死ぬほど愛しているけれど、妻/夫に悟られるわけにはいかないんです

杏 みん

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73.空回りなフォローもそこにおもいやりがあるならセーフ

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 「会議室の片付けなんて……お呼び下されば、私がしましたのに」

 除菌ティッシュでいっぱいになった、コンビニサイズのゴミ袋を持ち、俺の顔を見る斎藤。

 審判担当の集まりから、俺が戻って来ない……と。心配して、会議室まで様子を見にくれたらしい。
 『いや、お母さんか』と、ツッコミたい気持ちはあるが。つい先日、腹痛に悶える姿を晒してしまった身としては、偉そうな事は言えない。

 「アシにはアシの仕事があるだろ。それに、審判の中じゃ俺が一番下っ端だし。いいんだよ」

 「一番下っ端、は凛さんなのでは? 入社1年目ですよね?」

 「あいつにそういう概念は通じねえっつーの。お前もわかるだろ、婚約者なら」

 「婚約者候補、です。……そういえば、傷、治したんですね」

 斎藤は俺のあちこちへと視線を動かし、ホッとした表情を浮かべた。

 「ああ、そうだよな。お前も朝からびびったよな。悪い。バタついてて、治すの忘れてて」

 「いえ。どうしたんですか、とお聞きしたかったのですが……赤の他人の私が詮索をするのは、失礼にあたるかと」

 らしくもなく、しおらしい態度。

 「なんだなんだ、どうした。空気読まずにぐいぐい来るのがお前だろ?」

 「……大嫌いな男に妻を寝取られた上司の心に……土足で踏み入るような事はすべきじゃない、と、わきまえているだけです」

 あ。成程、そういう事か。
 斎藤からゴミ袋を奪い取る。

 「お前、唯が浮気してるって決めつけてるだろ。で、サレ夫の俺が哀れだから、今は何があってもそうっとしておこう……みたいな事か」

 「……あのこれ、もしよろしければ……」

 気まずそうに斎藤が差し出してきたのは、名刺の束。

 「離婚問題を専門とする弁護士の先生方です。妻側に原因があるならば、仁さんに最も有利な形で離婚すべきかと。その為に必要なのはやはり確実な証拠」

 「いやいやいやいや! いらねえわ! 離婚なんてしねぇし!」

 「では仁さんはこのまま唯さんの不貞を見過ごすおつもりですか!? そんなの納得が出来ません!」

 「つーか唯は浮気とかするような女じゃねぇから!」

 「仁さんのおっしゃる浮気、とはどこからどこまででしょうか!? ちなみに日本の法律ではやはり肉体関係があって初めて」

 「やめろやめろ! あいつと唯が肉体とか……っ! 想像するだけで狂うわ! 唯はどこからどこまでも浮気なんてしてないし、そりゃ密会してたのは胸ザワだけど、それでも離婚とかありえない! 俺はノーライフ・ノー唯だから!」

 名刺を突っ返して、更にそれを押し渡されて――それを繰り返してるうちに、名刺の束がバラバラになって部屋中に散らばった。

 「あ……悪い……」

 「……仁さんは……本当に唯さんの事を愛していらっしゃるんですね」

 床に落ちた名刺に視線を落とし、ボソっと言う斎藤。

 「……ああ。前にも言ったかもしれねぇけど。俺には唯だけだから」

 「どうして……唯さんなんです。あんな、なんの努力もしてない……容姿的にも能力的にも、仁さんとは釣り合わないのに……」

 こいつ。どさくさに紛れて、また唯をディスりやがって。
 でも……紙吹雪のように散った大量の名刺を見ていたら……説教する気が失せてしまった。

 「……弁護士、すげー探してくれたんだな。アシだって忙しいのに。……ありがとうな」

 一枚一枚、床の名刺を拾い集める。
 事務所も、その所在地も、バラバラ。斎藤個人に、これだけ弁護士の知り合いがいるとは思えない。
 この短期間で方々探し回ってくれたんだろう。

