忌巫女の国士録

真義える

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第一章

真実

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「────双子……私が……?」
「おいおい俺たち、腹ん中で会っただ、ろっ!!」

 テツの蹴りは、驚きで反応が遅れたリンの溝落ちに綺麗に入り、後方に吹き飛ばされた。
 リンは片膝をつきながら、苦しそうな息をもらした。

「いくぞ!!」

 半ば引きずられるようにしながら、必死に走る。
 テツの足が早くて時折もつれそうになるが、その度に腕を引っ張りあげて補助してくれるおかげもあって、なんとか転ばずに済んだ。

「はははっ!! どけどけー!!」

(な、なんで嬉しそうなんだろう……)

 テツが突っ込んでいく先には、オロオロしながら事の行く末を見物していた囃子隊はやしたいと見物人がいた。まさか自分達の方に突っ込んで来るとは思わなかったらしく、悲鳴を上げながら道をあける。
 人がはけたその先には、あの逆流する滝がうなるような音を立て、巨大な穴の中に向かって流れ込んでいる。

 滝を背にして、テツが立ち止まった。
 目の前は刀を構えた神官たちに囲まれている。
 惲薊うんけいもいつの間にか台座から降りていて、神官たちの前に出た。

(か、囲まれた!)

 こうなってしまうと多勢に無勢、しかも後ろは断崖絶壁で逃げ場はない。

「ここからは逃げられぬ。諦めよ」
「お前の言うことなんか、絶っ対、何ひとつ聞いてやらねえ!!」
「────いつまでもあまえた事を……」

 惲薊が、静かにテツを見据えている。

「……父上、これはどういうことですか?」

 遅れてリンがやってくると、神官たちは道をあけた。

「私は今の今まで双子だとは……説明願います!!」

 戸惑いを隠せないようで、父親に疑念ぎねんの視線を泳がせている。
 話を振られた惲薊は視線を向けることすらせず、口を真一文字につぐんだまま押し黙っている。
 口を開こうとしない惲薊に、リンが詰め寄ろうとした。

「……ち、父上──」
「お前に父と呼ばれとうないわ!!」

 惲薊の圧力に気圧され、リンは押し黙った。リンだけではない、皆ぎょっとして惲薊うんけいを見やる。

運命さだめは変えられぬ。神はお前を選んだのだ、リン──」

 惲薊うんけいが手を差し伸べたのは、テツだった。

(……リン? なんでテツのことをリンって呼ぶの?)

 葵も戸惑いながらテツと惲薊うんけいを見比べた。

「よく出てこられたものだ。それも、に────」

 リンは目の前で起きている大きな間違いを、瞬きせずに愕然がくぜんと眺めている。惲薊はリンに見向きもせず、まるで空気のような扱いだ。

「リン、お前の罪を許す」

 それを聞いた途端、リンの目が大きく開いた。
 今まで感じていた違和感や根も葉もない噂……、それら全てが繋がった瞬間、想像を絶する衝撃が彼の体を駆け巡った。

「────お前か……」

 呟いた声が、ひどく震えている。

「────十年前、巫女と逃げたのは!?」

 テツは答えなかったが、葵と目が合うと小さく頷いた。
 リンの眼に憎悪が燃え上がった。

「あの日──、私がやらされたのはお前の尻拭いだったのか!!」

 敵意がテツに向いた瞬間、惲薊うんけいがそれを遮った。

「────捕らえろ」

 誰も動かなかった。
 ────誰を、いやきっと聞き違いだろう、と困惑していて動けないのだ。

を捕らえろと言うておるのだ!!」

 惲薊うんけいの発した怒声が強引に神官たちを律した。当主はリンを指し示している。
 神官たちはおずおずとリンの両手を後ろにまわし、跪かせた。
 リンはショックのあまり抵抗もせず、いとも容易く動きを封じられてしまった。

「────なぜ……なぜです!? 私はずっとあなたに従ってきた!! あの日、父上に日から、どんなに非情な任務でも手を汚した!! それが国を想ってのことだと────」
「忌み子が自惚れるな!!」

 惲薊うんけいがリンを一蹴いっしゅうした。

「国のためだと? 笑わせるな忌み子が!! 貴様が、貴様こそが国の災厄!! 水波盛家の面汚しめ!! 貴様など子ではない!! 忌み子に父と呼ばれるたび、虫唾むしずが走るのだ!!」

 葵が、おそらく当事者の三人以外が現状の理解ができていない。けれど、一つだけわかったことがある。

「────まさか、入れ替わってた……!?」

 葵が呟くと、テツは不快そうに眉をひそめた。

「い、いつから……!?」

 その答えは、言い終わる前に出た。

(────雪花の儀式!?)

