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第一章
ニシキ
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こうなったら何がなんでも逃げなければならない。
紗華の言ったとおり、生きてさえいれば日本に帰れるかもしれない。
葵は膝のうえで拳を握った。
「怖い顔をしているよ……まあ、無理もないか」
そっと、肩に手を添えられた。
見上げるとニシキが慈愛の笑みを向けている。
「教育を受けていない君には、とても酷なことだと思う。肝心のおくり子はあの調子だし……さぞひどい目にあわされたろう?」
ひどい目なんてどころではない。もう散々だ。
葵は唇を噛んでうつむくと、優しく頭を撫でられた。
「君にいいことを教えてあげる」
耳元で囁かれて葵はニシキを見た。
「いいこと……?」
突然、視界が白い幕にさえぎられた。
強制的に手を離されたニシキは苦笑いを浮かべ、「リン」と呟いた。
「巫女への過剰な接触はさけて頂きたい」
「堅物なんだから」
ニシキは笑った。
「優しくしてやるように言われたろう?」
「できる限りだ。それ以上は不要」
「キミのできる範囲が狭すぎるんだよ」
リンがムッと表情を曇らせる。
会議での冷静さは見受けられない。あれは仕事用の顔だったのだろうか。
「だから余計な世話だと言ってる。親の事を教えるのも、私は良い考えだとは思わぬ」
「いいじゃない、それくらい。何も知らされないままだなんて可哀想だろう?」
楽観的なニシキの態度が気に食わないのか、リンの機嫌はどんどん悪くなっていく。
「こいつは逃げる。親の事を知ったら、なおさらじっとはしていないだろう」
「ずいぶん手をやいてるんだ? キミがねえ?」
「ばかを言うな。その気色悪い顔をやめろ」
ニシキが可笑しそうに笑うと、リンは早々に切り上げたいらしく、葵の腕を引っぱって立たせた。
「親のことを教えてやる。着いてきなさい」
自分を捨てた親なんかどうだっていい。けれど社から逃げ出せたなら、逢うことになるかもしれない。知っておいて損はないだろう。
一度捨てられたとはいえ、頼るアテは他にないのだから。
葵がリンに着いていこうとすると、逆の腕をニシキに引かれた。
すぐに気がついたリンが、獣の唸るような声を出した。
「……どういうつもりだ?」
「その前に、巫女様を南棟にお招きしたいんだ」
振り向いたリンの眼は血走り、狂気に満ちていた。
「邪魔をするな」
今にも斬りかかってきそうな威圧に、葵は後ずさる。
場に残っていた神官達が危険を察知し、逃げるように散っていった。
「そ、そんなつもりはないさ!」
ニシキは慌てて両手をふった。
争う気がないことを示しながらも、さり気なく葵を背後に隠す。
「この娘、すごく怖がってるんだよ。でも明日には儀式だし、今しか話す時間がないんだもの。ちょっとだけ貸しておくれよ、悪いようにはしないからさ!」
「怖いのはどの巫女も一緒だ。それに寝間着で村をうろつくような奴、そんなタマでもないだろう。あまやかすな」
「また女子にそんなこと言って……」
「巫女は女ではない。〝供物〟だ」
つまり人ですらない、と言いたいのだろう。
今までの雑な扱いはそういうことだったのだ。
これにはさすがに腹がたって、文句を言おうとしたところを、ニシキの手にさえぎられた。
「だけどリン、物心がつくまえから教育を受けているのと、昨日今日でいきなり言われるのとでは心持ちも違うだろう?」
ニシキが穏やかな口調で諭すが、それでもリンは厳しい眼差しを向けている。
「頼む、僕に任せてほしい。結果的に、キミのためにもなる。兄弟なんだし、協力させておくれよ……ね、いいだろう?」
ニシキはリンの手を両手で包むと「ね、お願い!」と繰り返してごり押しした。
グイグイと詰め寄られて、リンの顔が引きつっていく。
