エリュシオンでささやいて

奏多

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第0章 Silent Voice

プロローグ

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  *+†+*――*+†+*


「柚――、もう俺、限界。痛かったら、俺の肩を噛んでいいから。優しく出来なかったら、ごめんな……」

「……須、王……っ」



  高校3年の時――。

 音楽室のグランドピアノでいつものように練習をしようとしたあたしは、校内一の美男子と噂される隣のクラスの男子が、音楽室でピアノを弾いているのを見た。

 それは優雅ともまた違い、両手の指が休む間もなく忙しく動き回り、鍵盤を叩きつけるような激しい曲で、ジャズの旋律にも似た……ニコライ・カプースチンが作曲したピアノ曲、『8つの演奏会用練習曲 作品40-3「Toccatina(トッカティーナ)」』。

 それを軽々とやってのけた男子に、あたしは思わず拍手をした。

 すると、ようやくあたしに気づいたらしい彼は、その整った顔を真っ赤にさせ、小動物のようにふるふると震えた。

 クールなイケメンだとモテていたのは知っていたけれど、あたしが勝手に近寄りがたい人種だと敬遠していた彼は、この曲が好きでスマホに入れて持ち歩き、あたしがいない時に音楽室で練習していたそうだ。

 音符が読めずピアノも習ったこともないのに、我流で耳だけの完全コピーが出来る驚異的な天才ぶりを証明したのだが、彼はあたしが音大に向けて、音楽室で練習していたのを知っていたみたいで、クラシックというものを教えて欲しいと頭を下げた。

 学内ではすれ違うことすらないあたし達は、放課後の音楽室でこっそり会って、ピアノに留まらず音楽談義を繰り返して数ヶ月。

 彼の知る世界は、クラシックしかしらないあたしの世界では刺激的で、急速に彼に惹き込まれていく自分に気づいた。

 だが好きだと淡く自覚しただけだったある日、隣で連弾中、突然指が止まった彼に訝かり視線を絡ませれば、苦しそうな顔で唇を奪われ、あとはなし崩しのように、最後まで彼に抱かれて。

 重ねた肌の熱から、あたしは彼に対する愛がかなり育っていたことを知った。

 窓から差し込む茜色の夕陽に照らされた彼の、あたしを見る……男の情熱的な眼差し。

 あたしの名前を切なく呼ぶ彼の声に包まれながら、彼に愛されているのだと感じれば、破瓜の痛みすら幸せだと涙しながら、共に身体を揺してひとつになった――。
 

 ……そんな至福の時は、すぐに終わる。

 次の日、あたしは見てしまったんだ。
 彼との思い出が詰まった音楽室で、彼が他の女に情熱的なキスをしているのを。

 彼はあたしを見ても焦ることなく、平然と言った。

「お前、もう要らないから」

  彼の隣には、ナイスバディな美女。

「有名人の娘だからお前のバージンに価値があった。それがなくなれば、お前に価値はねぇ。性処理でもいいって言うなら、抱いてやるけど?」

  初エッチの次の日、告白すらしていないあたしを無価値だとフッた彼は、呆然と立ち竦むあたしの元から、女と共に笑い声をたてて去った。

 ……音楽室に二度と現われることはなく。

 確かに、あたしのことを好きだとは一度も言っていなかった。

 男は皆狼だという高い授業料を支払ったと思えども……、セックスの時に、あたしの名前を甘く切なく呼んだあの時の彼が忘れられなくて、彼が他の女にそうしているのだと思うと、嫉妬で苦しくて。……あんな奴と恨みたくても、胸が痛くて涙が零れて。

 なんで人前であんな言葉でフらないといけなかったのか。
 そこまで酷い男だったのか。

 あたしだって、身の程はわきまえていた。彼に釣り合うとも、恋人になりたいとも欲を出していなかったのに。ただ好きなだけで、あたしを女として求めてくれたのが幸せだったのに。