 テツの目にかげりがさす。

「〝リン〟ってのは、俺の名前だった。双子だったのは、俺もついさっき知ったんだけど……」
「それにしても、どうしてそんなに落ちついていられるの?」
「影武者がいるんだとは思ってたから。昨日、おっかない奴がいるって言ってたろ? 葵がリンの名前を出した時……あー、惲薊あいつのやりそうなことだ、って。──いやー、そっかあ……。俺、双子だったのかあ……」

 気の抜けたもの言いに、動揺しているのが馬鹿らしくなってくる。

「……九つの時、初めて役目を命じられた。それが、雪花のおくり子だったんだ。俺と雪花は、こんなちっさい頃からずっと一緒にいた。友達だったし、妹みたいなもんだった。雪花は受け入れていたけど、俺は……」

 それで、逃がそうとしたのか。

「儀式の前夜に、一緒に本殿を抜け出した。──でも、森を抜ける前に捕まっちまって……。役目を最後まで果たしたら許してやるって言われたよ」

 それでもテツは首を縦にふらなかったのだ。

「でも結局、雪花は死んじまって、俺は地下牢あそこに閉じ込められた。……たぶん、それまではアイツがそこにいたんだろう────なあ? そうだろ?」

 リンは顔を背けた。
 神子みわこである息子の大罪。普通なら死罪にあたいするが、跡取りを殺すわけにもいかない。その苦肉の策が、役目を完遂かんすいさせ、始末をつけさせることだった。
 しかし、息子はがんとしてそれを拒絶した。
 惲薊うんけいとしては、なんとか体裁を保ちたかったのだろう。

(────じゃあ、リンは? その為だけに、ずっと利用されていたの!?)

 リンは冷たい地面の一点を見ながら、悲痛の声をあげた。

「父上が……、おおやけで父と呼ぶことを禁じられていたのも、髪を染めるよう常におっしゃられていたのも、すべて……」
「忌み子を王にするわけにはゆかぬ。いずれまた、すげ替えるつもりだったが……こうなっては仕方あるまい」

 惲薊はさげずむような眼で見下ろす。

「あれごときで錯乱しおって。その頭でよう人前に出られたものよ。恥晒はじさらしめ!!」
「────あの日、初めて刀に触れたのです!! わけも分からずに持たされ……、あれはこんなことの為だったのですか!? あんな、あんな死に様……哀れだ……あの子があまりに哀れだ!!」
「だが振り下ろしたのは貴様だろう!! 刀を投げ捨てることもできたであろうに!? おのれが選んだことをなげくなど言語道断!!」
「そうだ!! だから私は鬼になると決めたのです!! 国のため犠牲になる者たちに苦痛を与えぬと……二度と、あの子のような死に方はさせぬようにと、おのれの剣を鍛えてきた!! ──私はあの日、あなたのような非情な鬼になると決めたのです!!」

 惲薊うんけいがリンの横面を殴りつけた。
 ふところから手拭いを出すと、手についた血を拭い、投げ捨てた。
 脇差しを鞘ごと抜くと、今度はその鞘を使って何度もリンの身に打ち付ける。

「私のようにだと? 笑わせるな!!」

 鈍く、痛々しい音が延々と続く。
 目を覆いたくなるほどの光景に、葵の目には涙が盛られていく。
 葵はテツの腕を強くゆすった。

「────とめて!! とめてよ!! あんたならできるでしょう!?」

 しかしテツは首を振った。

「あいつは雪花せつかを殺した」
「──でもそれは……!!」
「仕方がなかったのはわかる。──けど、それでも俺は許せない」

 葵は言葉に詰まった。
 テツもまた、先程のリンと同じく憎悪を宿した眼をしていた。

「この災いの元凶め!! そんなモノが息をするなどもっての外!! それが兄の誤ちの始末をさせてやったのだ!! 使い道を見出してやっただけありがたく思え!!」
「────父上!! おやめ下さい!! 死んでしまいます!!」