「寄るな」
「じゃあ、任せてくれる?」
リンはしばらく苦しげな顔をしていたが、ニシキの手を払い除けると諦めたように深く息を吐いた。
「……一刻だけだ。だが南棟に連れていくは許さない」
「え? 駄目?」
ぽかんと聞き返すニシキを、リンが呆れ目で見やる。
「当たり前だ。盛りのついた猿の檻に入れるような真似ができるか」
「うっ、言い返す言葉もない……」
会議での一件をつつかれて、ニシキは言葉をつまらせた。
しかし、なんとか食い下がろうと頑張っている。
「けれど、さすがに巫女に手出しする莫迦はいないよ」
リンは断固首を縦には振らない。
「本殿の居室を使え。のめないならこの話は無しだ」
「わかった、じゃあそれで! ありがとう、リン!!」
ようやく落としどころが決まり、ニシキは満足げに両手を広げた。────が、待てどもその胸に飛び込む者はおらず、寂しげに背中をまるめた。
「話が済んだら書庫に連れてこい」
「うん。髪でも染めて待っていてよ。また父上に叱られてしまうし」
リンは仏頂面で、髪を一束つまんだ。
「……どうせすぐに落ちる」
「僕はその髪色の方が好きだよ」
「染めるか……」
「褒めたのに!!」
リンが無愛想なのは既に心得ているが、ニシキにはさらに厳しいように見える。
しかし兄はめげない。そっぽを向く弟をどうしても構いたいらしい。
だが、一方では反応を楽しんでるようにも見える。
仲が良いのか、悪いのか……。
「そろそろ兄上って呼んでも──」
「断る」
リンは即答すると、これ以上関わりたくないのか、兄には目もくれずに行ってしまった。
さっきよりも深く項垂れるニシキを、葵は若干引き気味で見やる。
本当にこの男について行って大丈夫なのか……不安だ。
「……じゃあ、行こうか……」
「は、はあ……」
(なんなんだろう、この人……)
滂沱の涙を流しているニシキに、かける言葉が見つからず、そろそろと後ろを着いて歩いた。
***
「……あの、大丈夫ですか?」
「うん? ああ、いつものことだよ」
廻廊を渡りながら、そっと声をかけた。
ニシキは目じりに残った涙を拭うと、へらっと笑って答えた。
「僕が社に来てもう十年になるけど、リン、なかなか懐いてくれなくてね……」
「一緒に育ったんじゃないんですか? 兄弟なんですよね?」
ニシキの笑みに苦さが混じった。
「リンの母君は正室の奥方。僕は側室の子供なんだ。義兄弟はもっといるけれど、みな離ればなれさ」
「今どき一夫多妻なんですか」
「子は必ず育つとは限らない。いつどうなるかわからないから、できるだけ子を成すのも当主の務めだろう?」
「そういうものですか……」
「君の国は違うのかい?」
葵はうなずいた。
「普通は一人です。浮気しようものなら大問題ですよ。……もうそれは、めちゃくちゃですよ」
言いながら、完全に自分の事を話しているようでいたたまれなくなった。
養父のしていることは間違っていることなのに、この国では成立してしまうのだから、常識とはおかしなものである。
「……それは、大変だったね」
ニシキが労わるように言った。面倒見の良いお兄さんという印象を受ける。
なのに、なぜリンが突っぱねるのか、葵にはわからない。
こんな優しい兄がいるなんて、羨ましいかぎりだ。
(やっぱ、あいつの性格が曲がってるんだな)
ニシキは廻廊の途中で足を止め、手摺に手を置くと、どこか遠くを眺めた。
葵も同じ方を見る。
この社は、景色だけは別世界のように美しく、唯一好きなところだ。
水面が鏡のように、月と社を反転して映し出している。一面に散らした星があちこちで輝いて、ため息が出るほど綺麗なのに、葵はなぜだか虚しくなった。
じっと見つめていると、まるで時間が止まっているようで、自分の命のカウントダウンが迫っているのを忘れそうになる。
下を見るともう一人の自分と目が合った。
そっちに行けば何の心配もせずにすむのだろうか。
