真冬の逃げ水 Mirage d'hiver

つこさん。

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最終章 真冬の逃げ水

第31話 笑顔 souriant

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 剣術でさえ力が物を言うわけじゃないのであれば、人の気持ちとか、そういうあいまいなものは、もっとよくわかんないもので左右されるんだろう。
 実際に僕はあちらこちらと風に揺れる穂みたいなもので、そのときの気分で左右するんだ。穂と違うのは、風が強ければ折れるってところ。
 堂々巡りだ。いつも同じ結論に落ち着いている気がするし、そうじゃないって思ってもいる。ちょっとは前進してるかなって、思うけど。これじゃ匍匐前進だ。
 ノエルさんに手紙を書いてみようかなって思っている。でも時候のあいさつから先に進めない。何枚もの紙をダメにして、僕はルミエラ一番の手紙の書き出し師になった。
 僕は、ブリアック兄さんが遠からず死ぬと知っていた。
 僕は、ブリアック兄さんが死んだと知らせてもらえた。
 ノエルさんはそうじゃなかったんだ。葬儀終了で哀悼期間に入るって、新聞で知ったって言ってた。それであわてて、ルミエラからディルゼーへ行ったんだって。特急列車を使ったから半月分の給料が飛んだって。大掛かりな冗談だと思っていたって。
 お墓からの帰りの自動車では、冗談も本気も、なにも口にできなかったんだ。そんな空気感じゃなかった。
 冬の冷たさみたいな横顔と、なにも語らないと決めたような瞳と唇。それが、まぶたの裏に焼きついている。
 ずっと、そのことが心にかかっていて。僕は、ノエルさんがいつかの僕と同じように、袋小路につきあたって動けなくなっているんじゃないかと思った。
 でも、僕はレヴィ氏みたいに、上手く言葉を作れない。上手くなくたっていいのは知ってるけど。ふさわしいのがなにかってわからない。精神科医じゃないんだ。
 どうしたらいいんだろう。自分では答えが見つけられないから、レヴィ氏なら何か知恵を貸してくれるかもしれない。そんな気持ちで、レヴィ氏に聞いてみたんだ。

「放っといたら?」
「軽っ」

 なんでもないことみたいにレヴィ氏は言った。いちおう理由は聞いてみた。そしたら「だってえ、彼、いくつ?」って聞いてきたから「ブリアック兄さんと同じ学年だと思うから、たぶん三十三です」って答えた。

「ほらあ。テオくんの倍以上の年齢じゃない。放っておきなさいよ」
「なんでですか。レヴィ先生は、三十代の男性は診ないの?」
「そりゃあ、僕のところに来たら話は聞くけど。あなたはテオくんでしょ」

 なに言ってるのこの子、って感じの表情で言われた。ちょっとだけムカついた。でも次に言われたことには納得したから、文句は言わなかった。

「いい大人の男が、自分の半分の年齢の子に心配されて慰めてられること考えてみて。そっちのが傷つくわよ。いい年なんだから、自分で立ち直らなきゃ。あなたが負う荷じゃないわ」

 なるほどなって思った。僕も、たぶん七歳の子とかに慰められたら、自分を情けなく感じるだろうなって思ったから。

「手紙を書いてあげるなら、もっと時間経って――お互い笑って会えるときにすればいいのよ」

 その言葉に、僕はレヴィ氏を見た。彼はほほ笑んでいて、その目はこれまで傷ついたことがないみたいに澄んでいる。ふしぎだなって思う。どうしてそうなれたのかなって思う。すごく大変だったろうって、これまで聞いた話からはそう思えるのに。だから僕は「どうしたらレヴィ先生みたいになれるの」って聞いた。

「僕ぅ? 目指すような大人じゃないわよお」
「でも、笑ってる」

 そう言ったら、レヴィ氏は目を真ん丸にした。僕は重ねて「なんで、自然に笑えるの? 僕にはできない」って言った。僕は彼が腕を組んでじっと考えるのを待っていた。

「……ちょっと昔ばなしになるけど」
「だいたいレヴィ先生の話は昔のことですよね」
「しんらつぅ」

 笑いながら、レヴィ先生は言った。僕はその話を胸に深く刻んだ。僕にとっての教訓になると思ったから。

「――あるときからね、がんばって、元気に振る舞ってみたのよ。いつも笑って。ルミエラに来て、新しい職場にもなったしね。過去は過去として、自分の人生仕切り直そうって思って。そしたらね、ある人に言われた言葉があるの」

 すごく懐かしそうな、優しい思い出がそこにありそうな笑顔で、レヴィ氏は「なんて言われたと思う?」って僕に聞いた。僕はちょっと考えたけど、なんかわからなくて「明るいね、とか?」って聞いた。

「まあそれはいろんな人に言われたわね。明るく振る舞ってたから。違う部局の方にねえ。すれ違いざまに『あなたはこれまで、なんの苦労もして来なかったんでしょうね』って憎々しげに言われたのよ」
「え?」

 聞いたことが信じられなくて、そして、そんな話を笑顔で話すレヴィ氏が信じられなくて、僕は絶句した。だって、レヴィ氏が苦労してないなんてあるわけないじゃないか。自分で自分の症例の論文書いちゃうくらい、追い詰められて、どうにもならなくて、這いつくばって生きて来た人だ。そんなの、彼がどんな経験をしたか知れば、だれだって想像できるじゃないか。レヴィ氏は、僕の考えをなぞるように、歌うように言った。

