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第一章
出生
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書庫は三階の東側に位置する、比較的小さめな部屋だった。棚には本や巻物が隙間なく埋められ、ほのかに墨の匂いがする。
リンは既に、台の上にいくつか巻物を広げて待機していた。
余程染めたくないのか、髪は白いままだ。
(……反抗期か?)
惲薊だけには慕っているように見えたが……。
「済んだか?」
「うん、まあだいたい。……じゃあ、あとは頼んだよ」
ニシキは葵と目が合うと、ぱちんっと片目をとじた。
すぐには何のことかわからなかったが、〝鬼退治〟の件を思い出した。
(限りなく無理だわ)
そんなこと、頼まれても困る。
そんな葵の気も知らず、ニシキは軽い足取りで去っていった。
複雑な気持ちで窓の外を見やると、境内を一望できるくらい見晴らしが良く、楼門が景色のメインを飾っている。
(────バレるわけだ……)
いや、考えてみれば、最初から見越して監視していたのかもしれない。
腹黒いリンのことだ、きっとそうに違いない。
「学生なんだろ? 字は読めるか?」
リンは手元の巻物の一つを葵に向けた。
「そりゃあ、字くらい────何語!?」
言いながら巻物を覗き込むと、和紙に達筆な字がみっちりと書かれていた。
達筆だから読めないのではない。ひらがなでも漢字でもない、ましてや英語でもない。全く見たことも無い文字がズラズラと連なっている。
「お前……学生とは名ばかりで、実のところサボってたろ?」
「いやいやいや!! ちゃんと通ってました!! 優等生でした!!」
「……」
「なにその目!? 本当だから!!」
じとー、という擬音が聞こえてきそうな眼を向けられ、葵は強く抗議した。
(言葉は通じるのに、文字が違うなんて……!!)
そうだった、と思い直す。
ここでは常識が通用しないのだ。
嫌というほど目の当たりにしてきたのに、修正すべき常識のズレがまだあるのかと思うと、うんざりする。
(もう勘弁して欲しい……!)
身のうちで滂沱の涙を流しながら、文字を追っていくと、花の絵が出てきた。
「これ……!!」
葵の首の後ろにある痕と似ている。
「この書にはお前のことが書かれている」
葵は少なくとも興奮していた。
初めて、自分の出生について触れた瞬間だった。
「これは十七年前に下界の役所へ届けられたもの。忌み子を川へ流す前に、親は役所に申請する。それが各分社へ届けられる」
「社って、ここだけじゃないの?」
「ここは本宮だ。分社は七つある」
そんなに大きな組織だったのか、と葵は改めて驚いた。
そういえば、ニシキが兄弟は他にもいると言っていた。おそらくその兄弟たちは分社にいるのだろう。
「母親はお前たち双子を生んだ後、すでに他界しているらしい」
「……わ、私を生んだせい?」
昔は出産で死ぬ確率が高かったと、学校の授業で聞いたことがある。ましてや双子であれば、その確率はぐんと上がるだろう。水波盛もそれにあてはまりそうだ。
しかし、すぐにリンが否定した。
「いや、病と書いてある」
「病気? なんの?」
「穢れが発症したらしい」
水波盛にきてから、幾度となく聞いた言葉だ。
────死ぬほどの重い疫病。
葵にはその実態はわからないが、もしかしたら知っている病気のことかもしれない。
「その〝穢れ〟って、なんなの?」
「誰もが、身の内に種を持っている。その種が、災蝕によって芽吹き、身体を蝕んでいく」
「う、うーん……よくわかんない」
「見た方が早いが、本殿には病にかかった者はいない。下界は特に被害が広がっている」
「そんなに怖い病気なんだ……」
つまり自分は、母親の命を奪った病をこれ以上増やさないために犠牲となるのか。
そう思うと、ほんの少しだけ責任の重さがわかるような気もする。
(それでも死ぬのは嫌なんだけど……)
「父親の方は今も健在らしい」
「そうなの!? じゃあ、お父さんがどこにいるかもわかるってこと?」
「まあ……」
リンの歯切れが悪くなった。
「どこ?」
「知る必要はない」
「なんで!? 教えてくれるって言ったじゃん!!」
「お前、会いにいく気満々だろ」
「そんなことはござらんよ……!!」
尋常のような視線に、キリッとした顔で対抗していると、リンがため息をついた。
「親が恋しいのはわかるが────」
「別に恋しくはない」
「……なら、なぜ?」
「いや、なんていうか……しきたりとか掟だとしても、そんなすんなり捨てられるものなのかなって……」
しんみりと言った気はなかったのだが、お互いなんとなく黙りこくった。
本音を言えば、どんな面をしているのかくらい見てやりたい。それに、急に捨てた子供が目の前に現れたらどんな表情をするだろう。
泣いて謝ったって許してやらない。
そんな意地悪心から言っただけだったが、思いのほか言葉に悲壮感が漂ってしまっただけである。
「……なにか────」
先に口を開いたのは、意外にもリンだった。
「────やむを得ない事情もあったことだろう。下界は混乱していると聞く。はかり知れぬ苦労もあろう……」
リンは苦虫を噛み潰したような、妙な顔をしていた。
まさか、と葵は驚く。
「────もしかして……それ、なぐさめてる?」
リンは仏頂面で首を振った。
(ふーん……?)
