エリュシオンでささやいて

奏多

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第8章 Loving Voice

 2.

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「やだ」

 そう言ったのは裕貴くんで。

「だって、棗姉さん仲間じゃなくて友達だもの。須王さんも柚も姐さんもクマのおっさんも、柚を守ろうとする奴はすべて俺、もう友達だし」

「裕貴くん……」

 鼻の奥が熱くなってくる。

「私も……ストレートに客観的に助言出来る〝友達〟がいてもいいと思ってます。生死を共にして戦ってきたんだから、今さらですし。気にくわないところはあるけど、それはお互い様。でも心の友達は柚だけだけどね」 

「奈緒さん……」

「棗!」

 突然須王が声を張り上げた。

「聞いてただろう?」

 彼が顔をねじ向けた後方には……いつの間にか寝ていたはずの棗くんが、壁に背を凭れさせるようにして立っていた。

 結んでいた髪が頬にかかり、なんだか色っぽい。

「聞いてたわよ」

 棗くんは笑って、片手をひらひらさせた。

「プライド高い早瀬須王が頭を下げるところなんて貴重。写メしたかったわ」

「……棗!」

 唇を吊り上げながら、棗くんはあたし達を見て言った。

「口が悪いふたりをよろしく」

 ……中々にこのひとも素直じゃないな。

「お前、俺をそこにいれるか!?」

「ええ、須王とは一蓮托生。私もいつか、須王のために頭を下げるから。だから皆さん、ふつつか者ですが須王をよろしく」

「だからお前だろ!?」

「ふふふ」

 ふと、棗くんと目が合った。

 棗くんはじっとあたしを見て、目をそらした。
 それを須王がじっと見ていて、棗くんは急に笑い顔になった。

「ほらほら須王。上原サンが妬いちゃってるわよ?」

 あ、あたし!?

「妬いたのか?」

 ダークブルーの瞳がこちらに向く。

「い、いや、全然」

 すると須王の口が不満そうに曲がり、

「だって、友達でしょう?」

「俺は三芳にでも妬く」

 じとりという目がこちらに向く。

「な、な!」

「まあ大胆になったわね、須王。だけど知ってる? 言えばいいっていうもんじゃないのよ。ほら、上原サン引いている」

「は!? なんでお前が、後退(あとずさ)るんだよ!」

「い、いや……なんとなく?」

「お前、ちょっと来い!」

「へ、へ!?」

 なんで怒りの矛先があたしに向いたの!?

 助けを求めれば、にこにこと微笑む棗くんと裕貴くんと女帝の姿。
 
「「「いってらっしゃぁい!!」」」

 なにか悪意のような快い応援を受けながら、仮眠室に連れられたのだった。



 そして――。

「んぅぅっ」

 ベッドに腰掛けた須王の膝の上に向き合うように、跨いで座らせられたあたしは、抱きしめられながら激しいキスを受けた。
  

「ちょ、な……ぅぅんっ」

 あまりに性急で荒い口づけは、本能的にあたしの身も心も須王に食らい尽くされてしまいそうな怯えを感じながらも、そうさせているのがただの欲情ではないことを身体で感じ取ったあたしは、彼の両頬に手を添えて、自分から舌を絡めてみた。

 大丈夫だから、あたしはいなくならない。
 だからゆっくりと落ち着いて。

 ……それが通じたのか、彼から力がなくなり、項垂れるようにして須王の頭があたしの右肩に埋まった。

「悪ぃ」

 肩が熱い。

「須王も昔のこと思い出して辛くなった?」

「………」

「無理とは言わないけど、言って楽になることもあるから」

「……棗さ」

 いやいや、あなたの話だったんですが。

「元々はあんなに酷い発作ではなかったんだ。まあ昔を思い出したりすれば、不定期に突然ぶっ倒れたり痙攣を起こすことはあったけれど。ああやってひとに噛みついたり攻撃的な要素が付加した最初の時が、九年前だった」

