死ぬほど愛しているけれど、妻/夫に悟られるわけにはいかないんです

杏 みん

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236.辞めないでって言われても困るけど言われないのも切ない

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 「あの……何言われても、俺、辞めますんで」

 「そっか! うん、わかった! 一旦落ち着こう?」

 違和感を覚える位の明るい表情と口調で応じる、課長。

 「いや、大丈夫です。俺は十分落ち着いて」

 「大丈夫! 何も強引に慰留しようとは思ってないからね? まずは落ち着こう? 落ち着いて話をしよう?」

 課長と同じく、不自然すぎる笑顔で俺をガン見する岡崎さん。
 だから、落ち着いてるって言ってんのに。

 まぁ、予測はしてたけど。
 今朝、課長に退職願を出して。その30分後にミーティングルームに呼び出されて。

 そうしたら、そこはさながら就職の面接会場。
 部屋の中央に就活生(俺)用の椅子が一脚。そしてその正面に長テーブルと面接官(課長と岡崎さん)用椅子が二脚。
 どうやら、課長と岡崎さん……二人がかりで、俺の退職を阻止するつもりらしい。
 
 「突然の事で、驚かせてしまったのは申し訳ないと思っています。でも俺なりに、真剣に考えた結果で」

 「真剣に考えた結果おかしな結論に達した時は、自分の思考回路が正常に機能していない事を疑いなさい?」

 「おかしな結論て。俺にとっては、最良の道だと思ってるんですけど」

 きっぱりと断言する俺に、テーブルを叩いて立ち上がる岡崎さん。

 「アスカを辞めて蓮さんのトコで働く道のどこが最良なのよ! 仁君は飛鳥のトップに立ちたいんじゃなかったの!? だからスカウト課で必死になってキャリアを積んで来たんでしょう!? アスクレピオスの件だって、色々悔しい想いはあったと思うけど、それでも歯を食いしばって耐えて来たのは、出世の為じゃない! なのにどうして今更……!?」

 落ち着くべきはそっちだろうよ……と、思いはしたが。
 岡崎さんはチーフとして新人スカウトマンだった俺を育ててくれた恩人だ。俺が選んだ道に意見する権利は十分にある。

 「俺も岡崎と同じ意見だよ。将来有望な部下が、輝かしい将来投げうとうとしているんだ。止めたくもなる。理由を聞きたくもなる。蓮さんに高額のギャラで誘われたか? それとも一族の中で、そうせざるを得ない事情が出て来たのか?」

 「いえ。プライベートな理由です。申し訳ないんですけど」

 「申し訳なくなんかないわ? プライベートあっての仕事だもの。でも……何があったのか、もしよければ、話してくれる?」

 「……俺、今でも死ぬ程、元嫁さんの事が好きなんですよ」

 「「は?」」

 やさし~く、俺の心の内を聞き出そうとしていた態度から一転。
 『何言ってんだこいつ』みたいな表情で、互いの顔を見合う課長と岡崎さん。

 「ええと? 元嫁さんていうと、唯子さんよね?」

 「はい」

 「仁が唯子さんに未練がある事と、今回の退職転職と、どういう関係があるんだ?」

 「実は唯、俺の知らない所で死にかけてたらしくて」

 「「ええぇ!?」」

 シンクロ、アゲイン。二人共、かなり驚いた様子。一度は席についていた岡崎さんも、再び課長と共に立ち上がった。

 「あ、大丈夫だったんですけど。無事に回復して、先日退院できまして」

 「そ、そうなの……よかった……」

 「はい。ホントによかったんですよ。もしも彼女が死んでたら、俺もそっこーで後を追ってたと思うんで」

 「仁……」

 重めの方向に話が進み、何て言葉を掛けたら良いか、わかりかねている課長。

 「俺、彼女の事を忘れようとしてたんです。人生やり直さなきゃなって思って。で、実際にいい感じにいってたんです。でも……仕事で評価されても、友達や彼女と楽しく過ごしてても、心が動いてる感じが全く無くて。それでも、自分は幸せだ、第二の人生充実してるって、自分に言い聞かせてた……んですけど」

 唯がいなくなるかもと思った瞬間、今の暮らし全てが空洞だったと気付いた。

 「結局、唯がいないと俺、何にもないんですよ。悲しい事も悔しい事も傷つく事も無い。その代わりに嬉しい事も楽しい事も、心から幸せだって感じる事もない」

 唯は俺の全て。わかってた。抗うだけ無駄だったんだ。

 「だから、蓮さんの所に行くの? 唯子さんと同じ職場で……少しでも唯子さんと一緒にいられるように?」

 「はい」

 「いやいや、やっぱりおかしいだろ! だって唯子さんは今、蓮さんの嫁さんなんだぞ? それだけ愛してる女が、夫とやってる会社で働くなんて……同じシャンプーの香り漂わせて、一緒に出社して一緒に退社して行く所を、お前はただ指をくわえて見てるしかないんだぞ!? 地獄じゃないか!」

 「俺にとっての地獄は、唯が存在しない世界なんですよ」

 懸命に説得してくれようとする課長も、俺の返答に押し黙る。

 「これから先、また俺の知らない所で唯に危険が及ぶんじゃって……想像しただけで震えます。だから可能な限り傍にいて、守って行きたいんです。恋人や夫じゃなきゃ傍にいちゃいけないなんて決まり、ないでしょう?」

 「それは……そうだけど」

 「だ、だめですよ課長、押し切られちゃ! 百歩譲って、仁君はそれでいいとして、蓮さんは? まだ正式に内定貰ってないのよね? 奥さんの元夫を自分の会社に入れるなんて、常人の神経じゃ考えられないわ。ここを辞めて、でも採用してもらえなくて露頭に迷う、なんて事になったらそれこそ悲劇よ?」

 「SSSの仁が露頭に迷うなら、この国の血統種は皆プータローになってんだろ……」

 「蓮さんには、少し考えさせてくれって言われてます」

 「ほぉら! その言い方、ノーの前置きとして使うやつじゃない!」

 なぜか鬼の首を取ったようなドヤ顔で腕を組む岡崎さん。

 「でも、断れないと思います。社長に直談判済みなんで」

 「「社長に!?」」

 またしても、ナイスハモり。もう、デュエット組めるんじゃねえかこの二人。

 「紫苑さんの件でごたついた時、異動でも出世でも何でも力になる~風な事言われてたんで。それを蒸し返して、だったら蓮さんの会社に入れてくれって頼みました」

 「出世でも異動でもないじゃない! よく社長もOKしてくれたわね?」

 「断るならストーカーになるって言ったんです。SSSがストーカーとか、怖いっすよって」

 「SSSの無駄遣い……っ」

 「お願いっていうか、脅迫じゃない……」

 課長も岡崎さんも、額に手を当ててうなだれる。

 「お世話になったお二人にご心配をおかけして申し訳ありません。でも……不出来な部下が幸せに向かって猛進する姿、温かい目で見送って頂ければと思います。引継ぎは、しっかりしていきますんで」

 「はぁ……何言っても無駄って事か……」

 「残念だわ……ホント寂しくなる。清香ちゃんにはもう話してあるのよね? あの子も不安でしょうね。パートナーが仁だからうまく行ってたってトコ、あると思うし」

 「あ、すいません、斎藤も連れて行きます。俺の監視役させるらしいです。それが社長が出した条件なんで」

 アシスタントの今後についての報告。二人はもう、大声を上げて驚く事はなかった。
 
 ただ消え入りそうな声で『も~やだ』とか『なんでもありじゃん』とか呟いていて。
 驚き疲れて疲労困憊な様が、見て取れた。
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