だんだんわかってきた気がする。たぶん、リンも嘘がつけないタイプだ。
思い返してみれば、リンは言葉を伏せることはあっても嘘をついたことはなかった。多くを語らないのは、そういうことなのかもしれない。
とはいえ、さんざん雑な扱いをしてきたくせに、急にらしくもない気遣いをされると、逆に怖いものがある。
「私のこと殺すくせに……」
「────役目だからな」
「巫女を守るって言ってなかった?」
「おくり子というのは────」
リンは一呼吸おくと、お役目について簡潔に説明した。
「儀式の日まで巫女を護り、その命を絶つまで役目は終わらない」
葵は血の気が引くのを感じた。
初めて会った時に言われたことを思い出し、今になってようやく意味を理解した。
「おくるって────そういうことだったの!?」
ちっとも家に帰してくれないと思っていたけれど、そっちの意味の〝おくる〟だったとは……。
リンは呆れたようにため息をついた。
「今までで役目の期間が最短なのに、お前がいちばん面倒だった」
「私だって殴られたのは初めてだっての!! 謝れ!!」
「断る」
「はあ!? 謝ってよ!!」
「嫌だ」
リンはそっぽを向いた。
「ああでもしなけりゃ、大人しく引き返さなかっただろう。やむを得ずだ。────ま、川に落ちていなければ、まだマシな連れ戻し方ができたやもしれぬが……」
「やっぱわざとじゃん!! マジありえない!!」
こんな奴に可愛い時代があっただなんて、信じられない。
駆け落ちなんて、何かの間違いではないのか。
(くっそー……!!)
水波盛にきてから、だんだん言葉遣いも粗末になっていく自分に悲しくなってくる。
きっと、リンから謝罪の言葉を引き出すのは無理だ。ならば────、
「じゃあ……お姉ちゃんのこと教えてよ」
「姉……?」
「雪花っていうんでしょ? 殴ったこと謝らなくていいから、教えてよ」
「教えるといってもここに書かれてるのは────」
「そうじゃなくて!!」
リンが紙の文字をなぞるのを、手を置いて遮る。
「ほら、どんな子だったかとか……色々思い出とか、あるでしょ?」
リンは困惑したような、混乱しているような、複雑な表情をした。
「……なぜ私に?」
「だって……仲良かったんでしょ?」
「────ニシキがそう言ったのか?」
内緒、と言われていたが、葵はうなずいた。
リンが怒る素振りを見せなかったからだ。
「────よく知らない」
「いや、嘘つかないでよ」
「……」
リンは一点を見つめたまま黙り込んでしまった。
よほど言いたくないのだろうか。
だが、葵も簡単には引き下がれない。
「────……見せてくれない?」
「なにを……?」
葵は右手を差し出した。
自主的に視憶を使おうとするのは、これが初めてだ。
「見せてほしい。お姉ちゃんのこと」
「お前が望んでいるようなものはない」
「なんでもいい! 本当の家族のことを知りたい」
「────なにもないと言ってる!!」
急にリンが声を荒らげたので、びくっと肩がはねた。
しかし、葵にも知る権利がある。
意地になってリンの手を掴もうとしたが、すっと一歩後退されて、手は空をかすめた。
「視憶をそんなことに使うな!」
「そんなことじゃない!!」
もう一度触れようとするが、また避けられる。
「良くしてやれって言われたじゃん!!」
「お前が見るようなものはない!!」
「姉妹なのに!? 血が繋がった家族なのに!?」
じりじりと、互いに距離をはかりながら睨み合う攻防戦が続く。
葵が知りたいのと同じくらい、相手も知られたくないらしい。
「……つらいのはわかる」
「は?」
「その、可哀想だったと思うし……」
急に息が苦しくなり、背中に痛みが走った。
遅れて、壁に押し付けられたのだとわかった。胸ぐらをつかまれ、左腕も壁に貼り付けたように拘束されている。