 同時に、否定されたセックスに拒否反応が芽生えて、触れられ挿入されたすべての感覚を押し出したいかのように、吐いてばかりいた。

 そうやって失恋を引き摺っていたから、体は倦怠感に包まれ、恐らくゾンビのようにふらふらと歩いていたのだろう。

 階段から転げ落ち、おかしな角度で下敷きにした両手指を負傷した。突き指や捻挫とか、治るものならよかったのに、骨折だけではなく剥離した指の骨が神経に障り、左手の薬指と右手の小指が動かなくなってしまったのだ。

 ひとよりちょっとピアノが出来る程度の腕だったとはいえ、親が勧めるままなんとかかろうじて音大の推薦を決めていたあたしは、その怪我により推薦が取り消しとなり、著名な音楽家ばかりの家族に顔向け出来なくなった。

 彼らは、満足にピアノを弾けなくなったあたしを、見えない幽霊かのように扱い、無言で責め立て、居たたまれないあたしは、寝る時以外、公園でぼうっと過ごすようになった。
 

 あれは蒸し暑い夜だった――。

 ブランコに座っていたあたしは、細い月から落ちた青白い光の雫が、公園の花畑の中で、輪郭を朧に浮かび上がらせていく様を見た。

 夜風に長い髪と、白いネグリジェの裾を翻しながら、くるくると回っていた人物は、胸の前で両手を組んで祈るような仕草を見せると、両手を両側に広げる。

 夢なのか、現なのか。
 その姿は、まるで天使の羽がぶわりと広がったようで。

 天使は、突如仰け反り、星空に向けて叫ぶようにして歌い出した。

 Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen
 (復讐の炎は地獄のように我が心に燃え)

 Tod und Verzweiflung flammet um mich her!
 (死と絶望がわが身を焼き尽くす)

 それはちょっと前、高校での声楽の授業で習った、モーツァルト作曲のオペラ「魔笛」、夜の女王のアリア。

 世界的に名の知れたオペラ歌手のあたしの母ですら歌えなかった、ソプラノのさらに高い音を転がすように歌うコロラトゥーラによる超絶技巧を強いる曲を、難なく天使は歌い上げていた。

 その音域とその声量に、ただ驚愕して戦慄するしかなく――。

 天使は喉元に、チョーカーのようなファッションとは縁遠い……、正面にリングのような金具がついた、幅5cmほどの深紅色の首輪をつけている。

 血色のような異様な枷がまるで、歌う天使の縛めのようにあたしには見えた。

 捕囚の天使が、ここまで歌い上げる情熱はなんなのか。
 
 荒寥していたあたしの心が、天使の至高の歌声に揺らぎ、息づく。

 天使が佇んでいたあたしに気づき、小首を傾げる。

 美しく整った顔。
 驚きに目が見開かれている。

「素晴らしい歌を、邪魔してごめんなさい」

 あたしの謝罪に、天使は邪気のない顔で微笑むと近づいてくる。

 そして。あたしの首の後ろに両手を組むと――深いキスをしてきたのだ。

「な……んんぅっ」

 くちゅくちゅと音をたてて動く舌が、あたしの口腔内から脳までもかき混ぜているような錯覚に陥る。

 今、なにが起きてるの?