「――僕の前歴は伏せてもらっていたの。だから、僕がどんな経験をしたかは、上層部しか知らなかった。今ではその発言をした方は、僕のこと把握しているかもしれないけれど。自分の発言は覚えていないと思うわ」
「謝らせなかったの?」
「まさか」

 レヴィ氏は笑ったまま席を立って、オルガンに近づいた。そして、ふたを開けて半音のファを押した。

「それでね、やっぱりもやもやした気持ちがあって。――そのころに、この子を買ってね。家に帰ったら、ずっと弾いてた。苦情が来ても弾いてたら、そのうち弾かないと『なんかあったのかい』って聞かれるようになっちゃった」

 ふっふっふ、とレヴィ氏は思い出し笑いをした。僕は、その思い出がそんな笑えるものだと思えなかったのですごくふしぎだった。だから口を挟まずにレヴィ氏の言葉の続きを待ったんだ。

「ある程度、気持ちに整理ついた……うーん、割り切ろうって思えたときに、かな。二カ月くらい? 院長とお昼に話していて。苦労知らずだって思われてるみたいでーって、笑い話にして言ったのよ。そしたら『それは、すばらしいことだよ、レヴィくん』って」
「なんだよそれ、ひどい!」

 思わず声を上げてしまった。レヴィ氏はオルガンから僕へと目を向けて、にっこり笑って「ありがと!」と言った。

「――院長はね、僕に『苦労なんて、見えない方がいいんだよ』って言って。そして『他人を、すべて理解することなんてだれにもできない』って言った」

 それはそうだと思う。でも、僕には理解が遠い話だと思った。その人がどんな苦労をしたか、わかった方がその人を正当に評価できるじゃないかって、そう思った。

「――『哀れみは、人の見方を歪める』『苦労知らず、大いにけっこう。君はね、君自身の努力によって、自分を評価してもらえる土壌に立ったんだよ』『実によろこばしいね』『よろこびなさい。君は、過不足なく君自身としてその人に見てもらえているんだよ』――」

 僕は、びっくりして。その、あったこともない院長先生の言葉にびっくりして。ちょっとわかんなくて。でもすごい言葉だなって思って。どれだけ生きたらそんなこと考えつくんだろう。まだ生きてるのかな。レヴィ氏はなんか、すごくすっきりしたような、遠くを見るような目で言った。

「――なるほど、って思ったのよねえ。僕も若かったから、素直にそう思えた」
「いくつくらいですか」
「三十一かな?」
「おっさんですね」
「攻撃力高いわよお、テオくん……」

 僕の倍の年だったら、そんな箴言みたいな言葉も納得できるんだ、と思った。三十とか、ぜんぜん想像もつかないけれど。そのころの僕が、どんな風になっているのか、まるでわからないけれど。

「……そこからね、自然に笑えるようになった。無理してとかじゃなくて。ああ、僕があの『なんの苦労もしていない』って言葉に反応したのは、心のどこかで僕のことをみんなに理解してもらおうとしていたからだと理解できた。過去は過去のこととしてって思ってたのにね。でもそんな必要ないんだって。……肩の荷が降りた」

 そこらへんのことが、まだ僕には難しいと思った。理解してもらった方がいいじゃないかって、思ってしまう。でも、今レヴィ氏は、晴れやかな顔をしている。

「――院長が言うように、今の僕の行いだけが、僕を評価する軸になってくれる。それは、僕にとってすばらしいことだった。苦労なんて、本当はしなくていいものだし、それなしに人として成長できるなら、こんなにいいことはない」
「……それは、そうですけど」
「でもね、これは、自分の過去を否定することじゃないわよ?」

 レヴィ氏は僕に向き直って、僕の目を見て言った。だから、僕はよくわからなくてもうなずいた。

「――艱難や困難は、自分で望んだものではない限り、悲しくて苦しいものよ。そこは間違えないでね。でもね、その影響に引きずられる必要は、まったくないの。転んだら、さんざん痛いってわめいて、寝っ転がって駄々こねて、そして立ち上がればいいのよ。それだけ。擦りむいた傷を、だれかに見せる必要はない」

 ……じゃあ、僕は今、寝っ転がっている状態なんだろうか。そんな気がする。みんなからは、痛いってわめいているように見えるかな。それは嫌だな。
 レヴィ氏にも、今の僕はそう見えているのかな。
 恥ずかしいなって、ちょっと思って、でも笑い方がわからなくて、僕は茶を口に運んでから聞いた。

「――それ、僕にもできるようになりますか」
「そりゃあ、もちろん。テオくんは優秀だから、すぐかも」
「その方がいいです。三十歳とか、遠すぎる」
「ううーん、僕、瀕死!」

 深刻そうな声で言いながら、レヴィ氏はオルガンで猫を踏んでしまった曲の最初の部分を弾いた。そして「これでも『お若く見えますねー』って言われるのよー!」とぶつくさ言った。まあ。それはそう。だから「若く見えるって言うのは、若くないって思ってるってことじゃん」とは言わないであげた。僕に、指針をくれたことにも感謝したから。
 僕も、立ち上がらなくちゃ。
 いつか、笑えるように。
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