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二.月影座のちらし【4】
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翌朝。卯の正刻を少し過ぎた六時半。あんな形で逃げてしまったのに、仮面の公子らとさっそく食堂で顔を合わせてしまった。気まずい。家族経営で他に雇人がおらず、代わりがいないのだから仕方がない。
「朝、早いんだね」
普段と変わらぬ爽やかな美声から、気分を害さなかったことが窺える。座長ともあれば寛大なのだろう。山菜を盛りつけた器を並べていた春鶯は、その手を止めて挨拶した。
「謝公子、琳公子。おはようございます」
「おはよう。きみに一つ、聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「なんでしょうか?」
央央のことだろうかと背筋を伸ばすと、春鶯の予想通り……とはならなかった。
「妹君の名前は聞いたけど、きみの名前は教えてくれなかったんだ。聞いてもいいかな?」
「あ、はい、いいですよ。私の名前は李耀です。字は春鶯といいます」
春に生まれたからと亡き母がつけてくれた名前だ。とても気に入っている。
「春鶯か、いい名だね」
「あ、ありがとうございます」
「春鶯」
楚月に名前を呼ばれただけだというのに、どこか緊張してしまった。こんな経験は、十九年間生きてきた中で初めてだ。
「はい、なんですか? 謝公子」
「私の名は謝霜。字は客簿にある通り、楚月だ。好きに呼んでくれてかまわない。こっちは保鏢をしている、琳晋高。年齢は俺の二つ上で、二十二だよ」
晋高は小さく頭を下げた。
「改めて、よろしくお願いしますね。謝公子、琳公子」
「ところで春鶯。きみの書いた物語で、少年が保鏢だったのは、晋高を参考にしたからか?」
「え? ああ、そうです。一人で大勢倒されたなんて、あまり聞かないので」
「ふうん、そうか……。今度書くときは、男前すぎて仮面をしている劇団の座長が、宿屋で働く健気な娘と、恋に落ちる恋愛ものを書いてほしい」
「えっ!?」
朝っぱらからなにを言っているのだろうか。春鶯は激しく動揺してしまった。異性に絡まれるのは、いつも妹の央央だったので、十九歳という年齢だが、異性に対する免疫力は皆無だ。
「冗談だよ。また書けたら読ませてほしい」
「あの……どうして私なんですか? 劇団には脚本担当の方もいらっしゃいますよね?」
詳細は知らないが、央央が以前、言っていたことがある。創作が好きならば、劇団の脚本を書いてみたらどうか、と。春鶯は本気にしておらず、今の今まですっかり失念していた。物語が読みたければ、素人の作品ではなく脚本家がいる。
「もちろんいるよ。でも、きみの書く文章は、勢いがあって面白いんだよ。そうだ、春鶯にはこれを受け取って欲しいんだ」
楚月が懐から取り出したのは、月影座の公演招待券だった。基本的には、演劇を観賞する際の座席は早い者勝ちだ。前の方がよければ、少し値は張るが見ることができる。
ところが月影座では、最前列は身内や親しいもののために空けているらしい。他の劇団では聞いたことがない。そこの最前列に座るための招待券を、楚月が惜しげもなく差し出したのだ。
「頂けません!」
心付けをもらっただけでなく、妹が世話になり、しまいには自分まで招待してもらうだなんて、素直に受け取るには気が引けてしまう。首を振って断った春鶯の考えを読んだのか、楚月はとあることを言い出した。
「──創作の役に立つかもしれないよ?」
「う……そ、それは……」
「それとも、俺の芝居を見ても、意欲を掻き立てられないと思ってる?」
「そんな、とんでもない!」
それだけはないと、自信を持って否定することができる。演劇愛好家で目の肥えている央央が、月影座の初日公演を観てからというもの、今日も通うと興奮気味に言っていたので、よっぽど素晴らしい演技だったのだろう。
「まだ俺の演技を見ていない春鶯に、どうしても見に来てほしいんだ。だめかな?」
首を小さく傾げて問いかけられてしまい、嫌だと言い出せない雰囲気を感じ取ってしまった。
「……わ、わかりました」
「ありがとう!」