なぜこうなったのかわからないまま、耳元で声がした。
「そんなに知りたいなら教えてやる」
目の前に鬼がいる。
眉間に青筋を浮かべ、今にも喰らいつかんばかりに牙をむく。
「雪花を殺したのは私だ!」
葵は目を剥いた。
リンは口の端を片方だけ歪めて、奇妙な笑みを浮かべた。
「────ニシキは言わなかったのか?」
「……ど、して……」
「どうして?」
なにを言う、とリンの声が震える。
「そうしなければならなかったからだ────」
歯がこすれる、嫌な音がした。
「運の悪い女だった。なにせ、剣を握ったのは初めてだったから……」
リンの呼吸は乱れ、目はどこか上の空だ。
普段の冷静沈着さは欠片もなかった。
「父上だけは褒めてくださったがな」
葵の腕を掴んでいる手が、滑るように手に向かっていく。
「そんなに見たいなら見せてやる……苦痛に歪む顔、もがき苦しむ声────お前の姉の最期を!!」
その手が手首にまで迫ったとき、襟を掴む手が一瞬ゆるんだ。
葵はその手を振りほどくと、怒りを利き手に集中させ、渾身の力でリンの頬を叩いた。
ぱーんと、乾いた音が響いた。
尋常ではない痛みが腕にまで伝わり、骨が砕けたのかと思った。手のひらの感覚は麻痺しているが、ちゃんと動く。
本気で人をぶったのは初めてで、こんなに痛いものなのかという驚きもあったが、いっこうに怒りは治まらない。
再び静寂が訪れる。
リンの表情は見えない。動く気配もない。
しばらく、自分の息遣いだけを聞いていた。
もしかしたら、今ここで斬り殺されるかもしれない、とも思った。が、もうそれはそれで仕方がないと、この時は妙に肝が据わっていた。
「────明日……」
リンがぽつりと言った。
声色はやけに落ち着いていた。
「すぐに終わる。痛みもなく、斬られたと気づく間もなく────ほんの一瞬で……」
葵に向けられた顔は、どこまでも虚無であった。
「今はもう慣れている」
リンは既に、台の上にいくつか巻物を広げて待機していた。
余程染めたくないのか、髪は白いままだ。
(……反抗期か?)
惲薊だけには慕っているように見えたが……。
「済んだか?」
「うん、まあだいたい。……じゃあ、あとは頼んだよ」
ニシキは葵と目が合うと、ぱちんっと片目をとじた。
すぐには何のことかわからなかったが、〝鬼退治〟の件を思い出した。
(限りなく無理だわ)
そんなこと、頼まれても困る。
そんな葵の気も知らず、ニシキは軽い足取りで去っていった。
複雑な気持ちで窓の外を見やると、境内を一望できるくらい見晴らしが良く、楼門が景色のメインを飾っている。
(────バレるわけだ……)
いや、考えてみれば、最初から見越して監視していたのかもしれない。
腹黒いリンのことだ、きっとそうに違いない。
「学生なんだろ? 字は読めるか?」
リンは手元の巻物の一つを葵に向けた。
「そりゃあ、字くらい────何語!?」
言いながら巻物を覗き込むと、和紙に達筆な字がみっちりと書かれていた。
達筆だから読めないのではない。ひらがなでも漢字でもない、ましてや英語でもない。全く見たことも無い文字がズラズラと連なっている。
「お前……学生とは名ばかりで、実のところサボってたろ?」
「いやいやいや!! ちゃんと通ってました!! 優等生でした!!」
「……」
「なにその目!? 本当だから!!」
じとー、という擬音が聞こえてきそうな眼を向けられ、葵は強く抗議した。
(言葉は通じるのに、文字が違うなんて……!!)
そうだった、と思い直す。
ここでは常識が通用しないのだ。
嫌というほど目の当たりにしてきたのに、修正すべき常識のズレがまだあるのかと思うと、うんざりする。
(もう勘弁して欲しい……!)