「や……ん、んんっ」

 なにこれ、気持ちいい。

 異性とも、こんな蕩けるような極上のキスをしたことがなかったのに、相手は同性だ。しかもあたしより年下だろう少女に。
 
 下腹部の奥が熱く濡れて、内股が震えて力がはいらない――。

 思わずへたりと地面に座り込んだと同時に、天使はようやく離れた。
 
 やけに赤い唇をぺろりと舌で舐める仕草は、まるで好色な小悪魔のよう。

 文句を言おうと見上げたあたしに、天使はまた歌い出した。
 今度はもの悲しい、賛美歌のような旋律を。

「この声……」

 歌詞もなにもなく奏でられるその声は、あたしの声色そのもの。

 キスであたしの声音を複製したかのように、彼女はあたしの声で歌に感情を込めた。悲しいと、苦しいと、寂しいと――。

 あたしの目から、ぽたぽたと涙が落ちた。
 ずっと泣くものかと思っていたのに、共鳴したように涙が止めどなく落ちる。

 そしてあたしは気づいたのだ。
 
 ああ、あたしは――
 こんなに泣くほどに悲しかったのだと。

 天使の歌声こそが、あたしが押し殺していた感情。 
 泣くことが許されなかった、あたしの心情。

 あたしも人間なのだと。
 あたしの行き場のない悲しみに、気づいて欲しかったと。

「うわああああああああ!!」

 心が決壊したように、あたしは泣いた。

 旋律が力強いものへと変わる。

 天使は泣いているあたしに、戦えと負けるなと言っている気がして、あたしは今の状況を打破する力を与えられた――。
  
「また、歌を聴きたいわ。あなたはこの近所に住んでいるの?」

 天使は意味ありげに笑うと、さらさらとした長い髪を揺らしながら軽く頭を左右に振り、また歌い出した。

 それはクリスマスでよく流れる合唱曲。
 ベートーヴェン 交響曲第9番「歓喜に寄す」。

 Freude, schöner Götterfunken,
 (歓喜よ、美しき神々の煌めきよ)

 Tochter aus Elysium,
 (楽園から来た娘よ)

 Wir betreten feuertrunken, 
 (我等は炎のような情熱に酔い)

 Himmlische, dein Heiligtum!
 (天空の彼方、貴方の聖地に踏み入る)

 歌い上げた声は、……艶やかな男の声域テノール

 女の声から男の声まで、天使は様々な声域がある声を持っていた。

 少し聞いただけで声帯模写まで出来る彼女は、天才だ。

 彼女の歌声は、きっとたくさんのひとの心を救う。
 歌うことで救済する天使だ――。

 彼女は、尋ねても他の自分についての情報をなにひとつあたしに授けなかった。

「明日この時間また来るから教えて――」

 そう言った時、ひとの声がしてサングラスをかけた恰幅のいい黒服の男が三人現われた。あたしに助けを求めるように片手を伸ばす彼女の口を、黒服のひとりが白いハンカチで塞ぐと、天使はぐったりとして、別の黒服の肩に担ぎ上げられて。

「これは夢だ。死にたくなければ、忘れろ」

 三人目の男にナイフを喉に突きつけられ、嗄れた声に威嚇されたあたしは、ただコクコクと首振り人形のように頷くことしか出来なかった。

 久方に芽生えた感情の〝恐怖〟に、あたしはどうしていいのかわからなかった。無感情であれば、恐らく死に対する恐怖もなかっただろうに。

 地面に尻餅をついて涙を流すあたしは、ただ……あたしの心を救ってくれた天使が拉致られたのを、見ているしか出来なかったのだ。


 ……後日、あたしは偶然に、天使のことを知る。

 天使はあたしと会った3日後、別の公園のゴミ箱から、喉を抉られ頭だけ刃物で切り落とされた姿で発見されたのだ。

 その顔の頬には――

 「Elysion」

 という英字を、鋭利な刃物で刻印されていたという。
 
 口からは赤い血が滴り落ちていたが、それは石榴ザクロの汁であったことがあとでわかったそうだ。

 ……今でも彼女の歌が思い出される。
 近所に住んでいるかと聞いた時に彼女が歌った歌を。

 Freude, schöner Götterfunken,
 (歓喜よ、美しき神々の煌めきよ)

 Tochter aus Elysium,
 (楽園から来た娘よ)

 Elysiumとはラテン語で、ギリシャ語のElysion(エリュシオン)のこと。

 彼女とElysionはなにか関係あるのだろうか。
 それが気になって仕方がない。

 もしかして彼女は、なにかを伝えていたのではなかったのかと。

 それは今から九年前の夏、平和だった地元で騒がれた事件。
 ……犯人はいまだ見つかっていない――。

 あの時あたしが、ひとを呼べば。
 あの時あたしが、男達に恐怖しないで戦えたら。

 警察に何度も訴えたが、サングラスと黒服と嗄れた声だけでは、証拠不十分としてとりあってくれず、天使に戸籍がなかったことから、身元不明でなにひとつ解決の糸口になるものはなく、事件そのものも迷宮入りとして消え去ってしまった。
 
 あたしが天使を殺した。
 あたしの心を救ってくれた、エリュシオンの天使を――。
  
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