 たまらず割ってはいったのはニシキだった。血を吐き、ぐったりするリンをその腕に抱いた。

は存在してはならぬのだ!! 決して!!」

 しだいに状況を理解し始めた神官たちが、それぞれ考えを巡らせ始めた。

「……巫女が減ったのは十年前からだ」
「た、確かに……」

 ざわざわとどよめくなかで、あちこちで否定的な意見があがった。
 会議の際にリンをしたっていた者たちまでもが、その意見に同意するように頷いている。
 葵は胃の中のものが逆流してくるような感覚に襲われた。
 そんななか、神官たちの後方で、老婆が悲鳴に近い声をあげた。

「────い、忌み子じゃあ!! 水波盛は呪われておったのだ!! 忌み子の呪いじゃあ!!!!」

 この声が警報の効果でもあったのか、神官以外の下働きの者たちに動揺が広がった。
 皆、目の色を変えてリンを見た。ほんの数分前までは畏怖していた相手を、今や別の意味の眼で見ている。
 リンはどこか諦めたように俯いた。

「皆、呪われるぞ!! 水波盛はしまいじゃあああ!!」

 耳障りな悲鳴が止まないなか、惲薊うんけいが動いた。
 老婆の元へまっすぐに歩み寄った時、群衆の着物に血飛沫ちしぶきが飛んだ。
 早すぎて、何をしたのか見えなかった。皆、何が起きたのか理解が追いつかないうちに、惲薊は刀を鞘におさめていた。

 老婆が、その小さな身体から大量の鮮血を飛び散らせながら、その上にぐしゃりと倒れた。
 遅れて悲鳴をあげた二人の下女が死体から距離をとると、皆、慌てて後退した。なかには腰を抜かし、う者もいる。
 青ざめ、己の運命に絶望し、泣きじゃくりながら嗚咽おえつをもらす。

 惲薊うんけいは涼しい顔で戻ってくると、神官たちを見回した。

「────やれ」

 いとも容易く命じた。
 神官たちは戸惑っていたが、うち一人がやけくそに声をあげると、それに続けといわんばかりに、いっせいに斬りかかっていった。
 逃げ惑う者たちを無惨に斬りつけ、確実に数を減らしていく。

「────や、やめてください!! あの者たちは無関係です!! 殺すなら私を──!!」

 惲薊うんけいはリンの髪を掴むと強引に惨劇を見せつけた。

「よく見ておくが良い。貴様の存在を知ってしまったばかりに命を落とすのだ。全て貴様がもたらしたわざわい。貴様が罪のない人々を殺したのだ」
「私を!! 私を殺してください!! ならば問題ないでしょう!? お願い申し上げます!! 殺してください!!」
「くどい!!」

 惨劇を眺める惲薊うんけいのそれは、異様なほど平静だった。

「忌み子の存在を知った、それが問題なのだ」

 それでもなお、頼み込むリンを、ニシキが腕に力を込めて抑えた。表情こそ見えないが、その身体は見てとれるくらい、震えている。

 葵も自身のひどい震えを止めることができず、顔をおおった。とても直視できる光景ではない。

「────ひどい……ひどい!! こんなの人のすることじゃない!!」
「よくわかったろ? 水波盛ここところだ」

 ────反吐へどが出る、テツは鬱々うつうつと呟いた。


 やがて悲鳴が止むと、神官たちの乱れた息遣いだけになった。
 リンは顔面蒼白になって、どこか一点を見ている。
 重い足取りで戻ってきた神官たちに、惲薊は何事もなかったかのように平然と指示した。

「ほかに、ああなりたい者はおるか?」

 誰も答えなかった。答えられるはずもない。
 それから惲薊はリンをあごでさした。

は地下牢にもどしておけ」

 リンは、はっと意識を取り戻した。
 その目には絶望と、恐怖が浮かんでいる。

「────斬ります!!」

 リンが咄嗟に言った言葉に、惲薊は不愉快そうに眉間に皺を寄せた。

「腹を斬ります。地下牢あそこに戻るくらいなら、存在してはならぬのなら、ここで自害致します」

 そう宣言したリンは、何か押し殺すようにギュッと目を閉じる。そして再び開いた時には、その目に強い意志が宿っていた。
 そんなリンの姿に、葵は胸が締め付けられるように苦しくなった。滂沱の涙を流しながら、嗚咽おえつを止めることができなくなっていた。

