綺麗にしてやったんだから、感謝しろよ」

「いたい。いたい」

 渡辺さんは顔を抑えてその場にしゃがみこんでしまった。

「おい、手塚」

 当たり前だがそれを見ていた富山が、声を飛ばすと「すいません」と手塚はホースを元の位置に戻し、列の中に隠れた。

 水圧で赤くなった顔をこすりながら、列の最後尾に戻る渡辺さんの姿は、すごく哀れだった。

 だから休めばいいのに。

 こうして一時間目の授業は、一人ずつ順番に泳ぐ授業で終わり、知らない間に、二時間目に突入していた。

 何度かチャイムが鳴ったのは気づいていたが、それが終わりなのか始まりなのか、教室以外で聴くとなんだかよく分からなかった。

 二時間目は大体自由時間となる。

 集められた生徒は、その嬉しさを隠しきれないようで、まだ騒がしいままだ。

「うるせーな、静かにしろ」

 富山が声を出す。

 ピタッと静まるプールサイドに、タポタポと水が跳ね返る音だけが繰り返される。

 しばらく水の音が続いた後、富山が口を開いた。

「二時間目は手塚がうるさかったから、みんなでプールの掃除をする」

 えー。という声が響くと、男子達が「お前のせいだぞ」とか「死ねよ」とか、手塚を攻めだした。もちろん冗談で。

 このクラスでは、死ねという言葉はさほど重い言葉としては使っていない。

 そのやり取りを「騒がない」と富山が打ち切り、次に三本の指を出した。

「飛び込み、鬼ごっこ、その他の危ない事をしたら、すぐ掃除に変更するからな」

「その他とはなんですか」と、誰かの質問には、自分で考えろと一括し、二時間目は無事に自由時間となった。

 各自が仲の良いグループで固まり、男子は水中へ。女子は淵に座り、膝から下をプールにつけ、トークで盛り上がっている。

 そんな中プールの隅では、ひっそりと渡辺さんが淵に捕まり、バタ足と息継ぎの練習をしていた。

 別に自由時間なのだから、何をしていてもおかしくはないのに、その光景は、渡辺さんだけが間違って見えるほど、違和感のある光景だった。

 クラスの自由時間を見学するという謎の授業を行っていると、風に乗って柑橘系の良い香りが僕の前でくるっと回った。

「あら、こんな気持ちのいい日に見学?」

 戸田先生だった。

「はい。具合が悪くて」

「あら、知らないの? プールは具合が悪くても大丈夫なのよ」

「そんなわけないじゃないですか」

「私だったら具合悪くても嘘ついて入っちゃうかなぁ」

 戸田先生は僕の頭を触るように叩くと、靴下をスルッと脱ぎ、綺麗なツルツルの足でプールの方に向かっていった。

 その道中、パイプ椅子に座る富山に頭を下げたのは、お邪魔します。という事だろうか。

 それから戸田先生は、男子達に手を振ったり、抱き付きにやって来た女子達の胸を突いたりと、一通りコミュニケーションをとった後、最後に渡辺さんの元を訪れた。

 隅で顔を沈め、足をバタつかせる渡辺さんの頭を、戸田先生が突くと、渡辺さんは容赦なく顔を水面から跳ね上げた。

 戸田先生は水が顔にかかっても、楽しそうに渡辺さんに何かを話している。

 テントから渡辺さんまで少し距離があるので、戸田先生が何を言ったのかはわからないが、渡辺さんの返事と戸田先生の腕を回す動きで、何となく会話が想像できた。

 最後に戸田先生が親指を立てると、渡辺さんの元気な返事が空に響いた。

 何やら練習のコツを教えてもらったらしい。

 渡辺さんへのアドバイスを終えると、戸田先生は自ら男子達に水をかけに行き、そこへ集まってきた女子達には、自分の胸を強調させるように見せつけたりと授業を盛り上げていく。

 そして一通りクラスの生徒と絡み終わると「残りの授業寝るなよー」と、みんなに一言残し、綺麗な髪を風で揺らしながらプールを出て行った。

 こうして時間は巻き戻り、先ほどと同じ光景が動き出す。

 違ったのは隅にいる渡辺さんだった。

 やっぱり戸田先生はすごくて、渡辺さんの動きは数秒前とは少し違っていた。

 少しだけ泳げそうな動きになっていた。

 プールの後は、戸田先生の言った通りクラス全員が睡魔に襲われ、理科の瀬田も、国語の小泉も、少し大目に見てくれたのか、授業はプリントだった。

 そして先ほどと大きく変わった事が一つ。天気だ。

 僕の願いが通じたのか、プールの時間とは打って変わって、外は会話も消す勢いで雨が降っている。

 わがままだけどそれはそれで最悪だった。

 雨が降ると学校内の雰囲気はガラッと変わる。それは良い方向へではなく、僕の嫌いな悪い方へ。

 普段外で遊んでいる奴らが室内に居ると、クラスのたまり場の組み合わせが微妙に変わり、そこには間違ったルールや流行りが生まれる。

 きっとそれはどこのクラスも一緒だ。

 僕のクラスは、誰かが片付け忘れた牛乳パックが視線を集めていた。新品で忍者の刀みたいに背中に付きっぱなしのストロー。

 おそらく不登校の田中さんの牛乳か、給食の時間にはもう居なかった渡辺さんの物だろう。それをいつも外でバスケをしている奴らが、教室内でキャッチボールをするように投げ合っている。