けれど、向こう側の自分も同じく苦しげな顔をしているのを見ると、そんな想像も気休めにはならなかった。
「どうして神王と呼ぶか知ってるかい?」
葵は首を横にふった。
「いえ……」
「神の王と書いて〝神王〟。文字通り、政と神事を管理する最高責任者であり、神に一番近い存在として、そう呼ばれるようになった」
葵は答えなかった。
無宗教の葵からしたら、バカバカしいと思ったのもあるし、人間が神に近づけるわけがない、という否定的な考えもある。
「すまない。儀式を止めることはできない」
初めてニシキの深刻な声を聞いた。
急にそんな言い方をされると、現実味が湧いて苦しくなる。
「神王の言うことは絶対。従わないことは、神に背く行為と同じ 」
「……神なんかいない」
ニシキはわずかに目を見開いた。
その発言は反逆にあたるのかもしれないが、人柱になる葵には関係のないことだ。
「水神様は、たしかにおられるよ」
「私が死んだって、病気はなくならないし、バケモノもいなくならない。何もかわらないんです!!」
ニシキの表情に陰りが出る。
「それは、穢れを見てないから言えるのさ」
「私はこの国になんの愛着もない。好きでもない国のために命は張れません!!」
「……それもそうだね」
ニシキは水面に視線を落とした。
その哀愁の漂う横顔を見ながら、葵は紗華から聞いたことを思い出していた。
儀式を逃れる方法は一つだけある。が、それは葵にとって、とても容易にできることではない。けれど、死ぬことに比べればその方がマシに思えた。
頭の中で、天秤が激しく揺れ動く。
決断出来ないのは、ほとんど羞恥心が皿を揺らしているせいだ。
葵が身の内で葛藤していると、そうとう酷い表情をしていたらしい。
ニシキは葵を見るなり、突然ふき出した。
「な、なんですか!?」
「はははっ……いや、すごい顔をしているから、つい……」
「────すごい顔って……」
「いやすまない」
ニシキは朗らかに笑うと、支柱に背を預けた。
目が合う。
なくはない、と思った。
初対面とはいえ、顔も性格も申し分ないし、変な男に触られるよりは断然いい。
(────死ぬよりは、マシだ)
考えている事が顔に出ていたのか、ニシキがまた笑いだしたので、葵は罰が悪くなった。
「ありがとう。とても光栄だよ」
「何も言ってませんけど……」
ニシキはまるでお見通しとでも言いたげに、首を振った。
「みな考えることは同じさ。資格を捨てようとした巫女は決して少なくはない。追いつめられると、人はなんでもするから。────あと、君は顔に出やすい」
ギクリとする。
バレていた。死ぬほど恥ずかしい。
「その通りだよ。男と交わると巫女の力は失われる。けれど、二人ともタダでは済まない。言ってしまえば、ただの心中にしかならない」
改めて言われると生々しい。
ニシキが困ったように眉尻を下げた。
「助けてあげたい気持ちは山々なんだ。だけどごめんね、僕は心に決めた人がいるから──。それにまだ首も繋がっていたいし」
「────で、ですよねえええ!! すみません!! 本当すみません!!」
熱くなる顔をおさえながら、高速で何度も頭を下げる。
告白する前からフラれるってこんな感じか。いや、それはもう経験済みだが、好きという感情がなければこんなに恥ずかしいものなのか。羞恥心だけで死ねそうだ。
「……でも、なんでそんなに重い罪なんですか?」
「多くの民の命を犠牲にするようなものだからね。みな等しく死罪になるのは当然」
「そんな……」
じゃあやっぱり死を待つしかないのだろうか。
『それは、他者を犠牲にしてもですか?』
紗華が言っていた意味をようやく理解した。
資格を捨てられても、自分も相手の男も死罪。
死罪をまぬがれても、大勢の人々を見殺しにする。
自分が助かる代わりに、必ず誰かが死ぬことになる。
(────そんなこと言ったって……!!)