お礼を言うのはこちらでは、と突っ込みたくなったものの春鶯は口を閉ざした。招待券を受け取ろうとした瞬間、ドタドタと誰かの足音が響く。
「話し声がするなと覗いてみたら、また破ったの!? 私がいないときに、個人的な会話をしないでって約束したわよね!?」
走ってきたのは央央だった。口元をへの字に曲げながら怒っている。
「きみの分の招待券もある」
楚月の手元にあった招待券を、央央は瞬時に奪い取った。いくらなんでも行儀が悪すぎる。
「明日の演目は!?」
「西遊記」
「どこをやるの!?」
「それは明日のお楽しみで」
目上の人に対する態度ではないのに、楚月は憤慨することもなく、穏やかに対応している。二人は親密そうだ。そんな央央は、今度は隣で突っ立っていた晋高に話しかけた。
「ところで琳哥哥はなんの役をやるの?」
昨日、会ったばかりだというのに「哥哥」と親しげに呼んでいるので、これまた驚いた。楚月に対する態度も珍しいが、晋高に対する態度はそれ以上だ。やたらと距離が近い気がする。
「……俺は楚月の雑用係だ」
「ふーん。琳哥哥もやればいいのに。大木の役とか!」
「……」
「冗談よ? ところで私、姉と親友以外には内緒にしてるんだけど、易者をしているから手相を見てあげる! もちろん、昨日守ってくれたお礼だから、お題は無料だよ」
そう告げると央央は、勝手に晋高の手相を見るために手を取った。
「結構だ」
「遠慮しないで。ええと、琳哥哥の生命線は長いのね。この手相、女の子に人気だって出ているわ。身に覚え、あるでしょ? それから、琳哥哥の運命の人は……もう出会ってるみたい。私だったりしてね?」
八歳も年齢が離れているというのに、央央は楽しそうに掌を見ている。老婆の変装をし、町中で易者として手相を鑑定しているときよりも笑みが溢れている。けれど、ここは姉として、母親の代わりとして、しっかり注意しなければならない。
「阿央。目上の方には礼儀正しくしなきゃダメよ。琳公子、妹が失礼しました」
「かまわない」
「哥哥って呼んでもいいって言うから、平気よ」
「阿央! 普段は聞き分けのいい子なのに、今日はどうしたのかしら……」
注意しているのに聞こうとしないので、春鶯は困惑した様子で首を傾げた。
「故郷にいる弟妹と変わらないから、気にしなくていい」
「ちょっと、私は確かに妹だけど、琳哥哥の実妹じゃないんですけど?」
なぜか故郷にいる実弟、実妹と変わらないと言われた瞬間、央央は不満そうに頬を膨らませた。その理由が春鶯には理解できなかった。
「朝、早いんだね」
普段と変わらぬ爽やかな美声から、気分を害さなかったことが窺える。座長ともあれば寛大なのだろう。山菜を盛りつけた器を並べていた春鶯は、その手を止めて挨拶した。
「謝公子、琳公子。おはようございます」
「おはよう。きみに一つ、聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「なんでしょうか?」
央央のことだろうかと背筋を伸ばすと、春鶯の予想通り……とはならなかった。
「妹君の名前は聞いたけど、きみの名前は教えてくれなかったんだ。聞いてもいいかな?」
「あ、はい、いいですよ。私の名前は李耀です。字は春鶯といいます」
春に生まれたからと亡き母がつけてくれた名前だ。とても気に入っている。
「春鶯か、いい名だね」
「あ、ありがとうございます」
「春鶯」
楚月に名前を呼ばれただけだというのに、どこか緊張してしまった。こんな経験は、十九年間生きてきた中で初めてだ。
「はい、なんですか? 謝公子」
「私の名は謝霜。字は客簿にある通り、楚月だ。好きに呼んでくれてかまわない。こっちは保鏢をしている、琳晋高。年齢は俺の二つ上で、二十二だよ」
晋高は小さく頭を下げた。
「改めて、よろしくお願いしますね。謝公子、琳公子」
「ところで春鶯。きみの書いた物語で、少年が保鏢だったのは、晋高を参考にしたからか?」
「え? ああ、そうです。一人で大勢倒されたなんて、あまり聞かないので」
「ふうん、そうか……。今度書くときは、男前すぎて仮面をしている劇団の座長が、宿屋で働く健気な娘と、恋に落ちる恋愛ものを書いてほしい」
「えっ!?」
朝っぱらからなにを言っているのだろうか。春鶯は激しく動揺してしまった。異性に絡まれるのは、いつも妹の央央だったので、十九歳という年齢だが、異性に対する免疫力は皆無だ。