 須王の右手があたしの首の後ろ側に巻き付く。

「そしてそれはよくなって、次に攻撃的になったのは……二年前からなんだ」

「うん?」

「俺がエリュシオンでお前と会った時に再発した」

 須王はなにを言おうとしているんだろう。
 その声調は、苦しげなもので。

「しかもお前を抱き始めた三ヶ月後にあいつ、海外に行っている」

 須王はぎゅっとあたしを抱きしめた。

「須王……?」

「……俺、ただ……棗に、自慢したかったんだ。あいつにだけは、俺……、お前が好きだと、俺の心を正直に話していたから。だから、本当に……気が遠くなるくらいの長い間、夢にまで出た好きでたまらねぇ女と心が通じたのが嬉しくて、ガキみてぇに浮かれまくって。……あいつに見せたかったんだ。俺が、どんなに嬉しいのか」

「……っ」

「あいつにだけは、見て貰いたかったんだ。あいつは俺を励まし続けてくれたから。俺がお前を手に入れられてどんな気持ちなのか、あいつはわかってくれるから。あいつには正直に伝えたかったから。だから俺……」

 あたしは須王の背中を撫でた。
  
「だけどもしかしたら、俺は調子に乗りすぎて、あいつに酷な仕打ちをしていたかもしれねぇ。今も昔も……」

「酷?」

「ああ。あいつは簡単には本音を顔に出さねぇんだ。だけど、さっきのあいつの目……弱っていたから特に顕著で、隠しきれてなかった」

「なにが見えたの?」

 ふと、この部屋に連れられる直前、須王が棗くんをじっと見つめていたことを思い出した。
 
 まさか、あれのこと?
 でもあのあと須王は、結構いつものように棗くんとポンポンと会話していたような。

 あたしが棗くんに妬くとか、須王が女帝に妬くとか。

 あそこに、どんな違和感があったというのだろう?

「お前、なにも感じねぇ?」

 あたしの背中に彼の指が立てられた。

「なにを?」

「お前に対する、棗の気持ち」

 須王の声は悲壮さに震えていた。

「好意は貰えていると思うけど」

「……それ以上は?」

 あたしは訝しげに眉根を寄せた。

「……ちょっと待って。棗くんを変に邪推しないでよ」

 しかし同意の言葉が返ってこない。
 さすがにそれはないでしょう。

 好きか嫌いか聞かれたら、棗くんは好きだけれど、異性として意識したことなんてない。なによりあたしは須王が九年前から好きだったのだから。

 しかも棗くんと怪しい雰囲気になったり迫られたり、そんな空気になったことはないし、同い年でありながら妹みたいに扱われていると思う。

 しかも棗くんは、須王を理解してくれとあたしに言って、色々と須王のことを教えてくれたんだよ。告白しようとしているあたしの背中を押してくれてもいたんだから。

 その須王と仲がいいという友達と仲良くなったからと、どうしてそれがおかしな方向に曲がっていくのか。

 もしかして棗くんの顔を温かいタオルで拭いて、少しの時間傍にいたからそんなことを言い出したのだろうか。  

「あのね、棗くんは昔を思い出したから辛くて弱っていたの。あんなになるまで我慢していたの。だから誰かに縋りたくなるのはおかしくないでしょう? あたしは看病の真似事をしただけよ」

「………」

「それにね、棗くんが愛情を持っているのはあたしではなく、あなただと思う。おかしな意味じゃなくて。あなただってそうよ。あたしは、棗くんほどあなたのことを知らない。あたしが知るのは高校の時の数ヶ月と、二年前に再会してからの音楽家としてのあなたと、半年前からの借金の肩代わりに抱かれていたあなたくらいしかわからないもの。だけど棗くんはきっとあなたをすべて知っている」

「………」

「あなたが十二年かけてあたしに届けてくれた想いすら、棗くんは既に知っていたんだもの。それに……須王、まだあたしが聞いていないからあえて言わないことが少なからずあるでしょう」