「さすれば、難儀せぬのだが……」

 憎々しく吐き捨てた。

「目の届くところで死なれては遺言に背くことになる」
「────遺言……?」

 リンはなんのことかわからずに、惲薊うんけいを見上げる。

「妻──、れんの遺言がなければ、とっくに赤子の頃に殺しておる。……追い出そうにも、いつどこで神子みわこの顔と知られるかもわからぬ。ゆえに貴様を幽閉するほか、手がないのだ」
「……そうか、遺言……、母上が……」

 ほんの少し、リンの目が和らいだような気がした。

「────ならば、それで十分……」

 そう、寂しげに呟いた。

(────同じだ)

 リンの姿にかつての自分の姿が重なって見えた。
 冷静沈着で地位もあり、完璧に見えていたが、リンもまた葵と同じく、疎外感を抱えて生きてきたのだろう。そして同じく、一番欲しているものが手に入らない。

「連れて行け!!」

 ニシキがリンを立たせようと、肩を抱いた。
 葵は、考えるより先に手が動いていた。

「────その人を離しなさい!!」

 気付いたらテツの首にかんざしを突き立てていた。

「こいつがどうなってもいいの!?」
「────ええっ!? ……なにしてんの、葵? ──葵さま!?」

 テツが思った以上に狼狽うろたえてくれたおかげで、神官たちの目に動揺の色が浮かんだ。
 しかし、惲薊うんけいは興味なさげに葵を見据えている。

女子おなごに容易くやられるような駄馬だばはいらぬ。なにも、子はそれ一人ではない」

 惲薊はニシキに視線を流した。
 確かに、子供が他にもいるのはニシキから聞いている。

「じゃあ、この人殺して私も飛び降りるから!! 跡継ぎも減って、儀式もできない──ざまあみろっつーの!!」

 惲薊の額に青筋が浮かんだ。
 葵は怖くて手が震えるのを必死に隠した。本当はそんな勇気はない。けれど、いざとなれば本気でやらなければならないとも思う。
 この状況で、なんとかその覚悟を決めようとしている。
 それを知ってか、ニシキは片手で口を隠して俯いている。肩がわずかに揺れている様子から、笑いを堪えているのが見て取れた。
 呆然としているリンを葵は睨んだ。

「ぼさっとしてないで!! しっかりしてよ!!」
「────……は、は……?」

 その瞬間、ニシキが半ば放り投げるようにリンの背を押した。

「────ニシキ、何を!?」
「くそー!! 仕込み刀かー!? こいつ一筋縄ではゆかぬー!!」

 ひどい棒読みである。
 自分で切ったのか、ニシキは手から流れる血を見せびらかした。
 それでもカバーしきれない大根演技に、葵は苦笑いをもらす。

「ニシキ!! どういうつもりだ!?」
「父上、あの娘は本気です。人畜無害そうに見えて、実はかなり危ない女子おなごなのです」

 ニシキはそういうと、葵にこっそりウインクした。

(────ありがとう、ニシキさん!!)

 驚いてニシキを見やっているリンを引き寄せると、テツがこっそりと抗議した。

「聞いてないぞ!? こいつも一緒だなんて、俺は嫌だからな!?」
「だって、今決めたんだもん。一緒じゃなきゃ、私も行かないから。一人でどうぞお逃げ下さい」
「────は!? はあ!? 勝手すぎるだろー!!」

 テツは頭から湯気が出そうなくらい真っ赤になりながら怒っている横で、リンは逆の方向に視線を流した。
 リンもまた、テツと行動を共にするのは本意ではないのだろう。

「勝手なのはあんたでしょ!? 私を突き落として、一人でさっさと逃げて!! 裏切られたと思ったんだから!!」
「────ち、違うって!! ちゃんと迎えにきただろ!?」
「だったら私の言うこときいて!!」
「ええっ!?」

 どういう理屈かわからない、と目を白黒させているテツに、葵はまくし立てた。

女子じょしは我儘なの!! そういう生き物なの!! 男はそれを全部叶えてなんぼなの!! それが真の男ってもんでしょーが!!」
「────そ、そんなっ……!?」

 テツは思わぬ敵の襲撃をうけたような顔をした。

(これどん引きされても文句言えないわー……)