再び紗華の言葉がフラッシュバックする。
『ですから────』
葵は恐ろしさで身震いし、勢いよく頭を振った。
無性に紗華に会いたくなった。
会って、話したい。紗華なら全てを受け入れてくれる気がする。
「まあでも、リンは別かな」
頭を抱えていると、ニシキがぼんやりと言った。
葵は純粋に疑問に思って訊ねた。
「……どうしてです?」
「神子だからね。跡継ぎを失うわけにはいかないだろう?」
逆に言えば、あいつはやりたい放題ということか。だからあんなに理不尽なのか。
まあ、あの融通の利かない堅物が規則を破るとは思えないけれど。
「僕が社に呼ばれたのはね、リンの代わりとしてだったんだよ」
「代わり?」
「リンが、使い物にならなくなった時のため、と言った方がいいか」
ニシキにしては嫌な言い方をする、と思った。
が、自嘲気味に笑うのを見ると、本心からではないのがわかる。思いとは裏腹に、大人たちの圧力があったのだろう。
ニシキは少し迷ったような素振りを見せると、重たげに口を開いた。
「────十年前、リンは大罪をおかしたんだよ」
紗華の言ったとおり、生きてさえいれば日本に帰れるかもしれない。
葵は膝のうえで拳を握った。
「怖い顔をしているよ……まあ、無理もないか」
そっと、肩に手を添えられた。
見上げるとニシキが慈愛の笑みを向けている。
「教育を受けていない君には、とても酷なことだと思う。肝心のおくり子はあの調子だし……さぞひどい目にあわされたろう?」
ひどい目なんてどころではない。もう散々だ。
葵は唇を噛んでうつむくと、優しく頭を撫でられた。
「君にいいことを教えてあげる」
耳元で囁かれて葵はニシキを見た。
「いいこと……?」
突然、視界が白い幕にさえぎられた。
強制的に手を離されたニシキは苦笑いを浮かべ、「リン」と呟いた。
「巫女への過剰な接触はさけて頂きたい」
「堅物なんだから」
ニシキは笑った。
「優しくしてやるように言われたろう?」
「できる限りだ。それ以上は不要」
「キミのできる範囲が狭すぎるんだよ」
リンがムッと表情を曇らせる。
会議での冷静さは見受けられない。あれは仕事用の顔だったのだろうか。
「だから余計な世話だと言ってる。親の事を教えるのも、私は良い考えだとは思わぬ」
「いいじゃない、それくらい。何も知らされないままだなんて可哀想だろう?」
楽観的なニシキの態度が気に食わないのか、リンの機嫌はどんどん悪くなっていく。
「こいつは逃げる。親の事を知ったら、なおさらじっとはしていないだろう」
「ずいぶん手をやいてるんだ? キミがねえ?」
「ばかを言うな。その気色悪い顔をやめろ」
ニシキが可笑しそうに笑うと、リンは早々に切り上げたいらしく、葵の腕を引っぱって立たせた。
「親のことを教えてやる。着いてきなさい」
自分を捨てた親なんかどうだっていい。けれど社から逃げ出せたなら、逢うことになるかもしれない。知っておいて損はないだろう。
一度捨てられたとはいえ、頼るアテは他にないのだから。
葵がリンに着いていこうとすると、逆の腕をニシキに引かれた。
すぐに気がついたリンが、獣の唸るような声を出した。
「……どういうつもりだ?」
「その前に、巫女様を南棟にお招きしたいんだ」
振り向いたリンの眼は血走り、狂気に満ちていた。
「邪魔をするな」
今にも斬りかかってきそうな威圧に、葵は後ずさる。
場に残っていた神官達が危険を察知し、逃げるように散っていった。
「そ、そんなつもりはないさ!」
ニシキは慌てて両手をふった。
争う気がないことを示しながらも、さり気なく葵を背後に隠す。
「この娘、すごく怖がってるんだよ。でも明日には儀式だし、今しか話す時間がないんだもの。ちょっとだけ貸しておくれよ、悪いようにはしないからさ!」
「怖いのはどの巫女も一緒だ。それに寝間着で村をうろつくような奴、そんなタマでもないだろう。あまやかすな」
「また女子にそんなこと言って……」
「巫女は女ではない。〝供物〟だ」
つまり人ですらない、と言いたいのだろう。
今までの雑な扱いはそういうことだったのだ。
これにはさすがに腹がたって、文句を言おうとしたところを、ニシキの手にさえぎられた。
「だけどリン、物心がつくまえから教育を受けているのと、昨日今日でいきなり言われるのとでは心持ちも違うだろう?」
ニシキが穏やかな口調で諭すが、それでもリンは厳しい眼差しを向けている。
「頼む、僕に任せてほしい。結果的に、キミのためにもなる。兄弟なんだし、協力させておくれよ……ね、いいだろう?」
