身代わり愛妾候補の逃亡顛末記

Dry_Socket

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第一章 辺境の地

2.にぃ兄様

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 いつまで経ってもティールームに現れないヴァネッサに、私は心配になり部屋を出てヴァネッサの居室へ向かう。
 朝はいつもにも増してとにかく不機嫌で、何を言っても怒鳴り返してくるような感じで取り付く島もなかった。
 なぜあんなに苛ついていたのかしら…
 私は訝しみながら部屋の扉をノックする。

 「ヴァネッサ?お茶の用意ができているわよ」
 ドアに身を寄せて声をかけると、中からヴァネッサの声が聞こえた。
 「今夜のパーティーの準備と都に行く支度があって忙しいの。
 クレメンティナも早く準備しなさいよ!」

 なんだかバタバタと忙しそうな音が聞こえて、ヴァネッサの息も少し上がっているようだ。
 いつものんびりとマイペースで、こちらがどれだけ急かしてもゆっくりお茶とお菓子を楽しむヴァネッサが、まあ、珍しいこと…

 私は違和感を覚えたが、首都に行く気になったのだなと少し安堵した。
 ここ最近、お館様や奥様と言い合いする声が館中に響き渡っていて、双方とも激すると言葉が非常に荒くなるので心配していたのだけど…
 ん?でも…私も?準備しろってどういうこと?

 「クレメンティナ様!」
 廊下の奥から声が聞こえて、私が振り返ると向こうから小姓が走ってくるのが見えた。
 「あら、エンニオ。どうしたの?」
 「急ぎお邸へお帰りください、とお館様が。
 馬車をご用意しております」

 は?
 私は驚き過ぎて声を失う。
 どういうこと?
 あのケチのお館様が…
 私が帰宅するために馬車を用意したって?

 「え、それはどういう…」
 私が訊きかけるのに被せるように「さ、お早く!」とエンニオは私の手を取らんばかりにして急かす。
 私は訳が分からないまま、だけど何か嫌な予感を抑えることができないままにエンニオと歩き出した。

 「クレメンティナ!」
 荷物を持ち帽子をかぶって外へ出た私に、馬車の前に立っていた人が声をかけてきた。
 「にぃ兄様!」
 私はびっくりし、にこにこ笑っているお兄様に駆け寄った。
 
 私には兄が二人いる。

 上の兄は24歳、名前をレオンツィオといい、私は「レオ兄様」と呼んでいる。
 お父様亡き後、ステファネッリ子爵家の長子として継嗣として、家と領地(少し規模の大きい地主程度だけど)を守っている。
 大きな体躯で声も大きく、厳めしい顔つきで威圧感があって、自分にも他人にも厳しくて、小作人たちに畏怖されている。
 私も用事が無ければあまり近づかない。
 お母様はご自分の気質や容姿に似ているからか、レオ兄様をとても信頼して可愛がっておられる。
 
 そして下の兄が「にぃ兄様」と呼んでいる、21歳のセノフォンテお兄様だ。
 ハンサムと評判だったお父様に似て優しい外見に柔和な美貌で、明晰な頭脳を持つにぃ兄様は子爵家の領内のみならず、ここシエーラ領の若い女性たちに絶大な人気がある。
 にぃ兄様はレオ兄様の仕事を手伝い、それとは別に領内の子供たちや頼まれれば大人にも勉強を教えている。

 「どうしたの?」
 近づいた私が見上げると、にぃ兄様は一瞬、その端正な顔の表情を歪めた。
 それはほんの一瞬で、すぐにまたいつもの快活な笑顔に戻って「さ、帰ろう、馬車で帰れるなんて滅多にないからな」と言い、私の身体を持ちあげるようにして馬車に乗った。

 座席に二人並んで座ると、御者がすぐに馬に鞭をくれて馬車はガタゴトと動き出す。
 にぃ兄様は座り心地の良いように背あてをお尻の方にずらして私の身体を安定させてくれた。
 いつも片道40分の道のりを歩いて通っている身としては凄く有難いけど…
 なんだろう。
 何か理由があるはず…

 果たしてにぃ兄様は私の方へ少し身体を寄せ、御者には聞こえないよう小さな声で話し出した。
 「お館様から急にすぐに来いと呼び出しがあったんだ。
 兄上はセバスチャンと一緒に市場に出かけて留守だったから、僕が兄上の代わりに来た」

 あまり状態の良くない道路の石に乗り上げたのかガタン!と大きく揺れ、にぃ兄様はおっと、と呟いて私の肩を抱いて引き寄せた。
 「お館様はなんだかやたらと上機嫌でね。
 ヴァネッサ嬢ちゃんがようやく都征きを承諾してくれたから、今夜はパーティーを催して領内の皆に報告すると。
 それで、クレメンティナにもそのパーティーに是非参加して欲しい、衣装はこちらで用意したから持って帰ってくれってさ」

 「ええ?
 私、何も聞いていないわよ」
 私が胡散臭く思って訊くと、にぃ兄様は今度ははっきりと表情を曇らせた。
 「兄上や母上にも相談しないとだが…
 どう…捉えて良いものか」

 それきりにぃ兄様は黙ってしまい、私は言い知れぬ不安が胸に広がっていくのを感じながら馬車に揺られていた。
 
 
 
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