 無茶苦茶な理屈を言っている自分に興ざめした。
 本当にテツを怒らせるかもしれない、という不安がわいたが、もう取り消すこともできない。
 そうなった時は、覚悟するしかない。そう思った時────。

「────そうなのか……し、知らなかった!! おしっ、任せろ!!」

 なぜか素直に納得したテツは自分を奮い立たせ、立ちはだかる神官たちを見据えた。
 その隣でリンが物言いたげに目配せしたが、小さくため息をもらした。

(なんだろう、ちょっと罪悪感が……)

 純朴な心を利用する悪い大人になった気分だったが、気を取り直した葵は、重大な疑問を口にした。

「────で、どうやって逃げるの?」
「考え無しか? お前ら馬鹿なのか?」

 これにはリンが思わず反応した。

「だ、だって────」
「バカにすんなよ!? ちゃんと考えてある!!」

 すぐさま噛み付いたテツが、懐から何かを取り出した。
 真っ赤な、片手大の果物だった。

「……りんご?」

 葵もリンもテツの意図を読めずに困惑していると、どこからか、地鳴りのような音がし始めた。その音は確実に大きくなり、近づいてくる。

 次の瞬間、横に並んで刀を構えている神官たちの背後から、狛犬が飛び出してきた。
 惲薊うんけいが素早く反応し、身をかわしたが、逃げ遅れた神官たちは次々となぎ倒された。
 狛犬はそんなことを気にもとめずにテツの目の前で急ブレーキをかけると、テツの手ごと果実にかぶりついた。

「────うぎゃあああ!! 手があああああ!!!!!!」

 噛まれた手からダラダラと血を流し、悶絶もんぜつするテツを、リンは冷めた目で見やっている。

(────神獣、餌付けされてる……)

 なんとも気の抜けた光景に、緊張の糸がプツリと切れた。すっかり恐怖心も抜けてしまうと、妙に頭の中が冴えてくる。

「わ、私!! おたくの息子誘拐しますから!!」

 大声で宣言すると、今度は蚊の鳴くような声で付け足した。

「あの、くれぐれも追ってこないでください……」

 無理だろう、誰もが葵にそんな顔を向けているなか、ニシキだけが、必死に笑いをこらえている。
 惲薊うんけいが厳しい眼をテツに向けた。

「リン、今戻れば大目に見てやろう」

 テツは葵に目配せすると、ニッと笑った。

「────俺はそんな名じゃない」

 この返事を聞くなり、惲薊うんけいが腕を振り下ろして攻撃の合図を出した。
 男達が雄叫びをあげながら突進してくる。その様は、牙を剥き出しにした獣の群れのようだ。

「しっかりつかまってろよ」

 テツの声が耳を掠めた。葵を抱く腕に力が加わり、身体が後方にぐらりと傾いた。
 反対側からはリンの腕にも支えされ、そのまま三人は狛犬にしがみつきながら断崖絶壁へと飛び出した。

「────うそ、うそうそ!! いやあああああああ!!!!!!」

 振り下ろされた刃が目の前で空を斬ったのを最後に、視界が反転した。一面に晴天の空が広がると同時に、気分が悪くなるような浮遊感に襲われる。
 一生に一度しか出さないであろう、身を引裂く様な悲鳴を上げているが、吹き荒れる風と打ち付ける滝の轟音ごうおんで全て掻き消され、自分の耳にすら届かない。
 逆流する滝の水を何度も体に浴びながら、葵は意識を手放した。


***


 大罪人を捕らえ損ねた神官たちは、四つん這いになったりしながら、恐る恐る滝の下を覗く。
 惲薊うんけいも早足で駆け寄ったが、すでに断崖絶壁から身を投げた三人の姿は、霧の中に消えて見えなくなっていた。

「探せ!見つかるまでだ!」
「もし、死んでいた場合は……?」

 額に青筋をくっきりと浮かべて怒鳴る神王みわおうの背に向かい、ニシキは片膝かたひざをついた。
 惲薊はわずかな沈黙の後、不機嫌そうに吐き捨てた。

「たとえ身がバラけていようが、巫女の身体は使う。一つ残らずかき集めろ!」
「はっ」

 ニシキは遠ざかる父親の背に頭を下げた。
 その口に自然と弧を描いて。
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