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6:冬のある日

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 トントン。ことこと。しゅーしゅー。
 冬の一際寒い朝。権左は、煮炊きをする物音で目が覚めた。布団の中から土間の台所を見れば、この寒いのに袖を紐で括った昌吉が、パタパタと忙しなく動いていた。ふわふわと汁物のいい香りがする。干した魚の焼ける匂いもする。権左は、急速に腹が減り、のそのそと布団から這い出た。着物の上から掻巻を羽織って、土間に近づいて、昌吉に声をかけた。


「おぅ。また来たのかい」

「あ、おっちゃん。おはよ」

「おはよーさん。毎日毎日、飽きねぇなぁ」

「けへへ。あたしゃ、おっちゃんの嫁になるんだもの。当然さね」

「嫁にはせんぞ」

「なーるもん」

「仕事はどうした」

「ちゃんと仕込みは終らせてきたよい。おっちゃんの朝飯が終わったら、屋台に戻るやい」

「そぅかい」

「よし。魚も焼けた! おっちゃん、顔を洗って。朝飯出来た!」

「へいへい」


 昌吉が、小さめの木の盥を運んできた。中には、ほんのり湯気が立つお湯が入っている。権左がぬるま湯で顔を洗うと、昌吉が手拭いを差し出してきた。ありがたく受け取って顔を拭けば、シャキッと完全に目が覚めた。朝飯のいい匂いに、ぐぅぅぅぅっと腹の虫が低く鳴く。

 昌吉が、いそいそと皿に料理を盛り、膳の上に並べた。昌吉が機嫌よくニコニコ笑いながら、熱い茶を淹れ始めた。


「いただきます」

「召し上がれ」

「おめぇの分は?」

「仕込み始める前に、親父と食ってきた」

「そうかい。……うめぇ」

「けへへ。漬物を食べてごらんよ。新作なんだい」

「へぇ。ん。うめぇな。こりゃ。酒が欲しくなる」

「朝っぱらから飲む気かい。駄目だよぉ。酒は程々にしないとぉ」

「なに言ってんでぇ。酒は百薬の長よ」

「あっそ」

「汁物のお代わりはあるか」

「あるよ。注いでくる」


 権左は、朝から美味い飯をガツガツ食うと、昌吉が淹れてくれた美味い茶を飲み、ほぅと息を吐いた。

 昌吉は、用心棒を辞め、今は、稲荷屋で狐の親父と一緒に働いている。住んでいた長屋も引き払い、自分の実家である長屋に引っ越した。狐の親父は大層喜び、『次は嫁探しだ』と、とても張り切っている。が、当の本人は、相も変わらず権左の嫁になる気満々である。まるで通い妻のように、毎朝、権左の家に来ては、朝飯を作り、掃除をして、洗濯をして、布団を干してから、自分の家業の屋台に行っている。権左は、何度も、『そんなにしなくていい』と言っているが、『あたしがしたくてしてるだけだもの』と、いつも流される。

 朝飯の後片付けをしている昌吉をチラッと見て、権左はのそっと立ち上がった。古ぼけた戸棚から、馬油が入った容器を取り出す。
 後片付けが終わった頃合いをみて、権左は昌吉に声をかけた。


「おい。ちっと、こっちに来い」

「あいな」


 素直に権左の元に来て、権左の目の前に座った昌吉の手を取り、権左は昌吉の手を見て、眉を上げた。昌吉の手は、あかぎれで真っ赤になって、あちこちが割れて血が滲んでいた。権左は、無言で馬油の容器を開けると、傷に障らぬよう、そぅーっと昌吉の手に馬油を塗り始めた。権左は、手が商売道具だから、いつでも馬油は家にある。もう少し、早く気づけばよかった。