「……っ」

 びくっと震えたことから、やっぱりまだあるのか。

「だけど〝一蓮托生〟の棗くんはそれをきっと知っている。あなたから話したわけじゃないにしても、棗くんはそれを察して聞けたんだわ。あなたをちゃんと理解出来ているから。……あたしはまだ、それが足りない」

「………」

「やっぱりあたし、棗くんに妬いているのかな」

 須王はあたしの首筋に、強く吸い付く。
 ひゃっと声を出すと優しく唇を押しつけてから言う。

「俺、棗の望むものはなんでもやりてぇよ、金でも名誉でも音楽でも。だけど、お前だけは無理だ。どう考えても受け入れられねぇんだよ。棗に譲る俺の姿を想像しただけで、狂い出しそうだ」

「……っ」

 ねぇ、不謹慎かな。
 彼の独占欲が、彼の嫉妬が嬉しいなんて。

 あたしを離さないでずっと愛して、など思うのは。

「俺、お前が思っている以上に、本当にお前のことが好きでたまらねぇんだよ。お前に会いてぇ一心で、必死に生きてきた。お前が俺の生きる光だったんだ。ようやく手に入った光を失ったら俺は――」

 悩ましいため息が耳を掠めた。

「俺はきっと、ひとでなくなっちまう……」
  
「須王……」

「組織という猛毒は、組織を抜け出ても心身を蝕んでいる。俺にとってお前は、棗にとっての薬なんだ。お前が他の男のものになるのなら、俺の元にいねぇのなら……きっと俺は発狂して壊れるだろう。そんな俺が、容易に想像つく」

 それは切実な声で。

「だから余計俺は、お前をあいつにやれねぇんだ。俺が人間として生きるためにも、お前が必要だから……。そう思えば、棗を見殺しにするのかと別の俺が叫ぶ。だけど俺は――」

 須王の葛藤。
 声が悲痛さに震撼していた。

「ねぇ須王。棗くんは女の子の格好を選んでいる時点で、女の子なんじゃないの? だったらあたしを好きになることはないよ。それにあたし、棗くんと接点なかったんだよ?」

「棗は男を捨てたわけじゃねぇよ。あの姿があいつのアイデンティティーの証明になるから、あの格好をしているだけで。それに十二年前……、棗は迷いなくお前を連れてきた。外界の人間に助けを求めれば、殺されることがわかっているのに、お前のところに行った。あいつ、もしかしてそれより前から……」

「いや、それはあたしがたまたま近くにいたからでしょう? 助けを求めないといけないほど、あなたの傷は酷かった。思い出せば、血が止まらないからかなり危険な状態だとお医者さんが言って必死に手当してたのよ。棗くん判断がなければ、組織に戻る前にあなたはあの雪の日で死んでいたわ。確か棗くんも怪我をしていたから、ふたりで失血多量で死亡ね」

「でも……っ」

 しかし須王は食い下がる。

「ねぇ須王。大丈夫だって。そんなに不安になることはないから。あなたはあたしも棗くんも失わない」

 須王が唇を噛みしめた。

 ああ、両方失うのではないかと彼は怯えているのか。

「大丈夫よ。あたしはあなたの傍にいて、あなたと棗くんはずっと仲良しで、ずっと笑いあってこの先もいけるから。ほらいつもの自信満々の偉そうな王様に戻りなさいよ。あなたは冥王ハデスなんでしょう?」

「……なんだよそれ。……だけど棗だから不安になるんだ。他の男なら蹴散らせられるし、奪われる真似はしねぇと断言できるのに」

 ……断言しちゃえるんだ。

 あたしの意志は関係なさそうだね。
 ……まあ、他のところに行きたいとも思ってはいないけれど。
  
「だけど俺が、よりによってこの俺が。あんなになるまで棗を苦しめさせていると思えば……」

「でも、あたしは須王しか愛さないよ。棗くんが可哀想だからと、棗くんを男として好きになりたいと思わない。それは憐憫、棗くんが欲しいものなのかな。棗くんの尊厳を傷つけるものだとは思わない?」

