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グラス侯爵領編

216話 すみません、なんかすんません

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 オリヴィエ様からの「あーん」攻撃がわたしの昇天by羞恥心のしきい値を軽く上回って来世で命名されそうになっていたころ、オリヴィエ様のお父様であらせられるドナシアン様が笑いを堪えたような表情でわたしへとおっしゃいました。

「――あなたを、正式にオリヴィエの婚約者として扱いたい、ミタ嬢。あなたさえよければ」

 白に近いブロンドで美ショタ様と同じ蒼い瞳のドナシアン様は、とっても渋いステキおじさまです。お声がちょっとオリヴィエ様に似ているの。かっこいい。よかったらそのお声で息子さんを諫めるとかしてほしい。わたしの次の人生が始まってしまう。
 本来ならば言われたことに動揺とかなにかしら反応すべきだったんでしょうけれど、なにせ今ここにないわたしの魂はオリヴィエ様から給餌されるままになっていました。そしてそのオリヴィエ様がささやくように「――だ、そうだよ。ソノコ?」とおっしゃったため、我に返って「ハイヨロコンデー!!!」と言いました。はい。

「ハイヨ=ロコン・デーとは」
「『とてもうれしい、よろしくお願いいたします』という意味です」

 ドナシアン様の言葉にオリヴィエ様がテキトーに適当なことをおっしゃいました。食事が下げられて食後酒が配られます。わたしへはオレンジジュースでした。そして各人のところにグラスが回ったときに、もう一度ドナシアン様がわたしへと目を向けておっしゃいました。

「――グラス領の明日の朝刊に、ブリアックの訃報を掲載した」

 その言葉に、ぐん、と自分が帰って来ました。おかえりわたし。オリヴィエ様から聞いて察していたとはいえ、はっきりと示されたその言葉は、わたしにとって重かった。ブリアックは、いない。この世にもう存在しない。……ショックで。特別思い入れがあったわけではないし、なんならオリヴィエ様と敵対関係だったキャラとして、あんまり印象は良くない。でも、事実を直視したときに、人がいなくなるということを思って涙が出ました。あわてて拭きました。

「――密葬により送ったとし、特別な式は設けない。だが弔問に訪れる者は多くあるだろう。その際、あなたにはオリヴィエの傍らに立ってほしい」
「……はい」

 返事をした自分のその声が、どこか違うところから出ているみたいに重々しく聞こえました。オレンジジュースの味がわかりませんでした。
 解散後に、オリヴィエ様がわたしの部屋へと送ってくださろうとしたときに、お母様のブランディーヌ様が「……ねえ。ちょっとだけ、わたくしの部屋にいらっしゃらない? ソノコさん」とおっしゃいました。わたしはなぜかその誘いを断ってはいけないという気持ちになって、すぐさまうなずきました。
 暖色系の調度品がそろった、どこかかわいらしい雰囲気もあるお部屋でした。控えていらしたのはご高齢の侍女さんで、にっこりとわたしをご覧になって「バベットと申します。よろしくお願いいたします」とあいさつしてくださいました。

「――ねえ、バベット。あれはどこへやったかしら」
「しまってありますよ。取ってきましょうね」

 あれ、で通じるんですね。さすがプロ。さすプロ。小さいテーブルとソファがあって、わたしたちは対面で座りました。お茶のお湯が沸く数分の間で、バベットさんが戻って来られます。手には分厚くて古い本。ブランディーヌ様は受け取って、それをテーブルの上に載せました。

「……写真帳よ。あなたにも、見てもらいたくて」
「えっ⁉」

 ――なんという貴重な一次資料!!!!! どうしよう、合法的にショタオリヴィエ様のお姿を見られる⁉ 前のめりになってブランディーヌ様がそれを開くのを見守りました。最初のページから。
 座っているブランディーヌ様と、その椅子に寄り添うように立っているドナシアン様。もちろんモノクロ。お二人とも若い。とても若い。ご結婚されたばかりのころかな。
 次のページは見開き。そのページを、わたしの方へ向けるようにして見せてくださいました。ブランディーヌ様と、ドナシアン様と……赤ちゃん。
 赤ちゃんがちょっと大きくなって、お座りしてひとりで写っている写真。立って椅子につかまっている写真。さらに大きくなって、蝶ネクタイをして真顔で写っている写真。そして、赤ちゃんが増えて。
 バベットさんがお茶をそっと出してくれました。わたしはそれに手を伸ばすことも難しく感じるくらい、なにも言えない気持ちになりました。ブランディーヌ様が。ブランディーヌ様が、なにもおっしゃらなくて。
 ページをめくると、男の子が赤ちゃんを抱えて椅子に座り、ドヤ顔をしている写真がありました。わたしはなにも言えなくて。ブランディーヌ様はなにも言わなくて。
 どの写真も愛にあふれていました。わたしにそんな資格はないと思いながら、なにも言えなくてわたしは泣きました。だって、ブランディーヌ様が、なにも言わなくて。なにもかもが悲しくて。
 子どもたちはやがてそっくりな顔立ちの少年へと成長しました。背がぐんと伸びたころに、また赤ちゃん。そして、二人の子どもは立派な青年へ。
 バベットさんがハンカチを貸してくださいました。どうしようもなかった鼻水を押さえました。ブランディーヌ様は穏やかな表情で、アルバムをじっとご覧になっていました。
 ――ブリアックがいました。この家には、ブリアックがいました。