 権左が、昌吉の手に、黙々と馬油を塗っていると、昌吉が擽ったそうに笑った。


「おっちゃん。そんなに塗らなくていいよい。勿体ねぇ」

「うるせぇ。いてぇだろうが。おめぇも早く言えや」

「別に、毎年のことだもの。それに、こんなの痛いうちに入らないよぉ」

「いてぇもんはいてぇんだよ。見てるこっちがいてぇ」

「けへへ。……おっちゃんの手、温い」

「そうかい。おめぇの手が冷えてんだよ」


 馬油を塗り終えた、ひんやりとしている昌吉の手を温めるように、権左が昌吉のほっそりとした節くれだった手を握ると、昌吉が嬉しそうにへらへらと笑った。


「おっちゃん。明日は休みなんだ。どっか出掛けようぜい」

「あー? 出掛けるって何処に」

「古着屋は絶対行く。おっちゃんの着物、そろそろ買い替え時だもの」

「面倒くせぇ」

「あとはー、今話題の茶屋に行きてぇ。珍しい団子があるんだとか」

「ふぅん。相も変わらず甘いもんが好きな」

「大人だって、普通に甘いもん食うし」

「まぁ、別に構わんが。急ぎの仕事はねぇしなぁ」

「けへへ。じゃあ、今夜は泊まっていいかい? 朝一で出掛ける前に色々済ませておきてぇ」

「狐の姿なら一緒に寝てやる。湯たんぽ」

「けへへ。約束したかんな」

「へーへー」


 昌吉が、ふわっと本当に嬉しそうに笑った。権左は、まぁいいか、と思い、温もった昌吉の手を離した。

 家のことを終わらせた昌吉が仕事に向かうのを見送ると、権左は空を見上げた。今日は一際寒いが、空には雲一つ無い。明日も雪は降らないだろう。
 権左は白息を吐きながら、そそくさと家の中に入った。昌吉が火鉢を用意してくれていたので、家の中は暖かい。
 権左は、火鉢に手を翳して温めると、仕事に取り掛かった。





ーーーーーー
 仕事が一段落し、後は納品するばかりになる頃には、夕暮れ時になっていた。権左は着替えと手拭いを片手に、湯屋へと出かけた。
 ここ最近、立て続けに結構な実入りの仕事が入っているので、懐には余裕がある。今日は、風呂上がりに按摩を頼むのもいいかもしれない。

 まだまだ大丈夫ではあるが、四十を過ぎた頃から、少し細かいものが見えにくい時がある。眼鏡とかいうものもあるらしいが、かなり高価だと聞く。とはいえ、手だけでなく、目も権左の商売道具だ。暫くは酒を控えて、金を貯めた方がいいかもしれない。
 そんな事を考えながら、湯屋に行けば、湯屋の前に、狐の親子がいた。権左に気づいた昌吉が、ぱぁっと顔を輝かせた。


「おっちゃん!」

「おう。今日はもう店仕舞いかい」

「売り物が無くなったからねぇ」

「けへへ。権左。聞いとくれよ。昌吉が店を手伝い始めてからね、売上が伸びてんのさ」

「へぇ。そいつぁ、いいじゃねぇか」

「今日みたいに、早仕舞いの日もあるのよ」

「跡継ぎが立派でいい事だな」

「あいな」


 今日は人の姿をしている狐の親父が、嬉しそうに、けへへと笑った。隣で、昌吉も照れたように笑っている。権左はニッと笑うと、狐の親子と一緒に、湯屋に入った。

 昌吉が背中を洗ってくれるというので、任せてみれば、これがまた絶妙な力加減で、凝っていた背中が随分と解れた。あ゛ーーと気の抜けた声を出す権左に、昌吉が呆れたように声をかけてきた。


「おっちゃん。何日、風呂に入ってないのさ」

「さぁ? 覚えてねぇな」

「はぁー? もう! 信じられねぇくれぇ垢が出るんだけど!」

「おー。そこそこ。あ゛ー。もちっと強めに押してくれ」

「あたしゃ、按摩の才能もありそうだねい」

「がっはっは! 出来る事が多くていいじゃあねぇか。いくらでも潰しがきく」

「そうかい。そら。流すよ」

「おーう」


 ざばぁっと熱いお湯を背中にかけられた。頭と身体の前面は、普通に自分で洗うと、久方ぶりにスッキリした。狐の親子と並んで湯船に浸かり、権左は、あ゛ーーっと間延びした声を上げた。


「生き返るわ」

「おっちゃん、飯食った?」

「あ? まだ」

「それなら、帰ってから、あたしが作るよ」

「んー。じゃあ、頼まぁ」

「あいな」


 昌吉が、けへへと嬉しそうに笑った。狐の親父が、ボソッと呟いた。


「こりゃあ、駄目かもしれんなぁ」

「親父? 何がだ?」

「いーや。こっちの話。昌吉、今夜は権左の家に泊まるんだろい。権左に迷惑かけんじゃないよ」

「かーけーまーせーんー。飯作って一緒に寝るだけだし」

「はいはい。権左。悪いけど昌吉をよろしくねい」

「おーう」


 権左は、間延びした返事をした。しっかり身体の芯まで温まると、湯船から出て、湯屋の二階に上がり、按摩に肩や背中、腰を揉んでもらった。昌吉は、先に帰って、夕飯の支度をしている。
 按摩のお陰で、かなり身体が軽くなった権左は、足取り軽く、昌吉が待つ家に帰った。

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