身のうちで滂沱の涙を流しながら、文字を追っていくと、花の絵が出てきた。
「これ……!!」
葵の首の後ろにある痕と似ている。
「この書にはお前のことが書かれている」
葵は少なくとも興奮していた。
初めて、自分の出生について触れた瞬間だった。
「これは十七年前に下界の役所へ届けられたもの。忌み子を川へ流す前に、親は役所に申請する。それが各分社へ届けられる」
「社って、ここだけじゃないの?」
「ここは本宮だ。分社は七つある」
そんなに大きな組織だったのか、と葵は改めて驚いた。
そういえば、ニシキが兄弟は他にもいると言っていた。おそらくその兄弟たちは分社にいるのだろう。
「母親はお前たち双子を生んだ後、すでに他界しているらしい」
「……わ、私を生んだせい?」
昔は出産で死ぬ確率が高かったと、学校の授業で聞いたことがある。ましてや双子であれば、その確率はぐんと上がるだろう。水波盛もそれにあてはまりそうだ。
しかし、すぐにリンが否定した。
「いや、病と書いてある」
「病気? なんの?」
「穢れが発症したらしい」
水波盛にきてから、幾度となく聞いた言葉だ。
────死ぬほどの重い疫病。
葵にはその実態はわからないが、もしかしたら知っている病気のことかもしれない。
「その〝穢れ〟って、なんなの?」
「誰もが、身の内に種を持っている。その種が、災蝕によって芽吹き、身体を蝕んでいく」
「う、うーん……よくわかんない」
「見た方が早いが、本殿には病にかかった者はいない。下界は特に被害が広がっている」
「そんなに怖い病気なんだ……」
つまり自分は、母親の命を奪った病をこれ以上増やさないために犠牲となるのか。
そう思うと、ほんの少しだけ責任の重さがわかるような気もする。
(それでも死ぬのは嫌なんだけど……)
「父親の方は今も健在らしい」
「そうなの!? じゃあ、お父さんがどこにいるかもわかるってこと?」
「まあ……」
リンの歯切れが悪くなった。
「どこ?」
「知る必要はない」
「なんで!? 教えてくれるって言ったじゃん!!」
「お前、会いにいく気満々だろ」
「そんなことはござらんよ……!!」
尋常のような視線に、キリッとした顔で対抗していると、リンがため息をついた。
「親が恋しいのはわかるが────」
「別に恋しくはない」
「……なら、なぜ?」
「いや、なんていうか……しきたりとか掟だとしても、そんなすんなり捨てられるものなのかなって……」
しんみりと言った気はなかったのだが、お互いなんとなく黙りこくった。
本音を言えば、どんな面をしているのかくらい見てやりたい。それに、急に捨てた子供が目の前に現れたらどんな表情をするだろう。
泣いて謝ったって許してやらない。
そんな意地悪心から言っただけだったが、思いのほか言葉に悲壮感が漂ってしまっただけである。
「……なにか────」
先に口を開いたのは、意外にもリンだった。
「────やむを得ない事情もあったことだろう。下界は混乱していると聞く。はかり知れぬ苦労もあろう……」
リンは苦虫を噛み潰したような、妙な顔をしていた。
まさか、と葵は驚く。
「────もしかして……それ、なぐさめてる?」
リンは仏頂面で首を振った。
(ふーん……?)
だんだんわかってきた気がする。たぶん、リンも嘘がつけないタイプだ。
思い返してみれば、リンは言葉を伏せることはあっても嘘をついたことはなかった。多くを語らないのは、そういうことなのかもしれない。
とはいえ、さんざん雑な扱いをしてきたくせに、急にらしくもない気遣いをされると、逆に怖いものがある。
「私のこと殺すくせに……」
「────役目だからな」
「巫女を守るって言ってなかった?」
「おくり子というのは────」
リンは一呼吸おくと、お役目について簡潔に説明した。
「儀式の日まで巫女を護り、その命を絶つまで役目は終わらない」
葵は血の気が引くのを感じた。
初めて会った時に言われたことを思い出し、今になってようやく意味を理解した。
「おくるって────そういうことだったの!?」
ちっとも家に帰してくれないと思っていたけれど、そっちの意味の〝おくる〟だったとは……。
リンは呆れたようにため息をついた。
「今までで役目の期間が最短なのに、お前がいちばん面倒だった」
「私だって殴られたのは初めてだっての!! 謝れ!!」
「断る」
「はあ!? 謝ってよ!!」
「嫌だ」
リンはそっぽを向いた。
「ああでもしなけりゃ、大人しく引き返さなかっただろう。やむを得ずだ。────ま、川に落ちていなければ、まだマシな連れ戻し方ができたやもしれぬが……」
「やっぱわざとじゃん!! マジありえない!!」
こんな奴に可愛い時代があっただなんて、信じられない。
駆け落ちなんて、何かの間違いではないのか。
(くっそー……!!)
