身代わり愛妾候補の逃亡顛末記

Dry_Socket

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第一章 辺境の地

5.準備

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 泣き崩れてしまったお母様の肩を抱くようにして、レオ兄様は私に頭を下げた。
 「…申し訳ない。
 俺たちが不甲斐ないばかりに…
 辛かったらいつでも、戻って来なさい」

 にぃ兄様はうつむいたまま私に近づき、ぎゅっと抱きしめた。
 今までに一度も聞いたことのない、にぃ兄様の嗚咽が耳元で聞こえ、私は簡素なドレスのスカートを握りしめた。
 辛い時でも、いつも明るく穏やかに笑っているにぃ兄様。
 こんなふうに泣かれたら…私は心の逃げ場がなくなってしまう。
 まるで本当に、お館様に買われて都へ売り飛ばされるような気がして…

 私はにぃ兄様の身体を両手で押して離し、にこっと微笑んでみせた。
 「大丈夫よ、にぃ兄様。
 私はクレメンティナ・ディ・ステファネッリなのだから」
 
 にぃ兄様ははっとしたように私を見て、頬を手の甲で拭い、瞳に涙を溜めたまま笑った。
 「そうだった、私の愛しい負けず嫌い」
 そう言って私にまた近づき、頬と頬を合わせる。
 「行っておいで、そして雄々しく戦って、勝利するんだよ」
 私はくすっと笑って「当然だわ」と頷いた。
 
 それから私はお母様と下女に手伝ってもらって、にぃ兄様が持って帰ってきたドレスに着替えた。
 お館様が今夜のパーティのために準備させたらしい。
 兄様たちが断らないと、断れないと、確信していたのだろうと思うと腹立たしくてやりきれない。
 だけど仕方ない。
 実際、パーティに出席できるようなドレスを、私は持っていない。

 お母様が美しいネックレスを私の首にかけてくれた。
 「!お母様、これ…」
 「あなたのお父様が、婚約した時にわたくしにくださったものよ。
 これだけは手放すまいと思っていたの。
 あなたがお嫁入りの時に上げるつもりだったから」

 大きなサファイアの周りに、小さなエメラルドのちりばめられたネックレスに、私は見入った。
 「お母様…ありがとう」
 「ステファネッリ家の令嬢として、堂々としていらっしゃい。
 大丈夫、あなたなら。
 わたくしとお父様の大事な、愛娘なのだから。
 都でだって、ちゃんとやっていけるわ」
 お母様は優しく言って私の髪を結い上げた。

 今まで厳しくて恐ろしいばかりだったお母様の、思いがけず愛情のこもった言葉に、私は驚きそして感動して涙がこぼれそうになる。
 お母様は結った髪に綺麗な櫛をさし「ほら、お化粧が崩れてしまうわ。良家の令嬢というものは、人前で涙を見せるものではありません」といつもの厳しい声で言った。

 それから微笑んだ。
 「いつの間にかあなたもこんなに娘らしくなっていたのね。
 お嫁入先を探すのも難航していて、ごめんなさいね。
 とても綺麗よ、お父様にもお見せしたかったわ」

 そして私は、レオ兄様と一緒に荷馬車の御者台に乗り、レオ兄様が手綱を握って出発した。
 レオ兄様とにぃ兄様は私が着替えている間に、急いで書類を作成したそうだ。
 にぃ兄様に言った交換条件がお館様の口約束で終わらないように、文書に起こして署名させるらしい。
 私たち家族が如何に、お館様を信用していないかの証のようなものだ。

 もう辺りが薄暗くなっていて、私は小さなランプを棒の先に吊るして持つ。
 にぃ兄様とお母様が見送りに出てくれて、「行ってらっしゃい、気をつけてね」と手を振った。
 この日はまだ、帰ってくるつもりだったから、これが二人との長い別れになるとは、この時は思ってもみなかった。
 
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