ニシキはリンの手を両手で包むと「ね、お願い!」と繰り返してごり押しした。
グイグイと詰め寄られて、リンの顔が引きつっていく。
「寄るな」
「じゃあ、任せてくれる?」
リンはしばらく苦しげな顔をしていたが、ニシキの手を払い除けると諦めたように深く息を吐いた。
「……一刻だけだ。だが南棟に連れていくは許さない」
「え? 駄目?」
ぽかんと聞き返すニシキを、リンが呆れ目で見やる。
「当たり前だ。盛りのついた猿の檻に入れるような真似ができるか」
「うっ、言い返す言葉もない……」
会議での一件をつつかれて、ニシキは言葉をつまらせた。
しかし、なんとか食い下がろうと頑張っている。
「けれど、さすがに巫女に手出しする莫迦はいないよ」
リンは断固首を縦には振らない。
「本殿の居室を使え。のめないならこの話は無しだ」
「わかった、じゃあそれで! ありがとう、リン!!」
ようやく落としどころが決まり、ニシキは満足げに両手を広げた。────が、待てどもその胸に飛び込む者はおらず、寂しげに背中をまるめた。
「話が済んだら書庫に連れてこい」
「うん。髪でも染めて待っていてよ。また父上に叱られてしまうし」
リンは仏頂面で、髪を一束つまんだ。
「……どうせすぐに落ちる」
「僕はその髪色の方が好きだよ」
「染めるか……」
「褒めたのに!!」
リンが無愛想なのは既に心得ているが、ニシキにはさらに厳しいように見える。
しかし兄はめげない。そっぽを向く弟をどうしても構いたいらしい。
だが、一方では反応を楽しんでるようにも見える。
仲が良いのか、悪いのか……。
「そろそろ兄上って呼んでも──」
「断る」
リンは即答すると、これ以上関わりたくないのか、兄には目もくれずに行ってしまった。
さっきよりも深く項垂れるニシキを、葵は若干引き気味で見やる。
本当にこの男について行って大丈夫なのか……不安だ。
「……じゃあ、行こうか……」
「は、はあ……」
(なんなんだろう、この人……)
滂沱の涙を流しているニシキに、かける言葉が見つからず、そろそろと後ろを着いて歩いた。
***
「……あの、大丈夫ですか?」
「うん? ああ、いつものことだよ」
廻廊を渡りながら、そっと声をかけた。
ニシキは目じりに残った涙を拭うと、へらっと笑って答えた。
「僕が社に来てもう十年になるけど、リン、なかなか懐いてくれなくてね……」
「一緒に育ったんじゃないんですか? 兄弟なんですよね?」
ニシキの笑みに苦さが混じった。
「リンの母君は正室の奥方。僕は側室の子供なんだ。義兄弟はもっといるけれど、みな離ればなれさ」
「今どき一夫多妻なんですか」
「子は必ず育つとは限らない。いつどうなるかわからないから、できるだけ子を成すのも当主の務めだろう?」
「そういうものですか……」
「君の国は違うのかい?」
葵はうなずいた。
「普通は一人です。浮気しようものなら大問題ですよ。……もうそれは、めちゃくちゃですよ」
言いながら、完全に自分の事を話しているようでいたたまれなくなった。
養父のしていることは間違っていることなのに、この国では成立してしまうのだから、常識とはおかしなものである。
「……それは、大変だったね」
ニシキが労わるように言った。面倒見の良いお兄さんという印象を受ける。
なのに、なぜリンが突っぱねるのか、葵にはわからない。
こんな優しい兄がいるなんて、羨ましいかぎりだ。
(やっぱ、あいつの性格が曲がってるんだな)
ニシキは廻廊の途中で足を止め、手摺に手を置くと、どこか遠くを眺めた。
葵も同じ方を見る。
この社は、景色だけは別世界のように美しく、唯一好きなところだ。
水面が鏡のように、月と社を反転して映し出している。一面に散らした星があちこちで輝いて、ため息が出るほど綺麗なのに、葵はなぜだか虚しくなった。
じっと見つめていると、まるで時間が止まっているようで、自分の命のカウントダウンが迫っているのを忘れそうになる。
下を見るともう一人の自分と目が合った。
そっちに行けば何の心配もせずにすむのだろうか。
けれど、向こう側の自分も同じく苦しげな顔をしているのを見ると、そんな想像も気休めにはならなかった。
「どうして神王と呼ぶか知ってるかい?」
葵は首を横にふった。
「いえ……」
「神の王と書いて〝神王〟。文字通り、政と神事を管理する最高責任者であり、神に一番近い存在として、そう呼ばれるようになった」
葵は答えなかった。
無宗教の葵からしたら、バカバカしいと思ったのもあるし、人間が神に近づけるわけがない、という否定的な考えもある。