「……わたくしはね。悼んではいけないの」

 将校の制服を着たブリアックを見つめながら、ブランディーヌ様がおっしゃいました。わたしはなにも言えない。なにも言えない。

「とってもやんちゃで、手のかかる子だった。でもね、帰省するときには、わたくしの故郷のお茶を買い求めて持ってきてくれるような、気持ちのやさしい子だったのよ」

 過去形で話される言葉が痛くて、わたしは音を立てないように鼻をすすりました。むずかしい。この、バベットさんが淹れてくれたこのお茶は、きっと、その。わたしは手にとって口にしました。美味しい。泣けるくらいに美味しい。

「……あのね。知っていてほしくて。あの子はわすれられてしまうけれど。小さいころは偏食で、苦労したのよ」
「……はい」
「十一歳のときに、二階の窓から転げ落ちたの。大騒ぎになったの。でも本人は怪我ひとつなくて、何もなかったような顔をして」
「……はい」
「何歳になっても兄弟げんかをして。たいていはあの子の方がいけないんだけれど。なんだか最終的にはあの子の言い分が通ってしまうの」
「……はい」
 
 語られる穏やかな声の言葉ひとつひとつが、ブランディーヌ様の心の悲鳴のようで。わたしはどこまでも部外者で、そんな資格はないのに、ずっと泣きながら聞いていました。

「……覚えていて、ほしくて」

 わたしはうなずきました。わたしにできるのは、それだけだ。
 わたしは、だれの涙も見ていない。ブランディーヌ様も、ドナシアン様も、オリヴィエ様も、美ショタ様も。
 もう泣き疲れたのだろうか。涙も尽きることがあるんだろうか。わたしにはなんの思い入れのないはずのアルバムが、ただただ悲しかった。
 ――バイバイ、ブリアック。あなたはとても愛されていた。
 亡くなるとき、彼はそれを思い出しただろうか。

 一夜明けて。顔がパンパンだったので、マチルドさんがめっちゃ冷えたお水を洗面器に入れて持ってきてくれました。しばらくそれに顔をつっこんでぶくぶくしました。
 いちおう、今日から喪に服す期間です。アウスリゼではその期間を哀悼日というんだそうです。こちらでの喪服は黒ではなくて濃い灰色で、それに紺色のなにかを合わせるのが主流みたいです。わたしは朝ごはんの後に急きょ仕立師さんが来てくださって、哀悼の服を何着か作ってもらうことになりました。さすがに領主家に縁のあるわたしが吊しの服ってわけにはいかないみたいです。
 新聞は、見ました。そっと届けられたので。一面広告でした。グラス侯爵家長男であるブリアックが病死した、という、とても簡潔な一文。そしてすでに葬儀は終了していること。グラス侯爵家は哀悼日に入ること。日本の新聞のお悔やみ欄よりも、ずっと情報は少なかったです。
 哀悼日が公示された初日は、だれも訪問してはいけないんだそうです。なので、弔問があるとしたら明日以降かな。わたしはそうしたお客様をお迎えするときに、オリヴィエ様の傍にずっとひっついているように、とまた念を押されました。オリヴィエ様は「私が離さないからだいじょうぶだよ」とおっしゃっていました。叫びたい。
 来ると思われる人の一覧表も見せていただいて、マチルドさんからいろいろ教えてもらいました。そしてなにげなーく「ジゼル・デュビュイさんって、なんかきれいな名前ですね」って言ったんです。
 マチルドさんが「はっ」と鼻で笑いました。なにそれこわい。

「ミタお嬢様が、知る必要のない者でございます」
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