「冗談だよ。また書けたら読ませてほしい」
「あの……どうして私なんですか? 劇団には脚本担当の方もいらっしゃいますよね?」
詳細は知らないが、央央が以前、言っていたことがある。創作が好きならば、劇団の脚本を書いてみたらどうか、と。春鶯は本気にしておらず、今の今まですっかり失念していた。物語が読みたければ、素人の作品ではなく脚本家がいる。
「もちろんいるよ。でも、きみの書く文章は、勢いがあって面白いんだよ。そうだ、春鶯にはこれを受け取って欲しいんだ」
楚月が懐から取り出したのは、月影座の公演招待券だった。基本的には、演劇を観賞する際の座席は早い者勝ちだ。前の方がよければ、少し値は張るが見ることができる。
ところが月影座では、最前列は身内や親しいもののために空けているらしい。他の劇団では聞いたことがない。そこの最前列に座るための招待券を、楚月が惜しげもなく差し出したのだ。
「頂けません!」
心付けをもらっただけでなく、妹が世話になり、しまいには自分まで招待してもらうだなんて、素直に受け取るには気が引けてしまう。首を振って断った春鶯の考えを読んだのか、楚月はとあることを言い出した。
「──創作の役に立つかもしれないよ?」
「う……そ、それは……」
「それとも、俺の芝居を見ても、意欲を掻き立てられないと思ってる?」
「そんな、とんでもない!」
それだけはないと、自信を持って否定することができる。演劇愛好家で目の肥えている央央が、月影座の初日公演を観てからというもの、今日も通うと興奮気味に言っていたので、よっぽど素晴らしい演技だったのだろう。
「まだ俺の演技を見ていない春鶯に、どうしても見に来てほしいんだ。だめかな?」
首を小さく傾げて問いかけられてしまい、嫌だと言い出せない雰囲気を感じ取ってしまった。
「……わ、わかりました」
「ありがとう!」
お礼を言うのはこちらでは、と突っ込みたくなったものの春鶯は口を閉ざした。招待券を受け取ろうとした瞬間、ドタドタと誰かの足音が響く。
「話し声がするなと覗いてみたら、また破ったの!? 私がいないときに、個人的な会話をしないでって約束したわよね!?」
走ってきたのは央央だった。口元をへの字に曲げながら怒っている。
「きみの分の招待券もある」
楚月の手元にあった招待券を、央央は瞬時に奪い取った。いくらなんでも行儀が悪すぎる。
「明日の演目は!?」
「西遊記」
「どこをやるの!?」
「それは明日のお楽しみで」
目上の人に対する態度ではないのに、楚月は憤慨することもなく、穏やかに対応している。二人は親密そうだ。そんな央央は、今度は隣で突っ立っていた晋高に話しかけた。
「ところで琳哥哥はなんの役をやるの?」
昨日、会ったばかりだというのに「哥哥」と親しげに呼んでいるので、これまた驚いた。楚月に対する態度も珍しいが、晋高に対する態度はそれ以上だ。やたらと距離が近い気がする。
「……俺は楚月の雑用係だ」
「ふーん。琳哥哥もやればいいのに。大木の役とか!」
「……」
「冗談よ? ところで私、姉と親友以外には内緒にしてるんだけど、易者をしているから手相を見てあげる! もちろん、昨日守ってくれたお礼だから、お題は無料だよ」
そう告げると央央は、勝手に晋高の手相を見るために手を取った。
「結構だ」
「遠慮しないで。ええと、琳哥哥の生命線は長いのね。この手相、女の子に人気だって出ているわ。身に覚え、あるでしょ? それから、琳哥哥の運命の人は……もう出会ってるみたい。私だったりしてね?」
八歳も年齢が離れているというのに、央央は楽しそうに掌を見ている。老婆の変装をし、町中で易者として手相を鑑定しているときよりも笑みが溢れている。けれど、ここは姉として、母親の代わりとして、しっかり注意しなければならない。
「阿央。目上の方には礼儀正しくしなきゃダメよ。琳公子、妹が失礼しました」
「かまわない」
「哥哥って呼んでもいいって言うから、平気よ」
「阿央! 普段は聞き分けのいい子なのに、今日はどうしたのかしら……」
注意しているのに聞こうとしないので、春鶯は困惑した様子で首を傾げた。
「故郷にいる弟妹と変わらないから、気にしなくていい」
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