「すまない。儀式を止めることはできない」
初めてニシキの深刻な声を聞いた。
急にそんな言い方をされると、現実味が湧いて苦しくなる。
「神王の言うことは絶対。従わないことは、神に背く行為と同じ 」
「……神なんかいない」
ニシキはわずかに目を見開いた。
その発言は反逆にあたるのかもしれないが、人柱になる葵には関係のないことだ。
「水神様は、たしかにおられるよ」
「私が死んだって、病気はなくならないし、バケモノもいなくならない。何もかわらないんです!!」
ニシキの表情に陰りが出る。
「それは、穢れを見てないから言えるのさ」
「私はこの国になんの愛着もない。好きでもない国のために命は張れません!!」
「……それもそうだね」
ニシキは水面に視線を落とした。
その哀愁の漂う横顔を見ながら、葵は紗華から聞いたことを思い出していた。
儀式を逃れる方法は一つだけある。が、それは葵にとって、とても容易にできることではない。けれど、死ぬことに比べればその方がマシに思えた。
頭の中で、天秤が激しく揺れ動く。
決断出来ないのは、ほとんど羞恥心が皿を揺らしているせいだ。
葵が身の内で葛藤していると、そうとう酷い表情をしていたらしい。
ニシキは葵を見るなり、突然ふき出した。
「な、なんですか!?」
「はははっ……いや、すごい顔をしているから、つい……」
「────すごい顔って……」
「いやすまない」
ニシキは朗らかに笑うと、支柱に背を預けた。
目が合う。
なくはない、と思った。
初対面とはいえ、顔も性格も申し分ないし、変な男に触られるよりは断然いい。
(────死ぬよりは、マシだ)
考えている事が顔に出ていたのか、ニシキがまた笑いだしたので、葵は罰が悪くなった。
「ありがとう。とても光栄だよ」
「何も言ってませんけど……」
ニシキはまるでお見通しとでも言いたげに、首を振った。
「みな考えることは同じさ。資格を捨てようとした巫女は決して少なくはない。追いつめられると、人はなんでもするから。────あと、君は顔に出やすい」
ギクリとする。
バレていた。死ぬほど恥ずかしい。
「その通りだよ。男と交わると巫女の力は失われる。けれど、二人ともタダでは済まない。言ってしまえば、ただの心中にしかならない」
改めて言われると生々しい。
ニシキが困ったように眉尻を下げた。
「助けてあげたい気持ちは山々なんだ。だけどごめんね、僕は心に決めた人がいるから──。それにまだ首も繋がっていたいし」
「────で、ですよねえええ!! すみません!! 本当すみません!!」
熱くなる顔をおさえながら、高速で何度も頭を下げる。
告白する前からフラれるってこんな感じか。いや、それはもう経験済みだが、好きという感情がなければこんなに恥ずかしいものなのか。羞恥心だけで死ねそうだ。
「……でも、なんでそんなに重い罪なんですか?」
「多くの民の命を犠牲にするようなものだからね。みな等しく死罪になるのは当然」
「そんな……」
じゃあやっぱり死を待つしかないのだろうか。
『それは、他者を犠牲にしてもですか?』
紗華が言っていた意味をようやく理解した。
資格を捨てられても、自分も相手の男も死罪。
死罪をまぬがれても、大勢の人々を見殺しにする。
自分が助かる代わりに、必ず誰かが死ぬことになる。
(────そんなこと言ったって……!!)
再び紗華の言葉がフラッシュバックする。
『ですから────』
葵は恐ろしさで身震いし、勢いよく頭を振った。
無性に紗華に会いたくなった。
会って、話したい。紗華なら全てを受け入れてくれる気がする。
「まあでも、リンは別かな」
頭を抱えていると、ニシキがぼんやりと言った。
葵は純粋に疑問に思って訊ねた。
「……どうしてです?」
「神子だからね。跡継ぎを失うわけにはいかないだろう?」
逆に言えば、あいつはやりたい放題ということか。だからあんなに理不尽なのか。
まあ、あの融通の利かない堅物が規則を破るとは思えないけれど。
「僕が社に呼ばれたのはね、リンの代わりとしてだったんだよ」
「代わり?」
「リンが、使い物にならなくなった時のため、と言った方がいいか」
ニシキにしては嫌な言い方をする、と思った。
が、自嘲気味に笑うのを見ると、本心からではないのがわかる。思いとは裏腹に、大人たちの圧力があったのだろう。
ニシキは少し迷ったような素振りを見せると、重たげに口を開いた。
「────十年前、リンは大罪をおかしたんだよ」
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