「……っ」

 あたしは身体を離し、彼の前髪を掻き上げながら、ダークブルーの瞳を覗き込んで言った。

「もし仮に、百歩譲って棗くんがあたしを恋愛感情を持っていたとしても、結果は同じ。あたしは須王以外に奪われない」

 断言したあたしの唇は、彼に奪われた。
 動物的に唇に舌をねじ込ませて暴れさせる彼から、狂おしいほどの愛情を感じて、あたしは涙した。

 あたしはこの愛情を愛したい。
 
 唇が離れて、淫らな銀の糸がぷつりと切れた。

「俺で、いいの?」

「嫌だと言って許してくれるの?」

「許さねぇよ、そんなの!」

 あたしはけらけら笑った。

「あたしは、九年もあたしを傷つけて、嫌がるあたしを性処理だと無理矢理抱いてきた憎い男が好きなの。嫉妬深くて独占欲が強くて、皆の前でもキスしてくる野獣みたいな男がとっても好きなの。こんな面倒臭い男を好きになるなんて、すごく物好きだと思うわ、自分でも」

「……結構、ぐさりとくるな」

 須王は苦笑する。

「でもあなたの言葉を信じてしまったの。あなたの愛を感じてしまったの。あなたの音楽から心を受け取ったの。……あなたはあたしの傷を償って貰うためにあたしから離れられない。そしてあたしも借金のためにあなたから離れられない。だから不可抗力的に離れられないわ」

 切なげなダークブルーの瞳が揺れている。

「しっかりしよう、須王。あなたがぶれると棗くんもぶれる。言ったでしょう、あたし。棗くんにそっぽ向かれたらプライベート用のスマホに渉さんしか機能しなくなるって」

「それは嫌だ」

 即答だった。
 どれだけ渉さん、嫌われているのか。
  
「組織の話がちらつく度に、棗くんの心も不安定になる。その度にあなたまでも揺れちゃ駄目。棗くんのためにもならないわ。棗くんが好きなら、ひっぱっていってあげなくちゃ。闇から光へと。少しでも早く回復出来るように。彼を邪推して、彼に怯えてはいけない。棗くんが好きなら、いつも通り接しよう。それが棗くんの望みであると思うから」

 須王が眩しそうにあたしを見て、ふっと口元を綻ばせて言う。

「そういうところなんだよな」

「え?」

「俺がお前に惚れたのは、お前の天使みてぇな姿と親切だけじゃねぇ。可愛い声をして、かなり核心を突く言葉で引っ張り上げようとする力だ。闇にもがく者は、そうした力に憧れて欲しくなる」

 視線が絡む。

「欲しいよ、お前の心も」

 再び唇が重なった。

「冥王ハデスがペルセフォネーをなんとしても妻にしようと、冥府に強奪して閉じ込めようとした気分がわかる。俺は、どうしてもお前が欲しい」

「あたし、無力な平凡女だよ?」

「それを言うのなら、俺は平凡どころか、お前の前で格好悪いところしか見せれてねぇよ。だけどこんな俺を叱咤して、まるごと愛してくれ――」 
 
 あたしやっぱり、棗くんはあたしより須王の方が好きだと思うの。

 誰よりも強く毅然としていて、だけどどこか繊細な脆さを秘めている彼は超人ではなく、やはり愛されるべき人間なのだ。

 だから須王、安心して。

 あたしも棗くんも、あなたの傍にいるから。
 あなたの頑張りを見ているから。
 


 ……あたしは失念していた。
 物騒で危険の中で育った須王の予感にも似た不安は、妄想ではないことを。

 彼の本能が告げるものであるのなら特に、彼の身に降りかかる危険である可能性が高いことを。

 そしてあたしは、棗くんの居る状況と現在の精神状態がどんなものかを把握しようともしていなかったのだ。

 今彼がどんな状況の中にいて、あたしを助けるために協力しているのか。

 彼の献身を彼の犠牲を、彼という防波堤を失った時に寄せる波がどんなものか、なにひとつ考えちゃいなかったんだ――。

 
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