 とり損ねて床に落ちるたびに角が折れ、パックの形が段々といびつになっていく。ついには一滴、一滴と中の牛乳が漏れ始めた。

 いつもクラスにいないメンバーは、大体こういった先生に見つかれば怒られる事を平気で行う奴が多い。なぜ先が見えないのだろうか。

 更には飛び散った牛乳を、渡辺さんの鼻水とまで言いだす始末。

 それは渡辺さんが教室に居ないからではない。

 本人が居ようが居なかろうがこいつらには関係ない。なぜならばクラスの流れと正解は、こいつらが暗黙で決めているからだ。

 こいつらが汚いと言った物は汚く。

 幽霊だと言われれば、その者は消え。

 障害があると決めつけられれば、その者は障害者扱いに。

 新しい決め事は、いつもここから発信され流行していく。

 最終的に、渡辺さんの鼻水にされた牛乳は、こいつらが言う持ち主、渡辺さんの机に置かれて昼休みが終わった。

 今日最後の授業は数学で担任の川澄が担当だ。

 全員が席に着くと、渡辺さんの机に置いてある牛乳がやけに目立ち、やばいだろとか、絶対怒られるから捨てろよ。など、どこからか声は聞こえてくるが行動に移す奴は誰一人現れない。なぜならばみんな行動する理由も意味もないからだ。

 一番廊下側の奴が、扉から顔を出し廊下の状況を報告する。

「来た来た来た、川澄が来たぞ」

 するとやっと。渡辺さんの席に近く、牛乳を置いた張本人。水上が急いで牛乳を隠そうと手に持つが、そのまま場所が見つからずあたふたしていると、テレビのドッキリ番組を見ているかのように、クラスに笑いの緊張が生まれた。

 結果、水上は足を使い渡辺さんの椅子と机を離すと、そのまま机の中に牛乳を放り込んだ。

 そこにタイミングよく入ってきた川澄が、バレるかどうかで高まるクラスの異変に気付き「どうした?」などと尋ねてみるが、クラス全員がグルになったかのように、別になんでもないですよ、といった空気を作ることで、真実は闇に隠れて、授業が始まった。

 しかし授業が後半にさしかかった頃。一滴一滴、渡辺さんの机から牛乳が漏れ始めた。それをまるでスリルを満喫するかのように、水上が周りにジェスチャーで伝えると、クスクスと僕達にしかわからない笑いが、クラス全体から漏れ始めた。

 その変化に大人が気づかないはずがない。だけどそれは僕の思い過ごしだったらしく、川澄はいつも通り授業を行なっていた。

 昔、小学校の先生が、先生の背中には目が付いている。と言っていたけど、やっぱりそれは嘘らしい。

 数学の授業は、いつもより無駄に静かなまま終わった。

 結局、牛乳は気づかれる事はなく、帰りの会が終わる頃には、牛乳の事など誰も覚えてはなく、気づくと教室には、唯一そのことを覚えている僕だけが取り残されていた。

 本当の事を言うと、こっそりと牛乳を捨ててあげたかった。でも外で行われる部活動の子達が、雨のせいで廊下に集まり、普段は練習していてできない、放課後の自由時間を楽しんでいる。

 その声が、渡辺さんの机に近づいた時に、偶然にも教室に入ってきそうで僕は動けなかった。なので、しばらく自分の席に着き、ノートを開いたり、普段興味もなく読んでいる小説を読んでみたりと時間を潰しているが、一向に廊下の声は消えなかった。

 時間と外の声が僕の考えを少しずつ捻じ曲げていく。

 もう一人の僕なんて最初は思ったりもしたけど、それも含めて僕だ。だからこれも自分の考えなのだ。嫌な事や、逃げたい時。そのずるい考えは、閃くように僕の頭に落ちてくる。

 それは牛乳を入れられた渡辺さんがいけない。と言う閃きだった。

 あの時、机に座っていれば入れられる事はなく、牛乳はゴミ箱か田中さんの机に入れられていたはず。授業をサボった渡辺さんがいけない。そしてそれに気付かなかった担任の川澄もいけない。いや、そもそも入れた水上がいけない。僕はただ見ていただけなのだ。だから何もしなくても、何も悪くない。

 だって……僕に関係のない事だから。 

 その言葉が僕を教室の外に押し出した。

 しっかりとは出ていない太陽から、傘で身を隠すように歩く帰り道、またずるい考えが閃いた。

 せめて牛乳が入っている事を渡辺さんに伝えてあげよう。そうする事で、きっと少しでも自分が楽になりたいのか、自分はあのクラスの一員ではない事を認めたいのか。僕にも僕の考えがわからなかった。

 だから、このまま何もしないよりはマシ。というまた嫌な考えを受け入れた。

 雨は夜には止むと川澄が言っていた気がする。

 きっと渡辺さんは夜来るはずだ。そこで教えてあげよう。

 

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