水波盛にきてから、だんだん言葉遣いも粗末になっていく自分に悲しくなってくる。
きっと、リンから謝罪の言葉を引き出すのは無理だ。ならば────、
「じゃあ……お姉ちゃんのこと教えてよ」
「姉……?」
「雪花っていうんでしょ? 殴ったこと謝らなくていいから、教えてよ」
「教えるといってもここに書かれてるのは────」
「そうじゃなくて!!」
リンが紙の文字をなぞるのを、手を置いて遮る。
「ほら、どんな子だったかとか……色々思い出とか、あるでしょ?」
リンは困惑したような、混乱しているような、複雑な表情をした。
「……なぜ私に?」
「だって……仲良かったんでしょ?」
「────ニシキがそう言ったのか?」
内緒、と言われていたが、葵はうなずいた。
リンが怒る素振りを見せなかったからだ。
「────よく知らない」
「いや、嘘つかないでよ」
「……」
リンは一点を見つめたまま黙り込んでしまった。
よほど言いたくないのだろうか。
だが、葵も簡単には引き下がれない。
「────……見せてくれない?」
「なにを……?」
葵は右手を差し出した。
自主的に視憶を使おうとするのは、これが初めてだ。
「見せてほしい。お姉ちゃんのこと」
「お前が望んでいるようなものはない」
「なんでもいい! 本当の家族のことを知りたい」
「────なにもないと言ってる!!」
急にリンが声を荒らげたので、びくっと肩がはねた。
しかし、葵にも知る権利がある。
意地になってリンの手を掴もうとしたが、すっと一歩後退されて、手は空をかすめた。
「視憶をそんなことに使うな!」
「そんなことじゃない!!」
もう一度触れようとするが、また避けられる。
「良くしてやれって言われたじゃん!!」
「お前が見るようなものはない!!」
「姉妹なのに!? 血が繋がった家族なのに!?」
じりじりと、互いに距離をはかりながら睨み合う攻防戦が続く。
葵が知りたいのと同じくらい、相手も知られたくないらしい。
「……つらいのはわかる」
「は?」
「その、可哀想だったと思うし……」
急に息が苦しくなり、背中に痛みが走った。
遅れて、壁に押し付けられたのだとわかった。胸ぐらをつかまれ、左腕も壁に貼り付けたように拘束されている。
なぜこうなったのかわからないまま、耳元で声がした。
「そんなに知りたいなら教えてやる」
目の前に鬼がいる。
眉間に青筋を浮かべ、今にも喰らいつかんばかりに牙をむく。
「雪花を殺したのは私だ!」
葵は目を剥いた。
リンは口の端を片方だけ歪めて、奇妙な笑みを浮かべた。
「────ニシキは言わなかったのか?」
「……ど、して……」
「どうして?」
なにを言う、とリンの声が震える。
「そうしなければならなかったからだ────」
歯がこすれる、嫌な音がした。
「運の悪い女だった。なにせ、剣を握ったのは初めてだったから……」
リンの呼吸は乱れ、目はどこか上の空だ。
普段の冷静沈着さは欠片もなかった。
「父上だけは褒めてくださったがな」
葵の腕を掴んでいる手が、滑るように手に向かっていく。
「そんなに見たいなら見せてやる……苦痛に歪む顔、もがき苦しむ声────お前の姉の最期を!!」
その手が手首にまで迫ったとき、襟を掴む手が一瞬ゆるんだ。
葵はその手を振りほどくと、怒りを利き手に集中させ、渾身の力でリンの頬を叩いた。
ぱーんと、乾いた音が響いた。
尋常ではない痛みが腕にまで伝わり、骨が砕けたのかと思った。手のひらの感覚は麻痺しているが、ちゃんと動く。
本気で人をぶったのは初めてで、こんなに痛いものなのかという驚きもあったが、いっこうに怒りは治まらない。
再び静寂が訪れる。
リンの表情は見えない。動く気配もない。
しばらく、自分の息遣いだけを聞いていた。
もしかしたら、今ここで斬り殺されるかもしれない、とも思った。が、もうそれはそれで仕方がないと、この時は妙に肝が据わっていた。
「────明日……」
リンがぽつりと言った。
声色はやけに落ち着いていた。
「すぐに終わる。痛みもなく、斬られたと気づく間もなく────ほんの一瞬で……」
葵に向けられた顔は、どこまでも虚無であった。
「今はもう慣れている」
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