 「お前は、暴走力やばいし、バカ正直で空気よめねえし……イラつく事も困った事も、ドン引きする事も色々やらかしてくれるけど……なんか、幸せになってほしいな、って思うわ」

 「仁さん……」

 瞳を潤ませて、俺を見つめる斎藤。
 改めてみると、こいつマジで美人だな。どこの女優だよっつー位、憂い顔が絵になり過ぎる。
 
 でも、違うんだ。
 キレイだな、と好きだな、は……似ているようで、全然違うんだ。

 「だけど、俺が自分の手で幸せにしたいって思うのは、唯だけなんだ。だから……ごめんな」

 正直な気持ちを伝え、集めた名刺を返す。
 斎藤は、消えそうな声で『わかりました』と答えた。

 「……恋心って、不思議ですね。唯さんが不貞をはたらいているのかも……と考えた時、それがきっかけで仁さんと離婚すれば、私にもチャンスが巡って来るかもしれない。と期待もしたんですが。それ以上に、仁さんがどれ程傷付いているか、苦しんでいるか……想像するだけで、胸が痛くなってしまって。唯さんに、お願いだから仁さんの所に戻ってあげて下さいと……土下座する夢までみてしまいました」

 そこまで言った後、斎藤の頬を、涙の雫が伝った。

 「私も、仁さんに幸せになってほしいです。その相手が私じゃないのは残念ですが、それでも仁さんが幸せならばまあいいか、と思えます。これほど矛盾した感情を抱えるなんて、私の人生で初めてで……大変良い経験になりました。ありがとうございました」

 「いや、俺の方こそ……ありがとう」

 俺達はお互いに、微笑み合った。そこには恨みやつらみや……負の感情は一つもなくて。

 「これからも、アシとしてよろしくな」

 「よろしいんですか? 私は私らしく働ける場所へ移れ……というような事を、以前仰っていませんでしたか?」

 「言ったけど……考えてみりゃ、良く知りもしない相手の生き方について、アレコレ口出すのはよくなかったし」

 「そうですか。では暫くは仁さんの元で続けさせて頂きます。新しい仕事も出来て、忙しくなりそうですし」

 「新しい仕事? 運動会絡みか?」

 「いえ、唯さんの浮気調査です」

 「おい」

 パチン、と入口ドア横のスイッチを押したタイミングで。会議室の電気は消えたが、斎藤の中の何かはONになってしまった様子。

 「さっき、わかりました。って言ったじゃねえか」

 「仁さんのお気持ちはわかりました。の、わかりました、です。どんな意味として受け取ってらしたんですか?」

 「どんなって……そりゃ、もう俺の事は諦める、とか、そういう」

 「フラれた事は理解していますので、仁さんと交際をする事は諦めました。けれど、私は仁さんに幸せになって頂きたいと申し上げましたよね? その為には、唯さんが仁さんを幸せに出来る人物なのか、改めて調査する必要があるのです」

 会議室を出るやいなや、いかにもバリキャリ風の速足で、歩を進める斎藤。
 俺はその後を、小走りで着いて行く。

 「ないない、そんな必要ない! お前もう大人しくしといてくれ! 唯は浮気なんてしてないってさっきも」

 「不貞行為だけではありません。マルチプルな角度から、飛鳥唯という人間を評価する所存です」

 「前言撤回していいか? お前異動願い出せ。今すぐに出せ」

 なんだか頭痛がしてきた。
 カツカツと、斎藤のヒールの音が響く度に、こめかみ辺りに痛みを感じる。

 俺は今後どれくらいの期間、この頭痛に悩まされていくのだろう。
 そう思うと、痛みの範囲がこめかみから頭頂部、後頭部、そして頭部全域へと広がっていく、嫌~な感じがしたから……とりあえず今は、考えるのをやめておこう。
 斎藤の道は斎藤が決める。俺がいくら考えた所で、答えなんて出ない。

 でも、それでも……やはり俺は、あのバカ正直が選ぶ道が、日の当たる場所に繋がっていてほしいと、思ってしまうのだった。
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